65 告白
高姫の妖艶な笑い声が静寂に包まれた廃墟に響き渡った。彼女は優雅に歩を進め花子さんの前で立ち止まると、扇子を広げて恩着せがましく言い放った。
「あのままだったら危なかったわよぉ? 感謝しなさい」
花子さんは冷や汗を流しながら震え声で答えた。額から流れる汗が頬を伝い、顎から滴り落ちる。
「あ、ありがとうございます、高姫様……」
配下の子供霊達も、突如として現れた二人の圧倒的な妖気に怯えていた。瓦礫の陰から恐る恐る様子を窺う者、互いに身を寄せ合って震える者、中には泣き出しそうになっている者もいた。彼らにとって高姫と黒姫の存在は花子さん以上に恐ろしいものだったのだ。
一方、沢田や滑川達もいきなり出て来た彼女達に混乱していた。滑川は目を見開き震え声で呟く。
「花子さんがへりくだるほどの実力者で女性の二人組……まさか、あれは四凶の高姫黒姫なのか?」
すると誰もが緊張で息を詰める中、華だけが無邪気に説明を始めた。
「そうだよ! あのお姉ちゃん達はね、みんな怖いって言うけど本当は優しいんだよ! 華お菓子もらったことあるもん!」
その天真爛漫な発言に場の空気が一瞬凍りついた。八塩は目を丸くして華を見つめる。
「そ、そうなんだ。すごいね」
八塩は華の肝の太さと無邪気さに恐れ入りながらも、注意深く事態の推移を見守った。四凶と呼ばれる存在を前にしてお菓子をもらったことがあると笑顔で話す華の度胸は、ある意味で光太郎以上かもしれなかった。
姉の望は転移されてきた福を優しく抱きかかえた。福はまだ戦闘態勢を解いておらず、全身の毛を逆立てて高姫達を警戒している。
「福ちゃんお帰り、あとはお兄ちゃんに任せようね」
「ニャアァ……」
花子さんを仕留め損ねたことが悔しいのか、それとも光太郎を一人にしてしまったことが心配なのか、福は望に抱きかかえられながら残念そうに力なく鳴いた。このまま幼い二人を放って飛び出すわけにもいかず、福は仕方なく光太郎にあとを託すことにした。
花子さんは困惑した表情で高姫に尋ねた。瓦礫の上で不安定な足場に立ちながら、恐る恐る口を開く。
「どうして見ず知らずの私を助けてくれたんですか?」
高姫は扇子で口元を隠しながら、妖しく微笑んだ。紅く輝く月の光が彼女の艶やかな赤髪を照らし、まるで闇夜に咲く毒花のような怪しい美しさを誇っている。
「あら、前々から知ってはいたのよ? ただ好きにやってるみたいだから遠くで見ていただけだわ。ただ勘違いしないことね、今回こうして割って入って来たのはお前と光太郎の戦いを最前列で見るためなのだから。だからこれからのことに私達は一切手出ししないわぁ、二人とも存分におやりなさい」
花子さんは困惑を深めながら、必死に訴えた。
「高姫様、あの男は一体なんなんですか? 普通の灯士がこれほど強い訳はないのです」
「そうねぇ、妾もよく知らないわ、でも見ているとワクワクするのよね? うふふふふ」
高姫は扇子で口元を隠しながら嬉しそうに笑う。その笑い声は、まるで興味深そうに芝居を見ている観客のようだった。
その時、光太郎が静かに歩み寄ってきた。瓦礫を踏みしめる足音が静寂の中に響く。彼は高姫と黒姫の前で立ち止まると、丁寧に頭を下げた。
「高姫黒姫様におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます。先日の喫茶店ではごちそうになりーー」
「礼などよいわ光太郎、またお前はやっかいなことに首をつっこみおってからに。でも面白いじゃない、せっかくだから見学させていただこうかしら」
高姫は扇子を閉じ、鋭い眼光で光太郎を見つめた。その瞳には獲物を見定める肉食獣のような光が宿っていた。
「お気の済むまでご存分に」
