69 おつる
母親の霊体から放たれる柔らかな光に包まれながら、花子さんは震える声で呟いた。薄明るい空の下、崩れかけた城跡に立つ二人の姿はまるで一枚の絵画のように美しく、そして切なかった。
母親は優しく微笑んで娘の頬に両手を添えた。その手は温かく、確かな愛情が伝わってくる。艶やかな黒髪を優しく撫でながら、母親は自らの口で事情を話し始めた。
「本当はあなたを生んで育てたかった。でも当時は食べるものにも困る時代で、お産が終わった時には最初から死産と知らされたのよ。事前にわかっていたら絶対にそんなことさせなかったわ」
母親の瞳から透明な涙がこぼれ落ちた。それは数百年もの間、娘を想い続けた母の涙だった。
「お母さん……」
花子さんの声は震え、小さな体が母親にしがみついた。
「おつる、あなたの本当の名前はおつるよ。鶴は私が大好きな鳥で、娘が産まれたらずっとその名前を付けようって考えていたの」
「おつる、それが私の名前……私、名前があったんだ! 私にも名前が!」
花子さん。いや、おつるの顔が歓喜に輝いた。名前を持つということ、それは存在を認められることだ。数百年もの間、満たされぬうちに求め続けていたものがついに与えられた瞬間だった。
「ええそうよ、さぁ行きましょう。これからはずっと一緒よ」
母親が優しく手を差し伸べる。花子さんは少し戸惑いながらも手を取って光太郎、そして配下の子供達を見た。子供霊達は困惑しているが、光太郎は力強い笑みを見せて頷いた。
「なにも恐れることはありません、導かれるままにお行きなさい。おつるさんに良き旅路のあらんことを」
「うんーーありがとう」
花子さん、いやおつるが礼を言ってはにかむと、最後に彼女は奇麗な笑顔を見せてくれた。すると母子は大小の鶴と変化してぐるりと光太郎達の頭上を一周した後、仲の良い鳴き声を響かせながら親子鶴は自らの翼で羽ばたいて行く。
純白の羽が日光に照らされ、まるで白銀の粉を撒いたようにも輝いて見える。大きな鶴が小さな鶴を優しく導きながら、二羽は寄り添うように五色五光に輝く空の彼方へと消えていった。
幻想的な光景に見とれていた一行であったが、しばらくするとこの霊空間に次元の門が開き、現実界へと戻る時が来た。遠くで霊界が壊れていく音が聞こえてくる。
ゴゴゴゴゴ……と地鳴りのような音が響き、晴天の空に亀裂が走り始めた。まるでガラスが割れるように、空間そのものが砕け散っていく。廃墟と化した城跡も、遊園地も、徐々に全てが虚無へと還っていく。
残された元花子さんの手下子供霊達はきょろきょろしてどうしていいか迷っているようだ。
「花子さん行っちゃった、僕達どうしたらいいんだろう」
「あっあれを見ろよ! あれは僕のお父さんだぞ!」
「あそこにいるのは私のお母さんよ! おーい!」
配下の子供霊達にも次々と霊界からのお迎えが来ているようで、続々とこの世界から旅立っている。白い雲が次々と降りてきて、子供達は懐かしい家族の元へと駆け寄っていく。いつの間にか沢田を慕う子供達も集まって来ては挨拶を交わした後に自分の親族を見つけ、白い雲に乗って空へと舞い上がっている。
健太はすごすごと合流して松本姉妹と福にどつかれている。本人は十分反省しているようだ。
「バカ健太! おばさん凄い心配してたよ! もう勝手なことしちゃダメ!」
「だめ!」
「ニャ!」
「ご、ごめんなさい……」
戦いを終えた光太郎の元に仲間達がやって来る。瓦礫の上を慎重に歩きながら、皆が安堵の表情を浮かべていた。
「光太郎さん、やり遂げましたね!」
八塩が感動に声を震わせる。
「あぁ、うん……」
返事もそこそこに光太郎の体が崩れ落ちるが、慌てて八塩が支える。少年は極度の霊力を使い果たしてフラフラになっていた。足元がおぼつかないようで顔色も悪い。
そこへ黒姫に手を引かれた高姫もやって来て、光太郎に話しかけた。
「見事だったわよ光太郎。最後の最後で目をやられて様子が分からなかったのは口惜しいけどね? 期待以上の大団円だったわ。やるじゃない、うふふふふふ」
滑川達が一回り遠ざかって見守る中、光太郎と親し気に雑談する高姫。だが側仕えの黒姫は黙ったままじっとなにかを考えているようであった。その黒い瞳には冷たい計算の光が宿っている。
周囲では霊界の崩壊が加速していた。地面に大きな亀裂が走り、瓦礫が虚空へと吸い込まれていく。空は砕けつつあり、その向こうに現実世界らしき夜空が見え始めていた。
「もうじきこの霊界も消え失せるからお前達も崩壊に巻き込まれないように帰るのよ、じゃあね。さ、行くわよ黒姫」
「……」
まだ満足に両目が見えない高姫は左手を差し出して黒姫に介助を頼んだが、手ごたえがない。
それもそのはずで、黒姫は一人で進み出て瞬時に手に持っていた赤い傘を死神が持つような大鎌に変えて光太郎の前に立った。漆黒の刃が不吉な光を放ち、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
「黒姫や、な、なにをしているの? 帰るわよ?」
高姫の声には困惑が滲んでいた。
「……お姉様、この者は生かしておけばきっと我らの妨げになります。今この場で命を断っておくべきかと」
黒姫がそう冷淡に告げると、周囲にかつてないほどの緊張が漲った。
大鎌の刃先が光太郎に向けられ、死の気配が濃厚に立ち込める。八塩は光太郎を庇うように前に出ようとしたが、あまりの殺気に身動きが取れない。滑川達も、松本姉妹も、誰もが事態を飲み込めずに立ち尽くしていた。
崩壊する霊界の轟音の中、黒姫の冷たい瞳と光太郎の澄んだ瞳が交錯する。