54 新宿灯青校の夜
その夜、新宿灯青校の校長である野田信厳は三階の自室である校長室で教頭である藤原徹から報告を受けていた。
信厳が豪華な椅子に座りながら目を閉じ時折鷹揚に頷きを返していると、コンコンコンとノックする音が聞こえた。その瞬間教頭の藤原と目くばせするが、時刻は夜の二十一時を回ったところだ。秘書ならばその旨名乗るはずであるので、ノックの主には心当たりがない。
いぶかしんで藤原は校長室のドアを開けて廊下を見渡したが、もちろん誰もおらず、校内はしんと静まり返っている。藤原はよもや怪異の仕業かと思い自然と佩灯している愛灯に手をかけるが、主の信厳は笑って手をひらひらさせた。
「いやいや藤原君、心配には及ばんよ、これはそれ、いたずらっ子のすることだ。君も良く知る人だとも」
そう言うと信厳は自ずから背後にある閉ざされたカーテンに手をかけて一気に開け放った。するとそこには月光に照らされて宙に浮かび佇む人影が一人。
「邪魔するよ信ちゃん」
「なっ! おっ、お前は蓮佛!」
「おや先輩もいたのかい、相変わらず景気の悪そうな顔してるね」
驚愕する藤原教頭を尻目に校長たる信厳は自ら窓を開け手を取り彼女を引き入れた。興奮して二の句がつけない藤原を尻目に二人は応接ソファーに向かい合って座り、信厳は自分の隣の座面をぽんぽんと叩いた。
「そら藤原君、君もここに座りなさい、もう業務報告も終わりだろう? 一献酌み交わそう」
「そうこなくっちゃ!」
「は、はぁ、先生がそうおっしゃるなら」
渋々言葉に従った藤原は信厳の横に座って正面に座る後輩に悪態をつく。
「蓮佛、今更ここになんの用があって来たんだ、それもこんな時間に」
「なぁにちょっと世間話だよ」
「そう気張らんでもよいわさ、普段生徒達には気軽に校長室までおいでと言っているし、歓迎するよ」
「どうも」
「子曰く学びて時に之を習う、また喜ばしからずや。友あり遠方より来たる、また楽しからずや、だのう」
「ふふ……人知らずして恨みず、また君子ならずや、だね。乾杯」
信厳は棚から当たり年のマルゴー産赤ワインを取り出して手ずから二人に振る舞った。やや緊張気味にしている藤原とは対照的に香は悠然とワインの味を楽しんだ。
「それで、なにか面白いことでもあったのかい? カオリン」
「面白い……か。確かにそう言えなくもないのかな、光太郎君は」
「ほっほ、あの子に会ったのか!」
「なに! 謹慎中に今度はなにをしでかしたんだ!」
香は滔々と善福寺公園での経緯を話すと、藤原教頭は頭を抱えて苦悩し信厳は楽しそうに笑った。
「暁と鬼女の高姫黒姫が知り合い? 正気の沙汰とは思えない。今後どう指導したらよいのか」
「鬼女のお二人が直ちに敵対しないとわかっただけでも収穫じゃないか、先輩は相変わらず頭が固いねぇ」
「お前のように気楽な立場じゃないからな、今まで雲隠れしていたのにどうして姿を現したんだ」
「それも光太郎君だね、彼に会って気付いたのさ、自分にできることをしなければってね」
「塩漬け依頼でも受けてくれるのか?」
「気になるのがあればね」
「それはありがたいが……じゃあ子供達の失踪事件について追ってくれないか? ここ最近東京周辺で三歳から小学生までの子供達が忽然と姿を消していて手がかりがないんだ」
「……」
香は音もなく瞬時に己の幽導灯を眼前に掲げるとぶつぶつと呟き瞑目した。しばし幽導灯が美しい紫に明滅してやがて発光が収まると、香はやおら口を開いた。
「その件に関しては光太郎君がなんとかするよ、というより彼でないとより悲惨な結末を辿ることになるだろうね」
「なっ! しかし暁は謹慎中であり一介の学生だぞ!」
「八仙の一人何仙姑はちょうど彼くらいの年に啓示があって仙人になったし、ファティマで聖女マリアに会ったのは三人の子供達さ。お釈迦様が誕生してすぐ天地を指さして天上天下唯我独尊とのたまったのは後の創作だろうけど、光太郎君が神に愛されれいるのは間違いない。なに、学校として公に頼むのが問題なのなら、明日個人的にお願いしてみるよ。私は北の奴らを牽制でもしておくさ」
「だが生徒一人に任せてはおけんだろ!」
「あのねぇ先輩、なにもこれは私が考えて言ってるんじゃないんだよ。生と死と運命を司る天体の要、北極星のお導きだってことをいちいち説明しないとわかんないのかい?」
香は凄みのある微笑みを藤原に向けると、ぞっとするほどまでに張り付けた霊威に当てられて彼は狼狽して黙り込んだ。
