72 別離の刻
私も行く、僕も行くと子供達の声は膨らみ始めて、いつしかそれは悲鳴に近い響きを伴って主無き霊界に満ちて行った。
霊界門の周囲は、まるで嵐の前の静けさが破られたかのような騒然とした空気に包まれていた。無数の子供霊達が門へと押し寄せようとする光景は、さながら決壊寸前の堤防のようだった。その中で、沢田はいち早くこの危機を察知して自身の持ち物を託した。
「まずい、もう時間がないみたいだ。君達にお願いがある、どうかこれを持って行ってくれないかい」
沢田は懐から古びたノートを取り出した。表紙には幾重にも折り目がつき、ページの端は擦り切れていた。中田が両手でそれを受け取ると、ノートの重みが彼の手のひらに伝わってきた。それは単なる紙の束ではなく、沢田がこの霊界で過ごした日々の証だった。
「これは?」
滑川が前のめりになって尋ねた。
「ここに来てからの記録だよ、完全じゃないけれど行方不明になった子供達のことなんかが書いてある、向こうに行ったらぜひ役立ててほしい。それとーー」
沢田は腰に下げていた降魔灯を外した。橙色の光を放つその灯りは、彼の魂そのもののように優しく、そして力強く輝いていた。手の空いている佐々木に、まるで生まれたばかりの赤子を託すような慎重さでそれを渡した。
「これを僕の両親に渡してほしいんだ。頼めるかな」
佐々木の目に涙が浮かんだ。彼は震える手で降魔灯を受け取ると、深く頷いた。
「えぇ、任せてください! 必ずお届けします!」
「うん、よろしくね」
佐々木は恭しく降魔灯を胸に抱くと乱暴に袖で涙を拭った。
沢田の背後では彼と共に霊界で過ごしてきた仲間の子供霊達が、決意に満ちた表情で整列し始めていた。彼らの瞳には、もはや迷いの色はなかった。
「さぁみんな、ここは僕達に任せて行ってくれ! 後ろを振り返っちゃだめだ!」
八塩が一歩前に出た。彼の顔には、少年から青年へと成長した者だけが持つ凛とした表情が浮かんでいた。
「沢田さん、みなさん、お世話になりました」
健太が拳を突き出した。つくろった元気な笑顔の奥に、別れの悲しみが滲む。
「マサル! じゃーな!」
「おう! 元気でな!」
マサルと呼ばれた子供霊が、精一杯の笑顔で応えた。その笑顔は、もう二度と会えないかもしれない友への、最高の餞別だった。
八塩はいち早く遅れるであろう松本姉妹や健太の面倒をみながら門へ向かって駆けだした。彼の背中は、もはや守られる側ではなく、守る側の者のそれだった。
その姿を見て触発された未練ある子供霊達は、まるで堰を切ったようにこぞって霊界門へと殺到した。しかし、門の前には沢田と彼の仲間達が立ちはだかった。小さな体を精一杯広げて、必死に押し寄せる波を食い止めようとしていた。
「どけよ、なんで邪魔するんだ! 僕もママのところに帰るんだ!」
一人の子供霊が泣き叫んだ。その声には母親への切ない思慕と、阻まれることへの怒りが入り混じっていた。
「だから戻る体がないって言ってるだろ! 帰ってもお前のお父さんお母さんとはもう二度と話はできないんだぞ! それに霊になっても現実界にいると閻魔大王様に怒られちゃうんだぞ!」
沢田の仲間の一人が、必死に説得を試みた。彼もまた、かつては同じ思いを抱いていたのだろう。だからこそ、その言葉には実感がこもっていた。
「知らないよそんなこと! お前達には関係ないだろ!」
「関係あるね! なにせ僕らはちびっこ灯士隊だからな!」
別の仲間が胸を張って宣言した。その小さな胸には確かな誇りと使命感が宿っていた。
「そうだそうだ! ここから先にはいかせない!」
沢田を中心に門の前を陣取った仲間の子供達は曼荼羅のように散らばって結界を張った。彼らの配置は自然と半円を描き、その中心に沢田が立った。
すると、空気が震え始めた。子供達の体から、赤みがかったオレンジ色の光が立ち上り始める。それは最初、蝋燭の炎のように小さく揺らめいていたが、次第に勢いを増し、やがて篝火のように力強く燃え上がった。
