73 弔問
朝の保健室にカーテンの隙間から差し込む陽光が一筋の帯となって伸びていた。光太郎は瞼の裏に感じる柔らかな光に導かれるように、ゆっくりと意識を浮上させた。見慣れない天井だった。
ここはどこだろうと思考を巡らせていると、ベッド脇で書類を整理していた保健室の先生が光太郎の覚醒に気付いた。
「あら、目が覚めたのね。少し待っていて」
白衣を翻して保健室を出ていった先生は、程なくして十三班の担任である依子を連れて戻ってきた。依子の表情には安堵と心配が入り混じっていた。
「光太郎君、大丈夫? 気分はどう?」
優しい声音に応えようと上体を起こしかけた瞬間、全身に鈍い痛みが走った。まるで体中の筋肉が悲鳴を上げているかのようで、思わず顔を歪めてしまう。
「あぁ! 無理しなくていいよ! 治療はしたけれど君が一番酷い状態だったんだからね!」
依子は慌てて光太郎を労わった。
「ご心配おかけしてすいません、他のみんなは?」
「全員無事よ、体の方はね。でも帰って来たみんなに後で説明を聞いたけれど、多かれ少なかれショックを受けているみたい」
依子の言葉には教師としての憂慮が滲んでいた。滑川達は体こそ無事だったが、命を賭けた戦いの後に友との永遠の別れがあったのだ。精神的外傷があるのは当然と言えた。
「……そうですか」
光太郎は静かに目を伏せた、霊界で見た沢田の最後が脳裏に蘇る。
「三日後に沢田君のお宅へ弔問に伺うことになっているわ、光太郎君はどうする?」
「行きます」
即答だった。依子は予想していたかのように頷いたが、その表情には複雑な感情が浮かんでいた。
「事前に訪問予定の電話をさせてもらったんだけどね、お母様が酷く取り乱してらしたからいい思いをしないと思うわ。それでも行くの?」
光太郎は穏やかに微笑んだ。その笑顔には、覚悟と力強さが宿っていた。
「もちろんです」
「光太郎君ならそう言うと思ったわ。わかった、じゃあ当日は礼服で朝一に学校集合でよろしくね。引率は私がするわ。沢田君がいなくなる時の担任も、私だったから」
最後の言葉に依子の声が僅かに震えた。二年前沢田少年が忽然と姿を消した時、彼女は必死に捜索に加わっていた。そして今、巡り巡って永遠の別れを告げる役目を担うことになったのだ。
「そう、ですか。よろしくお願いします」
依子は努めて明るく振る舞っていたが、その瞳の奥には隠しきれない悲しみが宿っていた。保健室を後にする彼女の背中が、いつもより小さく見えた。
三日後の朝、梅雨の晴れ間が広がる空の下、光太郎は新宿灯青校の正門前に立っていた。白の制帽、制服、白手袋に身を包んだ姿は、普段の学生服とは異なる厳粛さを纏っていた。
既に滑川、中田、佐々木、八塩の四人が同じ装いで集まっていた。霊界で共に戦い、生死の境を潜り抜けた仲間達だ。誰もが無言で、それぞれの思いを胸に秘めていた。
依子が最後に到着すると、六人は隊列を組んだ。先頭に依子、二番目に校旗を畳んで乗せた桐の箱を持つ光太郎、そして残りの四人が続く。朝の静寂を縫うように彼らは粛々と歩み始めた。
駅へと向かう道すがら、街の人々の視線が彼らに注がれた。白い制服に身を包んだ若き灯士達の行進が意味するものを、誰もが理解していた。
ある老婆は道端で立ち止まり、そっと手を合わせた。サラリーマンは歩みを止めて深く頭を下げ、買い物帰りの主婦は目頭を押さえながら見送った。子供達は母親の陰に隠れながら、畏怖の眼差しで見つめていた。
電車の中でも彼らの周囲には自然と空間が生まれた。乗客達は声を潜め、視線をそらす。白い制服は若き命が散ったことを無言で語っていた。
最寄り駅に到着し再び隊列を整えて歩き始めると、いつの間にか後ろに人々が付き従っていた。近所の住民だろうか、あるいは同じ境遇の家族だろうか。誰もが無言のまま、静かに歩調を合わせて進んで行く。
住宅街の中を進むにつれ、その数は次第に増えていった。十人、二十人、そして数えきれないほどに。皆、何かに導かれるように、ただ黙って付き添った。
沢田邸は閑静な住宅街の一角にあった。二階建ての瀟洒な家は、かつては少年の笑い声で満ちていたのだろうが、今は重い沈黙に包まれている。
門前に到着すると、依子は深く息を吸い込んだ。光太郎は彼女の僅かな緊張を感じ取った。二年前、この家を何度か訪れたであろう彼女にとって、今日の訪問は特別な意味を持つ。
依子が呼び鈴を押す。チャイムの音が静寂を破って響いたが、返事はない。もう一度押しても同じだった。仕方なく玄関の引き戸をノックする。コンコンコンという音が、やけに大きく感じられた。
「ごめんください」
依子の声にも反応はない。しかし、扉の向こうに人の気配があることは確かだった。息を殺して、じっと身を潜めているような気配がする。
三度目のノックの後、ようやく小さな返事があった。
「……どうぞ」
依子がゆっくりと引き戸を開けると、薄暗い玄関の奥に二つの人影が見えた。
「ごめん下さい、失礼します」
座布団の上に正座する中年の男女。間違いなく沢田秀一少年の両親だった。父親は背筋を伸ばし、毅然とした態度を保とうとしているが、その目は充血し、頬は痩せこけていた。母親は俯いたまま、魂が抜けたような虚ろな表情で座っていた。
依子を中心に、左に光太郎、右に滑川が並び、その後ろに八塩、中田、佐々木が控えた。玄関の外では、付いて来た人々が息を潜めて見守っている。
重い沈黙が流れた。依子は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「ご無沙汰をしておりました。私達が今日ここに来ましたのは、ご子息である秀一君の勇気と献身を称え……」
その瞬間、今まで石のように動かなかった母親が激しく顔を持ち上げた。
「嫌よ、なにも言わないで! なにも言わずに今すぐ帰ってちょうだい!」
絞り出すような叫びだった。二年間の苦悩と絶望が、堰を切ったように溢れ出す。
「よさないかみっともない!」
父親が一喝してこれを制した。依子は動じることなく、静かに見守っていた。
「……どうぞ続けてください」
父親の促しに、依子は再び語り始める。
「秀一君は多くの困難を乗り越え、学校のみならず国と地域、人類に貢献されました。尊き使命に命を捧げて――」
「聞きたくないわ! あの子が死んだなんて嘘よ! 嘘! 本当はどこか別の所にいるんでしょ! ねぇ返して! あの子を返してよ!」
母親は立ち上がり、よろよろと依子に向かって歩み寄った。その手が依子の襟元を掴む。力のない、しかし必死の懇願だった。
「やめなさい!」
バシンという音が玄関に響いた。父親の平手が妻の頬を打ったのだ。母親は力なく崩れ落ち、嗚咽が漏れ始めた。
光太郎は静かにその光景を見つめていた。霊界で見た沢田少年の笑顔と目の前で泣き崩れる母親の姿が重なる。少年は最後まで両親のことを思っていたに違いない。だが今、自身の口でその思いを伝える術はもうないのだ。
玄関の外では集まった人々が無言で手を合わせていた。ある者は涙を流し、ある者は拳を握りしめている。灯士という職業が背負う宿命の重さを、ここにいる誰もが実感していた。