40 神将
二人がふと見れば、いつの間にか光太郎の背後には豪華な装束を身にまとった観音様と思しき御仏が示現しており、淀んだ空間に清涼なる気を放っていた。
康夫は灯士として活躍している間に何度も観音様の姿を拝んだが、不思議なことに観音に姿多しと言えども今まで見たこともないような持物を左手に持っていたことだ。
観世音菩薩が持つ持物にもいろいろある。その一つ一つに意味があり、例えば如意輪観音の持物は意の如く望みを叶える如意宝珠であり法輪である。千手観音はその多腕に多くの持物を携えていることで有名だ。
光太郎を守護する観音の手に握られているのは銀色の円環にシンプルな三本の鍵がついているものだ。このような持物に康夫はとんと心当たりがなかった。
だが一定のリズムでシャリンシャリンと鳴らされる鍵束の音色は美しく、怨念に染まったこの場を洗い清めてくれているような心待ちがした。
お互いの無事と再会に喜んでいた康夫と加代の二人だが、次第に厳粛な気持ちとなり、寄り添いながら黙って事の推移を見守った。
涼やかなる鍵の音は生きとし生けるものを癒し、励ます。しかし天魔外道の輩どもにはこの上なく身を苛む音色に聞こえるのだ。
呼び出された邪鬼らがもがき苦しむ中で、光太郎は悠々と真言を唱える
「オンマカシンダマニアロリキャソワカ オンマカシンダマニアロリキャソワカ……」
光太郎が唱え続けるごとに、益々聖気が膨らんで邪気を駆逐していくのが分かる。
その聖句の意味を求めると、オン(帰依します) マカ(偉大なる) シンダマニ(如意神通力を持つ) アロリキャ(観自在尊よ) ソワカ(栄あれ) となる。
この組み合わせを持つ真言もまた未知のものであったが、漲る神気は本物だ。
先ほどまで優勢でありニヤついていた邪鬼どもの顔も蒼白となり、脂汗を垂れ流している。ここに来てようやく慌てた怨鬼が気圧されまいと叫んだ。
「なんだ小僧! 死にぞこないが粋がりやがって! お前ら行け! 奴を八つ裂きにしろ!」
「ギャギャギャ!」
呼び出された主に逆らえず、反射的に襲いかかって来る邪鬼の群れ。しかし光太郎が優雅に幽導灯を一振りすると、一度に五体の邪鬼を薙ぎ払った。
「ギャアアアアア! ……」
刹那にして青白い聖気に包まれて塵も残さずに雲散霧消したかつての仲間の末路を見て、よりいっそう邪鬼らは狼狽えた。
「おい、なにをビビってやがんだ! 続けて行け! 畳みかけろ!」
無慈悲な命令と術により無理やり突撃させられる鬼達は、息もつかせぬ青色の連撃の前に絶命して行く。
その踊るように戦う姿は演舞のようであり、康夫と加代はここが死地であることを忘れて見入っていた。
次々と邪鬼をけしかけた張本人の鬼は、けれども無策ではなく息を殺して光太郎の死角から襲いかかった。
「光太郎君、後ろだ!」
恩人のピンチに慌てて康夫が身を乗り出して叫ぶがそれにはおよばない。少年はあたかも後ろに目があるかのように幽導灯を背中にあてがうと、そこを攻撃しようとした大鬼の手がバチン! と快音を立てて弾かれた。
「な、なんだと!」
驚愕する姿に目もくれず薫風をまとい振り返った光太郎は、青く煌めく奔流となった幽導灯、海王丸を用いて敵の胸元に一撃、二撃と反撃を加えた。
「グゥワァァァァァァーーー!」
霊空間が引き裂かれそうになるような雄たけびを上げ、赤黒い血潮が飛び散り焼け焦げたような異臭が周囲に広がった。
大鬼は膝をつき、なおももだえ苦しむ。
すでに配下の邪鬼はなく、自身も手痛い傷を負ってしまった。加代の霊空間とは言え、ここでの死は魂の死を意味し、現世へと戻ることが叶わなくなる。大鬼は口惜しそうに床材を叩きつけると、光太郎を睨みつけた。
「……許せん、許せーーーん! どうしてお前のようなガキにこうまでしてやられるのだ! くそぉぉぉぉぉ!」
激高しながらなおも床石を叩き続け怒る大鬼であったが、やがて気が済むと粗く弾む胸を上下させて恨み言を述べた。
「小僧、今日の所はこの辺にしておいてやるが、このままでは済まさんぞ、次に会った時は必ず後ろの奴らもろとも胴体を引きちぎり、はらわたを食らってやるからなぁ!」
どす黒い血を吐きながらも悪態を付き、立ち上がる大鬼。そして恐らく霊空間から元の世界へと転移しようと術をかけたのだろうが、まるで反応がない。何度も試し、腕を振るうも変化がない。ここにきてようやく大鬼は事態の逼迫に気が付き、慌てふためいた。
「ど、どうした……なぜ戻らない! 俺様の鬼術が通用しないだと!」
青白いオーラをたなびかせながら光太郎が応えた。
「鬼よ、惚れた女を束縛し、呪いもて遊んだ大鬼よ、焦って帰る必要はない」
光太郎の半眼に開いた瞳には神聖の光が灯り、射抜くようにその姿を捉える。
「かつての大戦より魔物と化して戻り、恨みと呪いを振り撒く者よ、その名は 南雲 久義。人でありながら人を捨て、魔道に落ちたる愚か者よ」
「……! き、貴様、なぜ、我が名を!」
「――冥府の裁きを受けるがいい」
光太郎がすっと幽導灯を前に突き出すと、南雲と看破された鬼の周りに円を描くようにして屈強な御仏らが現れた。
見事な甲冑をまとった諸仏の手には宝杖が握られており、それぞれが中央の大鬼を威圧していた。その神々しくも力強い御姿は、仏法を守る神将と呼ばれるにふさわしい。
彼らが一斉に杖の石突きを突き、ドンという大きな音を立てると、鬼はびくりと身を震わせた。その身を今まで知りえなかった恐怖が包み込む。
シャリンとまた鍵の音が鳴り、急ぎ暴れて逃れようとする南雲の体を空間に縫い付けた。
ドン、ドン、ドンドンドン。リズミカルに鳴らされる石突きの音に観音の鍵の音が重なり、やがては何処からか笛や鼓の音が足されていく。
それらの音曲に乗るようにするすると光太郎は舞踊り、明滅する幽導灯は激しく、時に微かに煌めいて神威を益々高めていく。
善に与する者にはこれほど頼もしく麗しいものはないが、悪に与する者には比類のない恐怖そのものだ。
そして今、新たに大いなる神の化身が現れようとしていた。
光太郎を守護する秘鍵観音は自分が考えた尊格なので、真言も既存のものを組み合わせて考えました