「カオリン、頼めるかの」
「先生……」
「藤原君、我々は神仏と光太郎君を信じて影からのサポートに徹しよう。しかしそれにしてもお前さん、やはり北の動きに気がついておったか」
「当然、鬼女のお姉さま方に教えてもらうまでもないね、こっち方面は生徒が当たるには荷が重いでしょ? まぁ私に任せてよ、その日が来るまでは適当にあしらっておくからさ」
「……やつらが襲撃を諦めるという未来はないのかのう?」
「ないね、ないない。遅いか早いかの違いだけさ。学校ができることは、少しでも生徒を戦えるようにすることぐらいじゃないかな。さて、もう帰るよ、邪魔したね信ちゃん、先輩も、またね」
「あああお前! なんで窓から出入りするんだ! 普通にドアから帰ればいいだろ!」
「はははは!」
香は朗らかに笑うと初夏の夜に身を乗り出して紫の光を纏いながらふわりふわりと宙を漂い着地した。どこか気分が良いのは高い酒を御馳走になったからか、久しぶりに旧交を温めたからか。それともーー
しかし上機嫌で校舎内歩く香の前に立ちふさがる者があった。よくよく見てみると知っている顔だ。
「こんな夜遅くまで学校にいるなんて熱心だね、さすがは生徒会長様だ」
「お久しぶりですわ蓮佛香さん、私のことをご存知なようで光栄ですわ」
「そりゃ一応まだ在校生だからね、現生徒会長、そして鹿島武神流後継者の有力候補なんだから知ってるよ」
「正統後継者、ですわ」
「ふふふ、違うね。伝統に則り鹿島武神流を正式に継ぐには一の太刀を修めなければいけないはずだよ、そしてまだ君はその頂には立っていない」
「……そこまでご存じなら、新宿最強のあなた様にぜひ一灯ご教授頂きたいのですが」
「やれやれ、言っても聞かなそうな雰囲気だね。どれ、今は機嫌が良いからちょっとだけ付き合ってあげるよ」
香はそう言うと、右手に誘導灯を持ちだらりと脱力した。怪訝に思った綾乃であったがこれは千載一遇のチャンスである。
綾乃が新宿灯青校に入学した時にはすでに香は伝説の人でありろくに登校しなくなっていた。それでも顔を知っているのは専用月刊誌や新聞などのメディアでの活躍が有名だったからだ。
今日ここで巡り会えた理由はわからないが、この機を逃せば次はいつ会えるかわからない。今まで失踪していた理由はわからないが、今に至るまで新宿最強の名をほしいままにしているのは周知の事実だ。綾乃は手に汗をかきながら抜灯して構えを取る。
香は依然として動かない、綾乃が誘導灯を構えつつじりじり間合いを詰めるもまるで様子に変化がない。これは不気味な体験であった。綾乃は幼い頃から鹿島武神流の正統後継者候補として数百数千の立ち合いを経験してきた。当然己より強者の相手もしてきたが、これほどまでに静寂に包まれている決灯は異様と言えた。
このままでは埒が明かない、意を決して大きく踏み込んだ綾乃は渾身の力を込めて横なぎに幽導灯を振るう、するとカァン! と甲高い音を立てて水晶を響かせたような残響が広がり、綾乃の幽導灯は大きく宙を舞い、彼女の体は自然と力が抜け落ちて地面に両膝を付いて崩れ落ちた。
香は何事もなかったかのように愛灯を一振りして鞘に納めた。実力の差は歴然であった。
「なんで……」
「真面目に努力するのは大切だけど、それだけで花が咲くものかい。あと、もう私は新宿最強ではないよ、その看板は下したんだ」
「そんな! では誰が!」
「暁光太郎さ」
「光太郎君が? でも私が立ち会った時は……」
「そりゃ本気で相手にはされてなかったのさ、さて、私が教えられるのはここまでだね、くれぐれも視野を広く持つことだよ、じゃあね」
そう言い切ると香はスッと歩き出し新宿の街に消えて行った。綾乃は地面に這いつくばりながら、己の進むべき道が更にわからなくなっていた。かつて思い描いていた理想の未来は霞み、その心中には暗くくすぶった思いが頭をもたげていた。
子曰、学而時習之。不亦説乎。
有朋自遠方来。不亦楽乎。
人不知而不慍。不亦君子乎。
孔先生がおっしゃった。習ったことを復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことか。
友人が遠方からわざわざ訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことか。
人に知られないからといって世を恨まないのは君子だからだ。