光太郎は穏やかに応じた。荒廃した瓦礫の山の上、月光に照らされた廃墟の中で、常人ならざる四人は向かい合っていた。崩れた城壁の影が不気味に伸び、時折吹く風が瓦礫の間を吹き抜ける音だけが聞こえてくる。
「時に光太郎、お前はこの者をなんとするつもりなの?」
高姫の問いかけに、光太郎は静かに答えた。
「はい」
光太郎は真っすぐに花子さんを見た。その眼差しは決意に満ちており、花子さんは居心地が悪そうに後ずさった。瓦礫の上で足を滑らせそうになりながらも、本能的に光太郎から距離を取ろうとする。
「当初は恨みの瘴気から生じた怪異だと思いました。生きて幸せそうにしている親子をひがみ、誘拐してその仲を引き裂こうとしているのだと。でも違いました、花子さんはまごうことなく人霊です、人霊ならば灯士として斬るわけにはいきません。必ずその魂を救ってみせます」
「ふっ、ふざけたことを言うな! お前なんかになにがわかる!」
花子さんの声は怒りで震えていた。赤黒い瘴気が彼女の周囲で渦を巻き始める。
「僕にはなにもわかりません、でも神仏は御存じです。僕の守護霊様がささやくんですよ、あなたを救ってあげなさいと」
「馬鹿なことを言うな! そんな適当な嘘で……」
花子さんが怒りのボルテージを上げたその時、ふわりと光太郎の背後に浮かび上がる姿があった。
真白い衣を纏い、紅玉を身に付けて柔和に微笑む御姿は誰あろう、男でも女でもない観音様に他ならない。その出現と共に荒廃した廃墟に清浄な気配が満ちていく。瓦礫の隙間から生えた雑草さえも、聖なる光に照らされて輝いて見えるほどだ。
光太郎を守る観音こそ秘鍵観世音菩薩。秘鍵観音が手に持つ三つの鍵はそれぞれ神界霊界現実界に対応しており、必要に応じて魂の記憶の扉を開くのだ。
秘鍵観音がシャリンシャリンシャリンと三回鍵束を鳴らすと、その音は水晶の鈴のように澄んで響き渡った。一つ目の音で花子さんの体が震え、二つ目の音で配下の子供霊達が息を呑み、三つ目の音で空間そのものが共鳴した。
光太郎は瞑目して恭しく幽導灯を前に突き出し、軽く手首を捻って呟いた。
「秘鍵開錠」
秘鍵観音から発している柔らかい光が次第に強い青色を放ち始めた。そして、どこからともなくガッチャンと重い鍵が開く音が、この場にいる全ての者の耳に。いや、魂に直接響いてきた。
薄暗くて血なまぐさいこの霊界にあって、神聖で厳粛な透き通った空気が立ち込める。崩壊した城跡という殺伐とした風景と、観音様の放つ聖なる光の対比が、この瞬間をより一層神秘的なものにしていた。
しばし押し黙っていた光太郎がゆっくりと目を開く。その瞳には深い慈悲の色が宿っている。 光太郎は花子さんを見つめて言った。
「花子さん、あなたの本当の名前を教えてくれませんか?」
「本当の名前? そ、そんなのある訳ないじゃない、私は元々この名前で……」
花子さんの声は次第に小さくなっていく。何か大切なことを忘れているような、胸の奥がざわつくような不安が彼女を襲った。
「トイレの花子さんというのは仮の名です。花子さん、あなたの本当の名前は存在しないのではないですか?」
問い詰めながら、いつの間にか光太郎の両目からは滂沱の涙が流れ出ていた。それは悲しみの涙ではなく、深い慈悲と憐憫の涙だった。彼はその涙を拭いもせずに言葉を続ける。
「花子さん、あなたはその昔、生れ落ちて後すぐにお産婆さんに殺されたーー生きることを許されなかった子供なんです」
その言葉が放たれた瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。花子さんの体が激しく震え始め、寒そうに両腕で己の体を抱きしめた。配下の子供霊達も、高姫も黒姫も、そして光太郎の仲間達も、誰もが息を呑んでその光景を見守っていた。