7 松本家
「……ねーねーお母さん、お兄ちゃんって人まだ来ないのー?」
「少し遅れるって電話あったからまだよ、気になるの? 華」
「んー? わかんなーい」
「お母さんお母さん! あたし変じゃない?」
「ええ、おめかしして美人さんよ、望」
「もーお姉ちゃんはさっきからそればっか言ってるー」
「だってお兄ちゃんができるんだよ! ずっと夢だったんだもん!」
「でも知らない人なんでしょー?」
「確かに二人は会ったことないけれど知らない人じゃないのよ、お母さんのお姉さんの息子だから本当は伯父さんね、でもまだ学生さんだからお兄ちゃんって呼ぶのよ」
「はーい!」
「それにしても変なのよね、迎えに行く約束だったのに直接家に来るだなんて。タクシーにでも乗ってくるのかしら」
時刻は日暮れ前の午後四時、東京都は西荻窪にある松本家は母子家庭である。
母の松子は市役所勤めをしており、長女望は八才で小学校三年生、次女の華は五才で幼稚園の年長だ。
二年前に夫の宗大を亡くしてからというもの、二人の娘を女手一つで育ててきた。
光太郎のことは以前から知っていたが、つい最近まで彼があの惨劇を生き延びていたことは全く知らなかったのだ。それがある日突然公安から一報を受けると彼が修学上京する際の下宿先を快く引き受けるに至る。
このことを松子が幼い娘達に話をすると二人は色めきだった。とくに姉は当日の朝からああでもないこうでもないとかしましい。本来ならば午前中に到着するはずだったが、なにかしらの遅延が発生したらしいので、家族一同そわそわしながらまだかまだかと少年の到着を待ちわびていた。
やがて家の前に車が止まる音がして、たまらずに全員玄関に集まる。ごめん下さいとかけられる声にはいどうぞと応えると、ゆっくり扉が開いた。
そこにいたのはあどけなさが残る面立ちの少年だった。全身真っ黒の学生服に学生帽をかぶり、肩に背嚢を担いでいる。彼は笑って帽子を取りペコリとお辞儀をした。
「ご無沙汰をしてます松子おばさん、光太郎です」
「いらっしゃい光太郎君、待ってたわ! さぁ二人とも、ご挨拶して」
「ま、松本望です! 六才です! よよ宜しくお願いします!」
「暁光太郎です、宜しくね望ちゃん」
「は、はは、はい!」
「うふふ、上手に言えました、昨日から練習してたもんね」
「も、もーお母さん、そういうこと言わないで!」
真っ赤な顔をしてばちばちと母を叩く長女。対して次女の華は、光太郎が挨拶した時からさっと母の影に隠れてしまっていた。
「ほら華ちゃんも、ご挨拶して」
「ん~」
「華、ちゃんとご挨拶しないとだめなんだよ!」
「え~だって~……」
ぐずぐずしている内に涙目になる華。
「ご免なさいね、下の子は人見知りするのよ」
「いえ、自分もそうだったんで分かりますよ」
その時彼が担いでいたズタ袋がゴソゴソと動いた。ああそうだと気が付いた光太郎がそれを降ろして口を開けると中から真っ白いふわふわ猫が顔を覗かせた。青い瞳が知性を感じさせる気品のある顔立ちだ。彼女は窮屈な袋から向け出して、甘い声で一鳴きした。
「ニャオン」
「あ、あー! 猫ちゃんだー! かわいー!」
「あら、その子が噂の福ちゃんね、本当とても可愛らしいわね。大丈夫よ光太郎君、ちゃんとこの子のトイレなんかも用意してあるからね」
「ありがとうございます」
「ねーねーお兄ちゃん! 撫でてもいい?」
「聞いてみてごらん、福ちゃんはとっても賢いんだ」
「福ちゃん! なでなでしていーい?」
「……ニャ」
「やったー! わーすごーい、ふわふわー!」
楽しそうな姉の声が気になるのかチラチラその様子を覗う華、それに気が付いた松子が促す。
