62 羂索
沢田の案内で秘密基地を出た一行は薄暗い階段を上り三階へと向かった。埃っぽい空気とカビ臭さが鼻を突く中、やがて女子トイレの前に辿り着く。錆びついた金属のプレートには女子の文字がかろうじて読み取れた。
「ここだよ」
沢田が小声で告げる、その顔には緊張の色が濃い。
「三番目の個室の扉を三回ノックして、花子さんいらっしゃいますか? と言うんだ。すると中からはーいと返事があって、扉を開けると……」
「引きずり込まれるんだね」
光太郎が静かに呟き沢田は頷いた。滑川らは顔を見合わせているが、中田と佐々木は既に腰が引けている。
「じゃじゃじゃじゃあ誰がやるんだ?」
滑川の問いに、光太郎は迷うことなく前に出た。
「もちろん僕が」
トイレの中は予想通り不気味な静寂に包まれていた。壊れた蛍光灯がチカチカと明滅し、床には何年分かの埃が積もっている。光太郎は三番目の個室の前に立つと、深呼吸をしてから扉をノックした。
コン、コン、コン。
「花子さん、いらっしゃいますか?」
一同は息を呑んで待った。しかし、返事はない。光太郎はもう一度ノックを繰り返す。
コン、コン、コン。
「花子さん、いらっしゃいますか?」
やはり沈黙だけが返ってきた。光太郎は躊躇うことなく扉を開けてみたが、中にはただ古びた便器があるだけで特に変わった様子はない。
「おかしいな、やり方はあってるはずなのに」
沢田が困惑して呟く。光太郎は個室の中を調べたが、やはり何も見つからない。
「もしかすると、僕達が来ることを拒んでいるんじゃないでしょうか」
八塩の推測に、光太郎は首肯した。
「そうみたいだね、よほど嫌われたみたいだ」
光太郎は意を決して個室から出ると、海王丸を抜いた。青白い聖なる光が薄暗いトイレを照らし出す。
「皆、下がって」
光太郎はゆったりと海王丸を掲げ八相に構える。
「花子さん、ではこちらから行かせてもらいますよ」
次の瞬間、光太郎は虚空に向かい裂帛の気合を入れて海王丸を振り下ろした。青白い光の軌跡が空間を切り裂き、次元の裂け目が生じる。そこから吹き出す冷たい風に、滑川達は思わず後ずさった。
「お、おいおい何をしたんだ?」
「通り道を切り開いただけさ、さあ行こう」
光太郎は臆することなく裂け目に飛び込み、皆は慌てて後に続いた。視界が歪み浮遊感に襲われる中、やがて足が地面に着いた。
目を開けると、そこは灰色の空が広がる寂れた遊園地だった。
錆びついた観覧車がギィギィと軋みながらゆっくりと回転し、無人のメリーゴーランドからは物悲しいオルゴールのメロディが流れている。ジェットコースターは誰も乗っていないのに動き続け、空しい轟音を響かせていた。
「なんだここは……誰もいないのか?」
佐々木が震え声で呟く、確かに異様な光景だった。全ての遊具が動いているにも関わらず人影は一つもない。今まで執拗に嘲笑ってきた子供達の声も聞こえてこない。
「不気味ですね」
八塩が警戒しながら周囲を見回した時、沢田が小高い丘の上を指差した。
「皆、あれを見て」
視線の先には西洋風の立派な城がそびえ立っていた。灰色の空を背景に、その姿は威圧的でありながらどこか物悲しい雰囲気を纏っている。
「あそこが花子さんの本拠地に違いないよ。花子さんは派手なのが好きだから」
沢田の言葉に光太郎は頷いた。
「よし、行こう」
一行は城に向かって歩き始めた。足元の石畳は所々ひび割れ、雑草が隙間から顔を覗かせている。廃墟と化した遊園地を進むにつれ、心細さが募っていく。
その時だった。
「きゃははははは!」
「どうやってここまで来たのかわかんないけど、この先にはいかせないぞ!」
突然あちこちから子供達の声が響き渡った。そして次の瞬間、今まで姿を隠していた子供達が一斉に実体化して現れた。その数は優に百を超えている。光太郎は悠然と訊ねる。
「やぁ君達、花子さんに会わせてくれないかい?」
「嫌だね!」
「ここは僕達の世界だぞ! 邪魔するなら出てけ!」
「そういう訳にはいかないな」
「どうしても出ていかないんだったら……よーし、みんなやっちゃえ!」
一人の男の子の号令と共に、邪鬼や妖怪変化が地面から湧き出してきた。瘴気を纏った醜悪な姿が、唸り声を上げながら若き灯士達を取り囲む。
「全員抜灯!」
光太郎の号令に、滑川達も慌てて降魔灯を抜いた。赤い光が次々と灯り、臨戦態勢が整う。
「うおおお!」
滑川が気合いと共に降魔灯を振るう。瘴気でできた邪鬼は次々と浄化されていく。中田と佐々木も必死に応戦し、八塩も懸命に戦っていた。
しかし、問題が生じた。
「く、くそ!」
