44 口裂け女の怪 2
光太郎と福が歩き始めた西荻窪の夜空にはきれいな満月が出ていた。
地球唯一の衛星であり古来より月は神聖なものとして信仰の対象になってきた。潮の満ち引きなどが地球に及ぼす影響は古くから知られており、満ち欠けは太陰暦になり、今日まで人類を含めて地球上の生物は大いにその恩恵と影響を受けてきた。
だが神秘とは善なるものだけに限らない。西洋の言い伝えによると月は狂気の象意があるとされ、満月の夜には怪異が跳梁跋扈すると言い伝えられている。
しかし灯青校生としては不安だから夜警を行いませんというわけにはいかないのだ。むしろそんな時こそ市民の安全のために巡回をしなければならない。
「な、滑川さぁん、月がヤバいくらいきれいですね」
「そ、そうだな」
「満月の夜ってぇ、出るって言いますよね」
「なにがだ! そんなのは迷信だ!」
「そうですよね、なははは……」
滑川を先頭に灯青校生らが4人、夜の街をそぞろ歩く。妖魔が好むとされる草木も眠る丑三つ時にはまだ時間が早いが、すっかり彼らの腰は引けているようだ。それというのも。
「でも最近よく聞くじゃないですか、口裂け女を見たって」
「そうそう、それもうちら灯青校生を狙って出てくるって話ですよ」
「だ、だからなんだ! そんなもの知るか! 出てきたら我が幽導灯の錆にしてくれるわ!」
「おぉ~さすが滑川さん! かっこいいっす!」
「そうだろう、そうだろう」
などと一行が盛り上がっている間に、不穏な空気が立ち込める。取り巻きの一人が道路の先に、なにやら人影らしきものを見つけたからだ。
「ひっ!」
「な、なんだどうした!」
「今、あそこになにか居ました……」
「なんだと?」
月光が照らす薄暗い夜道の先でチカチカと点滅している街灯があり、取り巻きの学生が震える指で指し示す。一同ごくりと唾を飲み見守るが、再び街灯の明かりが灯って周囲を明るく照らした時には、異常はなく、不審者もいなかった。
「ふん、しっかり見ろ! 誰もいないじゃないか! いいかよく聞けよ、幽霊の正体見たり枯れ尾花と言ってな、怖い怖いと思っていたら枯れた花でもお化けに見えるもんなんだ。だから心を強く持たんとな! ましてや灯青校生たるもの……ってどうしたお前ら?」
ふと見れば滑川の周囲に居たはずの班員達がじりじりと自分から距離を取って離れている。彼が不審に思っていると、そのうちの一人が恐怖に引きつった顔で声をかけた。
「な、滑川さん後ろ、後ろに……」
「あ~ん、後ろになんだって?」
滑川少年がやおら振り返ると息がかかるほどのすぐ側に、いつの間にか見知らぬ女の姿があったのだ。
夏の盛りも近いというのにロングコートを羽織り、口元には大きなマスクをしている。そしてゆっくりと真っ赤なマニキュアが塗られた手で耳元のゴムを外すと、腹の底から凍えるような声でこう言ったのだ。
「ねぇ、わたしきれい?」
「ぎゃぁぁぁ出たぁぁぁぁぁ!」
叫ぶが早いか滑川は班の皆を置き去りにして脱兎のごとく走り去った。これに仰天した取り巻き達は遅れまいと慌てて後を追って駆けだす。
「うふふ♪ ねぇわたしきれい?」
「わぁぁぁ来ないでぇぇぇぇ!」
あてどなく夜更けの街を爆走する滑川班、しばらく行くとようやく開けた空き地にたどりついた。周囲には人気がない。人心地付いて荒い息を整えていると、気軽に声をかける者があった。
「やあ皆さん、巡回ご苦労様です」
「ぎゃぁぁまた出たぁぁぁぁぁ!」
「え?」
急に声をかけられて焦った滑川は挨拶したのが光太郎だと理解できるはずもなく、再びロケットのように走り去っていった。
「またってなんだろう?」
「ニャア」
困惑する光太郎だったが、興味がなさそうな猫の福はペロペロと手をなめて顔を洗っている。どこか弛緩した空気が漂っていた都会の片隅に、再び生暖かい風が吹いた。するといつの間にか空き地の真ん中に長身の女性が現れてはマスクを外しながらこう言うのだ。
「ねぇ、ワタシキレイ?」
耳まで避ける大口には獣のような鋭い前歯が並び、目には怪しい光をたたえている。ただならぬ妖気をたなびかせながら笑う女は、普通の人間であるとは言い難い。
だが光太郎はさも当然かのように飄々と答えた。
「はい、とてもおきれいですよ」
「……は?」
「スレンダーでらっしゃるからコートがよく似合いますね。長い髪も素敵でモデルさんみたいです」
そう言ってニコニコと笑う光太郎に、今度は女の方が瞠目した。
「や、ちがっ……わ、わたしのこの口を見なさいよ! どうなのよ!」
そう言われて光太郎は一歩踏み込んだ。そして顎に右手を当てて感想を述べる。
「そうですね、人相学的には口の大きさは明るさや積極性、前向きで行動力があるなどといった意味を持ちますので、社会で活躍できると思いますよ。ただですね、口紅の赤がきつすぎるので、もう少し抑え気味にした方が印象が良くなるのではないかと」
「そ、そんなことが聞きたいんじゃないわよ! あ、あなた私が怖くないの?」
思わずじりじりと後退する口裂け女だったが、反対に光太郎はゆっくりと前進する。
「はい、怖くはありません。それどころか新聞であなたの記事を拝見して一目お会いしたいと思い、こうして参った次第です。怪しい者ではございません、少しお話しできませんか?」
不審がられないように努めて柔和な笑みを浮かべて手を広げながら前進する光太郎は、やや芝居がかっており、不穏なものを感じた妖女は冷や汗をかきながら距離を取る。
「あ、あなた灯青校生でしょ! 私を倒しに来たんじゃないの?」
「いえいえ滅相もない、ただこんな素敵な夜にあなたのような美しい女性とお話がしたいなと思っているだけで、神に誓って他意はございません。ご安心を」
「……ひっ」
「最近紅茶の入れ方を褒められたのですが、実はコーヒーの方も自信がありましてね、お望みならばお出ししましょうか?」
「……いで」
「鞄の中にはちょうどお茶うけに良いお菓子も取り揃えてあります。気に入るのがあればいいのですが」
「……来ないで」
「あぁもちろんこのことは学校に秘密にしておきます、ですから気兼ねなくーー」
「いやぁぁぁぁついて来ないでぇぇぇぇl」
「へ?」
満月の夜に口裂け女は泣き叫びながら逃走した。光太郎はわけもわからず呆けていたが、ただ一匹霊猫の福だけは頭を抱えてため息を付いていた。
全編通して登場人物の名前が一部変更になっています。