80 天堂家
翌朝、新宿駅西口改札前に集合した光太郎、龍次、悠人の三人は、遠く重い雲が垂れ込める空を見上げながら小田原駅へと向かう電車に乗り込んだ。車窓から眺める都市の風景は次第に緑豊かな郊外へと変わっていくが、厚い雲に覆われた空は一向に明るくなる気配を見せない。むしろ西へ向かうにつれて雲は一層重々しさを増し、まるで目的地である箱根の山々がなんらかの不穏な気配を孕んでいるかのようだった。
小田原駅で下車した一行は、芦ノ湖方面へと向かうバスに乗り換えた。平日の昼間ということもあってか、バスの車内には他に乗客の姿はなく、三人だけがぽつんと座席に腰を下ろしている。運転手とも必要最小限の挨拶を交わしたのみで、車内には走行音だけが響いていた。
バスは曲がりくねった山道をゆっくりと登り続ける。平素であれば美しい自然が出迎えてくれるはずの箱根の山々も、今日はどんよりと曇った灰色の空と立ち込める霧に覆われて、気を抜けば神隠しにでも遭ってしまいそうな陰鬱な雰囲気に支配されていた。
車窓の外を流れる景色は、まるで墨汁をこぼしたかのようなモノトーンで、時折霧の切れ間から見える木々も生気を失ったように見える。
「なんか嫌な感じの天気だな」
悠人が小声で呟くと、龍次も無言で頷いた。三人とも同じような不安を感じているのだろう、普段なら賑やかなはずの悠人も今朝から口数が少ない。
やがてバスは元箱根のバス停に到着した。降り立った三人を待っていたのは、黒い礼服に身を包んだ年配の男性だった。腰を深く折って丁寧に一礼する姿は長年名家に仕える使用人の風格を漂わせている。
「遠い所をお疲れさまでございました。龍次様、ようこそお越しくださいました。お供の方々もご案内致します」
「あぁ、よろしく」
龍次の素っ気ない返事とは対照的に使用人は慇懃に礼を尽くしながら、一行を停車中の黒塗りの乗用車へと案内した。高級外車の重厚な扉が開かれると、革張りのシートと木目調の内装が目に飛び込んでくる。どうやら天堂家は相当な資産家のようだ。
車は静かなエンジン音を響かせながら山間の道を進んでいく。窓の外を流れる景色は霧が深くなりより幻想的に見えるが、同時に現実感を失わせるような不気味さも感じられた。十分ほど走ると、車は重厚な門構えの前で止まった。
ゆっくりと開いた門をくぐった先に現れたのは、想像以上に大きな和風のお屋敷だった。母屋は数百年の歳月を経た古い建築様式で、黒く煤けた太い梁と白壁のコントラストが威厳を醸し出している。しかし威厳と同時に色を失ったこの世界では立派ではあるが、どこかもの悲しい印象を拭えない佇まいだった。
「すげぇ! 龍次さん、あんたいいとこのお坊ちゃんだったんだな!」
悠人があんぐりと口を開けて屋敷を見上げる。その反応は純粋な驚きというより、畏怖に近いものがあった。
「だから来るのは初めてだって言ってんだろ、おら行くぞ」
「痛てぇ!」
龍次に軽く小突かれた悠人が頭を擦りながら着いて行く。だが光太郎だけは屋敷を見上げたまま黙り込んでいた。
「どうした? 光太郎」
龍次が心配そうに声をかけると、光太郎はふとなにかを警戒するように辺りを見回した。確かに誰かに見られているような視線を感じるのだが、周囲には使用人以外に人の気配はない。屋敷の窓という窓も雨戸が閉ざされており、しんと静まり返っている。
「いや、なんでもないよ。行こうか」
「おう」
光太郎は首を振って気を取り直すと、一行は使用人の案内で屋敷の玄関へと向かった。その時、屋敷の物陰から一匹の黒い鼠がひょこりと顔を出した。普通の鼠とは明らかに違う赤くほの暗い瞳で、少年達の後ろ姿をじっと見つめていた。
玄関を上がった一行は、ギシギシと鳴る年季の入った長い廊下を進んでいく。廊下の両側には多くの部屋があるはずなのに、どの部屋からも人の気配が感じられない。まるで住人全員が突然消えてしまったかのような静寂が屋敷全体を支配している。
案内された部屋は八畳ほどの和室で、古い座卓と座布団が置かれているだけの質素な造りだった。昼間だというのに部屋は薄暗く、天井から下がる古い電灯が頼りない光を放っている。
「じきに旦那様がお呼びになりますので、自由にお寛ぎください」
年老いた使用人はそう言うと、音もなく部屋を後にした。三人は座卓を囲んで腰を下したが、どこか落ち着かない雰囲気が部屋を満たしていた。
「初めて来たが陰気臭いとこだぜ、ここはよぉ」
龍次が眉をひそめながら呟く。確かに屋敷全体から漂う空気は重苦しく、生気に欠けている。
「そもそも人の気配がしないですよね」
悠人も同じことを感じているようだ。これほど大きな屋敷なのに、先ほどの使用人以外の人間の存在を感じられないのは不自然すぎる。
「……二人とも気が付いているかい? ここはもう既に現実と霊界の境界が曖昧になっているみたいだ」
光太郎の静かな声が部屋に響いた。その言葉に、龍次と悠人の表情が一変する。
「なに! それは本当か?」
「うん、間違いないよ。でもいきなり襲い掛かってこないのを考えると、なにか目論見があるみたいだね」
光太郎の霊感が告げる警告に、二人の緊張は一気に高まった。それぞれが己の愛灯を握りしめ、いつでも抜けるように構えた。
「そういえば、龍一さんや凛は無事なんだろうか」
悠人の疑問はもっともだった。半分魔界と化しているこの屋敷にあっては、なにが起きても不思議ではない。
「ふん、上等だ! わざわざ待ってやる必要はねぇ! こっちから乗り込んでやる!」
「焦ってはいけないよ龍次君!」
龍次が短気を起こして勢いよく立ち上がると、部屋を飛び出していく。光太郎と悠人も慌ててその後を追った。
龍次は屋敷の襖を次々に開けて回った。客間、書斎、仏間、台所――どの部屋も人の気配はなく、それどころか生活の痕跡さえ感じられない。まるで何年も前から誰も住んでいないかのような有様だった。
「チクショウ! 誰だ俺の実家で悪さしてやがるのは! 出てきやがれ!」
龍次が口角泡を飛ばして悪態を吐いた時、予想もしなかった返事が響いた。
「くくく……妾腹のガキがよく吠えるわ、そう喚かんでもじきに会えるさ。そう、じきにな」
どこからともなく聞こえるねばつくような男の声に、三人は身構えた。その声色には底知れない悪意と嘲笑が込められており、聞く者の背筋を凍らせるような不気味さがあった。
周囲の空間がぐにゃりと歪み始める。上が下になり下が上になり、天地左右の感覚が完全に失われていく。廊下の壁は波打つように揺れ、天井は螺旋を描きながら遠ざかっていく。三人は必死にバランスを取ろうとしたが、重力の方向すら定まらない異常な状況では抗うことも叶わない。
やがて視界は完全な暗闇に包まれ、三人の意識は深い闇の底へと沈んでいった。まんまと敵の術中に嵌まってしまったのである。
暗転する意識の中、光太郎は一人静かに祈りを捧げていた。