「ほら華ちゃん、お兄ちゃんと福ちゃんにご挨拶できるかな?」
「……ん」
のっそり出て来た幼女がおずおずと口を開く。
「松本華です、三才です……華も猫ちゃん触りたい」
「ふふ、いいよ華ちゃん、優しく触ってあげてね」
「うん! あーやらか~い!」
それからしばらく少女二人にかいぐりかいぐりされていた福だったが、次第に煩わしくなったのかぴょんと跳んで光太郎の肩に飛び乗った。
「わーすごーい! 忍者みたい!」
「さ、あなた達もういいでしょ、お兄ちゃんは疲れてるんだから二階のお部屋に案内してあげて」
「はーい!」
光太郎は勢いよく先を歩く望に案内されて書斎に辿り着いた。棚には難しそうな本がぎっしり並んでいる。
「ここはね、お父さんのお部屋だったんだよ!」
「へーそうなんだ、本が沢山あるね」
「あの人本が好きだったから。光太郎君も気になるのがあれば見てくれていいのよ、その方が本も喜ぶわ。さ、着替えも用意しておいたからお風呂に入ってきて、そしたらちょっと早いけどご飯にしましょう」
「ありがとうございます」
光太郎は入浴してさっぱりした後で心づくしの家庭料理にもてなされて、楽しい時を過ごした。彼が通うことになる灯士を育成する専門校、|灯火青年師範学校中央新宿校《とうかせいねんしはんがっこうちゅうおうしんじゅくこう》に通い始めるにはまだ猶予がある。それまでの時間は東京での新しい生活に慣れるのにあてるつもりだ。
幸いなことに福の存在もあって長女の望や次女の華とも打ち解けることができた。娘二人の撫でくりに嫌そうな顔をするものの、福も割とここが気に入ったらしい。
楽しい時間はあっという間に過ぎて就寝の時間となった。
家族全員が寝静まった深夜、光太郎は静かに起き出して幽導灯を掴む。
「ニャア?」
「うん、ちょっと頭が冴えちゃってね。福ちゃんは寝てていいよ」
「ニャッ」
「あれ、付いて来てくれるの? じゃあみんな寝てるから静かにね」
「ナッ」
人差し指を立ててそろりそろりと2階の階段を降りて中庭に出る。そこには開けた空間があり、物干し台だけがポツンと置いてある。
光太郎は鞘から海王丸を抜き出すと、夜の闇を照らす鮮やかな青光が現れた。少年はそれを持って太極拳のように優雅な体捌きで舞い始める。
満天の空に瞬くシリウスやプレアデスのように煌めく幽導灯の優美な舞を、じっと白猫が香箱座りで見ていた。そしてかすかに語りかける。
「ニャン、ニャニャニャーニャ」
「……そうだね、姿は見られなかったけれどあの術者はとんでもない実力だった、恐らく真っ向から当たればものの数秒で蹴散らされたと思う。都会には凄い鬼がいるね」
「ニャニャンニャ~」
「うん、ありがとう。なにがあっても僕は諦めないよーー姉ちゃんを見つけるまではね」
「ニャア……」
静かな夜を青く優しい光が彩る。それに気が付いたわけでもなかろうが、下の子が起きて姉を揺すった。
「お姉ちゃん、ちっち行きたい」
「ん~また~? だからお水沢山飲んじゃだめって言ったでしょ」
「だってぇ~」
「いいわよ華、お母さんと行きましょ」
「んっ」
「じゃああたしも行く~」
「あらそう? じゃあみんなで行きましょう」
「はーい」
一階の寝室を出た母子は不意にベランダの向こうから差す朧気な光に気が付いた。最初に気が付いたのは華だ。
「お母しゃん、なんか光ってる」
「あら本当ね……なにかしら」
「わぁキレイ」
思わず望が感嘆の声を上げた。薄いレースのカーテンの向こう側で音もなく踊る光太郎の姿を見つけた親子は、そのまま暫く見とれていたのだった。
更新の糧となりますのでブックマークと評価の程、宜しくお願い致します。