滑川の前に、泣きじゃくる少女の霊が立ちはだかった。見た目は七、八歳ほどで、涙を流しながら滑川を睨みつけている。
「どうして私達をいじめるの!」
少女が叫ぶと同時に見えない力が滑川を襲った。滑川は降魔灯で防ごうとするが、相手が子供の霊となると話が違う。邪鬼や妖怪は倒せても、灯士としてはたとえ邪悪に染まっていようと人霊を傷つけることはできないのだ。
「ちくしょう、どうすれば……」
滑川が躊躇している隙を突いて、別の子供霊が背後から襲いかかる。
「危ない!」
中田の声で間一髪、滑川は横っ飛びに逃れた。地面を転がりながらもやがて体制を立て直す。
「ちぃ、手が出せない! なにか手はないのか!」
その時、光太郎が静かに祈りを捧げた。
「南無不動明王、乞い願わくば羂索をお与えください」
光太郎が海王丸を子供霊に向けて振るうと、どこからともなく光る縄が現れ、子供霊をぐるぐると縛り上げた。子供霊は驚いて身動きが取れなくなる。
「な、なにするんだ、やめろー! むぐぐ、動けない……」
「みんな、不動明王様にこう祈るんだ。そうすれば傷つけることなく子供達を無力化できる!」
光太郎の指示に、滑川達も慌てて真似をする。
「ふ、不動明王様、羂索をお与えください!」
すると滑川の降魔灯からも光る縄が飛び出し、襲いかかってきた子供霊を捕縛した。
「おぉ、さすが滑川さん! よーし僕もーー」
佐々木が感嘆の声を上げる、だが彼は恐怖と緊張のあまり異なる祈りを口にしてしまった。
「不動明王様! こいつらをやっつけてください!」
気合を入れて叫ぶも何も起こらない。佐々木の降魔灯は少し赤く光るだけで、羂索は現れなかった。
「な、なんで! 不動明王様! お願いします! 不動明王様!」
「なんだ? こけおどしか? けけけ、お前からやっつけてやる!」
「ノーマクサマンダバザラダンカン!」
「ぎゃぁぁぁぁ!」
パニックに陥る佐々木に、光太郎が落ち着いた声で諭した。
「佐々木君、神仏は愛の念によってしか動かないんだ。『やっつけてください』という破壊的な祈りには応えてくださらない」
「で、でも! こいつらが襲ってくるんですよ!」
慌てる佐々木の危機を救った光太郎は優しく微笑んだ。
「佐々木君、その気持ちはわかるよ。でも彼らも元は普通の子供達だったんだ。劫の瘴気から発生する邪霊じゃない。この霊界に取り込まれてこうなってしまったけど、人霊なんだよ。彼らの幸せを祈ることができれば一番いいけれど、今は難しいよね」
光太郎は襲い掛かる邪鬼を切り払いながら続けた。
「だから、こういうときはせめて私達をお守りください、皆が無事に帰れますようにと祈るんだ。自分達の無事を願うことは愛に元ずく行為だから、決して悪いことじゃない。できるかい?」
「は、はい!」
佐々木は震えながらも、言われた通りに祈り直した。
「不動明王様、どうか僕達をお守りください。どうぞ羂索をお与えください」
すると今度は見事に光る縄が現れ、迫ってきた子供霊を縛り上げた。
「で、できた!」
佐々木の歓声に皆も勇気づけられる。光太郎一行は見事に不動明王の羂索を使いこなし、邪鬼は灯滅し子供霊達は次々と無力化していった。光太郎が中心となって若き灯士達は次々に道を切り開いていった。
「凄い、僕にもできた! これなら僕でも役に立てるかもしれない」
沢田は感激して長い間愛用している降魔灯を握りしめる。一行は疲れを見せず走り抜け、ようやく城の門前に辿り着いた。巨大な鉄の扉は重々しく、近づくだけで圧迫感を覚える。
するとまるで光太郎達を待っていたかのように、門がゆっくりと開き始めた。ギィィィという不気味な音を立てながら城内が姿を現す。
「勝手に開いた……花子さんだ」
中田が息を呑む。滑川達は明らかに躊躇していた、勢い込んでここまで来たが、この先に何が待ち受けているのか、想像するだけで恐ろしい。
しかし光太郎は違った。彼は海王丸を手に臆することなく前進する。その背中には攫われた子供達を必ず救い出すという決意が滲んでいた。
「さぁ行こう」
光太郎の呟きと共に、一行は花子の待つ城の中へと足を踏み入れていった。
不動明王の羂索
不動明王が左手に持つ縄は羂索と呼ばれ、本来は煩悩に惑わされ迷いの道へ進もうとする人々を救い、正しい道へと導く役割を担っています。羂索は古代インドでは武器や猟具として使われていましたが、密教では衆生救済の象徴として不動明王や千手観音などが持つ持物とされています。
不動明王は右手に持つ智慧の利剣で煩悩を断ち切り、左手の羂索で人々を縛り、救済するとされています。羂索は単なる縄ではなく仏教における救済の象徴であり、不動明王の慈悲深さを示す重要な要素です。