67 神の愛
廃墟と化した城跡で傷だらけの光太郎は静かに両手を合わせ、次にがっしりと手を組んだ。花子さんの全身から立ち昇る赤黒い瘴気は、まるで地獄の業火のように渦を巻いていた。彼女の瞳には狂気と絶望が入り混じり、涙が止めどなく頬を伝っている。光太郎は迫り来る死を前にしても決して祈りを止めなかった。
「かけまくもあやにかしこき天津神国津神八百万の神々様、胎蔵界金剛界全ての仏様、守護神守護霊御魂様、背後霊団祖霊団の皆々様。乞い願わくばいまし御前におりまする孤独な少女花子さんを救い給え、次元の壁を越え時空の壁を越え、因縁因果の壁越えて、不可能を可能になさしめ給いて絶望を希望になさしめ給いて救われざる哀れなる少女を助け給え。愛を知らぬ子に神仏の大愛を余すことなく与え給いて無尽の救済を実現なさしめ給え!」
その声は血を吐くような苦しみの中にあってなお、澄み切った響きを保っていた。
「あぁ大慈大悲の神々よ、応用無辺の御仏達、例えば数百年カラカラに乾いた砂漠に突如として降り注ぐ干天の慈雨が如くに。例えば大海に放り出され漂流し、餓死寸前になったところで大船に救助されるが如くに。例えば永遠の冬に身も心も凍り付かんとする時、全ての氷を一瞬にして溶かしつくす春風が如くに古今未曽有、空前絶後。有史以来過去最大最強の大御稜威をあらしめ給いて絶大なる愛を感得なさしめ給え!」
光太郎の赤誠の祈りに呼応するかのように、彼を中心として青白い神気が集まり始めた。それは汚濁した魔界とも呼べるこの霊界において、まるで泥沼に咲く蓮の花のように清涼で清々しく、常人の目から見てもそれと分かるほど麗しくも力強い光を伴っていた。
瓦礫の山を仰ぎ見る配下の子供達はその神々しい光景に息を呑んだ。暗く澱んだ霊昧たる亜空間に、一筋の希望の光が差し込んだかのようであった。
対する花子さんはというと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら光太郎を指差して怒号を発した。
「お前が悪いんだぞ光太郎! 私はもうこれまでの私じゃいられない! お前が……思い出させるから! 知りたくもなかった私の秘密を暴くから! ぁぁぁぁあああああ死ね! 死ねよ光太郎! 私の前から消えていなくなれえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
絶叫と共に、花子さんは全霊力を込めて最大の呪殺光波を放った。それは彼女の数百年にわたる怨念と憎悪が凝縮された、まさに死の光線だった。
同時に光太郎も、胸を中心に両手から溢れんばかりの神気の塊の光波を打ち出した。
二つの光線は廃墟の中央で激突した。赤黒い怨念の光と青白い慈愛の光がぶつかり合い、凄まじい衝撃波が周囲に広がる。瓦礫が吹き飛び、地面が抉れ、まるで世界そのものが二つに引き裂かれようとしているかのようだった。
全てを消し去り塗りつぶさんとする憎悪の怨念と神仏の大愛を具現化した聖なる光の衝突は、まさに天国と地獄の戦いのようで神話における天使と悪魔の激突を彷彿とさせる迫力があった。
遠く離れた場所から見守っていた高姫は、瞬きもせずにこの光景を眺めて唸った。
「ぬぅ、実力は互角、いや光太郎の分が悪いか。考えてみればこの地は花子の邪霊界、そもそも神気が介在しない世界に幽導灯も無しにむりやり神仏を示現させようというのが無理筋だ。だがしかしどうだ、あやつの落ち着きはらった泰然自若たる有様は! 己が命が尽きるやも知れんという危機の時にあってなお相手の幸せのみを祈っておる! おぉ……これぞまさに古の聖賢が如き御業! 見事じゃぞ光太郎!」
高姫の言葉通り、光太郎の神気は徐々に押され始めていた。悪貨は良貨を駆逐するという経済用語がある。これは価値の低いものが価値の高いものを市場から追いやってしまうことを意味する言葉で、経済学におけるグレシャムの法則を基にしている。市場に同じ額面で流通する異なる価値の貨幣があると、人々は価値の高い良貨を貯蔵し、価値の低い悪貨ばかりを使うようになるという現象を表している。
これは気についても当てはまる。神気と悪気が同量存在する場合、圧倒的に強いのは悪気の方である。悪気は神気を駆逐するのだ。
花子さんの呪殺光波は、じりじりと光太郎の神気を押し返していく。光太郎の額には汗が浮かび、全身の傷口から新たな血が流れ出した。
しかし、天は光太郎を見捨てなかった。
突如として、暗澹たる亜空間に青白く眩く輝く光の御柱が出現した。それは天空を貫くように立ち昇り、光太郎の全身を包み込んで頭上高くから膨大な神気を降り注ぎ始めたのだ。
まさに地獄に仏とはこのことだった。暗く救いのない魔界に、天の慈悲が直接介入したかのような神聖な光景だった。光の御柱はこの汚濁した空間において燦然と輝き、希望の象徴として立ち現れた。
押されていた神気が徐々に勢いを取り戻し始め、それを見た仲間達から声援が上がった。
「いけー! 光太郎さん!」
思わず八塩が叫んだ。かつて恐怖に震えて逃げ出そうとした彼が、今は光太郎の海王丸を胸に抱きしめながら、必死に応援している。その瞳にはもう迷いはなかった。
「頑張れお兄ちゃん!」
望も両手を組んで祈るように叫んだ。
「いっけー!」
華も小さな拳を振り上げて声援を送る。
「ニャラニャラニャーン!」
福も華の腕の中で、精一杯の応援の鳴き声を上げた。
「いけー! そんな奴やってしまえー!」
中田が興奮のあまり叫んだが、すぐに滑川に制された。
「む、いかんぞ中田! 神様は愛念でないと動かんのだ!」
「あっそうでした! すいません滑川さん!」
中田は慌てて言い直した。
「えぇと……じゃあ花子さんが救われますように!」
その言葉に、全員が声を合わせた。
「「救われますようにー! どうか、お救いいただけますようにー!」」
沢田も、佐々木も、そして配下の子供達の一部までもが、花子さんの救済を願って祈り始めた。誰一人として己が助かりますようになどというケチな願いはしていない。皆がひたすらに、愛を知らずに生きてきた哀しい少女の魂が救われることを願っていた。
その純粋な祈りが光太郎を纏う神気にさらなる力を与えた。天の御柱はより一層輝きを増し、廃墟全体を神聖な光で包み込んでいく。
花子さんは歯を食いしばり、なおも抵抗を続けた。数百年の怨念はそう簡単には消えはしない。しかし彼女の瞳の奥底ではなにかが揺らぎ始めていることに、本人含めまだ誰もが気づいてはいなかった。