66 光太郎の覚悟
廃墟と化した城跡で、光太郎の言葉が静かに響き渡った。その一言一句が、まるで時を超えて花子の魂の奥底に沈殿していた記憶を呼び覚ますかのようだった。
「そ、そんなの嘘だ! でたらめだ!」
花子さんの叫びは悲鳴に近かった。小さな体を震わせ両手で耳を塞ごうとするが、光太郎の声は優しく、しかし確実に彼女の魂に届く。
「嘘でもでたらめでもありません。あなたはその昔、この国で大飢饉があった折に生まれてきました。両親は跡取り息子を期待していたにも関わらず生まれてきたのが女の子だったので、やむを得ず父親の親族がお産婆さんに掛け合い、死産に見せかけてあなたの首を絞めたのです。当時は誰しもが食べるものがなくて生きるのに必死な時代でした。遠い昔のことすぎて思い出せないかもしれませんが、あなたが親や社会を恨むのも無理はないことです。あなたはそれ以来成仏することもできずにこの世にとどまり続け、同じような境遇の子供達と融合を繰り返すことによって徐々に力を蓄え、このような神隠し霊界を主宰することになったのです。子供達を攫う心の根底にあるのは嫉妬です。あなたは誰かを愛することも、愛されることも知らないのだから、親子のそれが余計に眩しく、疎ましく見えたのでしょう、これが全ての真相です」
光太郎の言葉と共に、花子の瞳の奥で何かが崩れ始めた。赤い怒りに染まっていた瞳が揺らぎ、そこに浮かんだのは深い悲しみと絶望だった。
「あ……ああ……」
花子さんの膝が震え、がくりと崩れ落ちそうになる。配下の子供達も、花子の壮絶な過去に息を呑んで立ち尽くしていた。
黒姫の表情には変化が見られなかったが、その瞳の奥には複雑な感情が宿っているようだった。一方、高姫の目には僅かに憐みの色が灯った。彼女は静かに扇子を開き、顔の半分を隠しながら花子さんを見つめていた。
「花子さんの過去にそんなことがあっただなんて……」
望が小さく呟いた。華も目に涙を浮かべ、姉からひったくった福を強く抱きしめている。滑川達も言葉を失い、ただ立ち尽くすばかりだった。
光太郎は続けた。
「人は死ぬと誰しもが霊界に帰らなければいけません。僕もお手伝いさせていただきます。花子さん、霊界へと参りましょう。そこにはあなたの母親や先祖もいて、あなたの帰りを待っているはずです」
その瞬間、花子の中で何かが弾けた。
「うるさい! 嫌だ! 私はどこにもいかない! ずっとここで暮らすんだ! 愛なんて知らない! 愛なんていらない!」
熱い涙が頬を伝い落ちていく。数百年間押し殺してきた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
「……子供を攫った私が憎いんだろ? だったらその幽導灯で攻撃してこいよ! 灯士なんだろ! さぁこい! 決着を付けてやる!」
花子さんはいつの間にか号泣し叫んでいた。その姿はもはや恐ろしい怨霊ではなく、ただ愛を知らずに生きてきた哀しい少女のようだった。
光太郎は押し黙ったまま俯いた。荒涼とした瓦礫が散らばる地面を見つめ、何かを決意したように顔を上げると、大声で仲間に呼びかけた。
「八塩君、ちょっと来てくれないかい?」
「え? あっはい!」
突然名前を呼ばれた八塩は、慌てて光太郎の元へ駆け寄った。
「これをしばらく預かっていてほしいんだ」
光太郎はゆったりと鞘に納めた海王丸を丸ごと八塩の前に押しやった。その瞬間、周囲がざわめいた。
「なにを馬鹿なことを! し、死んでしまいますよ!」
八塩は悲鳴を上げた。灯士が幽導灯を手放すということは、自らの命を危険に晒すことに他ならない。