光の中から、巨大な影が立ち上がった。憤怒の形相を浮かべながらも、その瞳には深い慈悲を宿した不動明王が、荘厳な姿を現した。右手に持つ剣は正義を、左手の羂索は救済を象徴していた。背後の炎は、煩悩を焼き尽くす智慧の炎として、静かに、しかし激しく燃えていた。
不動明王の視線が、押し寄せようとする子供霊達を見据えた。それは叱責ではなく、道を誤ろうとする者への慈愛に満ちた戒めだった。その威厳に圧倒され、誰も門までは近づけなくなった。
滑川達は感情を押し殺してひた走る。振り返りたい衝動を必死に抑えながら、ただ前だけを見つめて走った。光太郎を背負った滑川の足音が、霊界の地面に規則正しく響いていた。
その時、沢田の声が空間全体に響き渡った。
「ありがとう光太郎君! 君が来てくれたお蔭で、ようやく僕達は先に進めるんだ! こんな嬉しいことはない! 滑川君達もありがとう! みんなもありがとう! 新宿灯青校に栄光あれ! 灯士の未来に栄光あれ! 弥栄! 弥栄! 弥栄ーーーーーっ!」
その声は別れの悲しみを超えた、希望への讃歌だった。沢田の激励を背後に受け、一心不乱に光太郎を背負った滑川達は駆け抜けた。友の望みの通りに歯を食いしばりながら、振り向かずに走り抜けた。
霊界門をくぐり、光の渦に包まれながら霊道を突き進む。時間の感覚が曖昧になり、上下の区別もつかなくなった。ただ、仲間達の息遣いと、離別の苦みだけが現実として感じられた。
そして、不意に足裏に固い感触が伝わってきた。砂を踏みしめる音が耳に届いた時、彼らは始めて立ち止まった。
辿り着いたのは奇しくも新宿灯青校のグラウンドだった。霊界の薄暗い空間から一転して、現実世界の夜の静寂が彼らを包んだ。辺りはすっかりと暗くなっていたが、ナイター照明が灯っており一面を明るく照らしていた。人工的な白い光は霊界で見た様々な色彩を持つ光とは対照的に単調で、しかし確かな現実感を持っていた。
遠く仰ぎ見ると黄金の月が出ていた。それは彼らが確かに元の世界に戻ってきたことを静かに告げていた。
光太郎はすっかり気の抜けた滑川に礼を言って背から降りると、ゆっくりと月に向かって合掌した。月光が彼の横顔を優しく照らし出す。閉じた両目から清らかな涙が流れ落ちた。
少年の心の中で、霊界で出会った頼もしい仲間達の顔が次々と浮かんでは消えていった。沢田の優しい笑顔、マサルの元気な声、そして最後まで自分達を守ってくれた小さな灯士達。花子さんことおつるの穏やかな微笑みも、月の光の中に溶けていくようだった。
彼は無言で、しかし心を込めて彼らの冥福を祈った。風が吹き、グラウンドの砂が巻き上がる。それはまるで、霊界からの最後の挨拶のようだった。
しばらくそうして祈っていたが張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、体力の限界が来てフラッと倒れそうになる。自然に膝が折れ、視界が霞み始めた。
だがその瞬間、温かな腕が彼を支えた。振り仰ぐと、そこには蓮佛香の姿があった。彼女はいつの間にか、まるで月光に導かれるようにして存在していた。その顔には安堵と労いが浮かんでいた。
「よくやってくれたね光太郎君、後はこちらに任せてくれたまえ」
香の声は、母親が疲れ果てた子供に語りかけるような優しさに満ちていた。彼女の腕の温もりは霊界の冷たさとは正反対であり、戻ってこれたことを実感させてくれた。
光太郎はなにかを言いかけて――香の腕の中で意識を失った。その顔には難事を成し遂げた安らかな表情が浮かんでいた。
事前に光太郎達が帰って来ることを察知した香によって、生き残っていた子供達の対応は迅速かつ完璧になされていた。望と華の母親である松子や健太の母らも既にここにいて再会を喜び、きつく抱きしめあっていた。
にわかに騒がしくなったグラウンドを、月は静かに照らし続けていた。