「大丈夫だよ、僕は花子さんと戦うつもりは毛頭ないんだ。そのことを示すためにもこれを頼むよ」
光太郎は八塩の目を見て微笑み、海王丸を差し出した。その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。八塩は光太郎の覚悟を感じ取り、歯を食いしばりながら聖なる灯火を胸に抱きしめた。
「さぁ、早くここから離れるんだ」
「光太郎さん、どうぞご無事で」
八塩の声は震えていた。自分の愛灯を託した光太郎は、優しく微笑んで彼を送り出した。
「暁君……正気なのか」
滑川は思わずそう呟いたが、意志は固いと確信して沈黙した。光太郎は学生帽を取り、黒い学生服の上着を脱いだ。白いシャツと学生ズボン姿となった彼は、再び花子と対峙した。
「さぁ花子さん、これでわかってもらえましたか。僕に戦意はありません」
花子さんの表情が恐怖に歪んだ。
「なんのつもりだ! こ、こっちに来るな!」
赤黒い蛇が津波のように光太郎に襲いかかった。しかし光太郎は避けようともせず、ただゆっくりと前進を続けた。
「お兄ちゃん!」
華の悲鳴が響く。望も両手で口を覆い、恐怖に目を見開いていた。
蛇の牙が光太郎の肩に食らいつき、または脇腹を切り裂いていく。白いシャツは瞬く間に赤く染まり、あちこちが裂けていった。苦痛に顔を歪めながらも、それでも光太郎は歩みを止めない。
「なんで……なんで避けないんだよ!」
花子さんの声は震えていた。圧倒的に優勢なのは彼女のはずなのに、なぜか追い詰められているのは自分の方だった。
光太郎の足取りは次第に重くなっていく。全身に刻まれた無数の傷から血が流れ、ついに片膝を地面についた。
「光太郎君!」
沢田が焦って駆け寄ろうとしたが、高姫が扇子で制した。
「無粋なことはやめなさい、これはあの子の戦いよ。それに見なさい、光太郎は決してくじけてはいないわ」
その様子をよくよく見てみれば、膝をついてもなお光太郎の瞳は活気凛凛としており、揺るがずに花子を見つめているではないか。その眼差しには恐れも憎しみもなく、ただ深い慈愛だけが宿っていた。沢田はそれを感じて思い留まった。
一方底知れぬ恐怖を感じた花子さんは、悲鳴を上げながら一気に距離を取った。
「くそぉ、こうなったら……」
彼女は迫り来る悪夢を振り払うために最大の一撃を見舞おうと全身全霊で邪悪な霊力を練り上げ始めた。赤黒い瘴気が渦を巻き、まるで地獄の釜が開いたかのような禍々しい気配が辺りを包み込む。
光太郎はざわめく仲間達の気配を感じ取り、さっと左手を差し出した。その手が語っていた--心配ご無用と。
満身創痍の体で立ち上がった光太郎は、静かに両手を合わせ、祈り始めた。
「南無観自在菩薩」
その姿はまるで殉教者のようだった。血に染まった白いシャツ、傷だらけの体、それでもなお凛として立つその雄姿に誰もが息を呑んだ。
「ふふふふふ! ごちゃごちゃ下らないことばかり言いやがって! これで終わりだぁぁぁぁぁ!」
花子さんは狂ったような笑い声を上げながら、膨大な霊力を集束させていく。彼女の周囲の空間が歪み、重力さえも狂い始めた。
福が華の腕の中で低く唸った。滑川達は恐怖に震えながらも、光太郎から目を離すことができなかった。
高姫と黒姫は強者の余裕から静かに見守っていた。彼女達には花子さんを止める力があるが、あえて介入していない。これは光太郎が選んだ道であり、高姫には彼の慈悲の行き着く先を見届ける必要があったからだ。
瓦礫の山に光太郎の祈りと花子さんの慟哭が響き渡る。この場にいる誰しもが、決着が近いことを予感していた。