38 鳥籠
冷たい石畳の上にどこからともなくもやが出現して、そこから次々と邪鬼らが現れた。
驚くべきことに敵はすっかりこの霊空間を掌握しており、妖魔を呼び寄せる術も心得ているようだ。
光太郎は素早く幽導灯を抜くと、康夫を一瞥した。
「康夫さん、ここは僕に任せて加代さんの所へ早く!」
「わ、わかった!」
途中でもたつき転びそうになりながらも康夫はひた走った。やがて鳥籠に近付くと、鉄格子の狭い間から顔を出して悲嘆にくれる加代に語りかけた。
「加代さん助けに来たよ、早くこんな所から抜け出そう! ばあちゃんも待っているからさ!」
必死になって訴えるも、籠の鳥となった彼女は力なく頭を振るばかりだった。
焦る康夫は久方ぶりの幽導灯を手にして果敢に堅牢な鳥籠を叩くも、びくともしない。
それでも諦めずに荒い息を弾ませながら懸命に打ち続けるが、全ては徒労に終わっている。
「ありがとうございます康夫さん、こんな私のためにここまでしてくれて……でももういいんです、どうか私のことは忘れて下さい」
「どうしてさ、きっとここから出られるよ、諦めちゃだめだ!」
「私は、私はあなたにこうまでして助けてもらえるような女ではないんです。今まで多くの人達が私の為に犠牲になってきました、親しい人達を見殺しにする度に私は自らの命を絶とうとしましたが、死にきれなかったんです。まるで惜しくはない命のはずだったのに、どうしてもできなかった……康夫さん、私はあなたが思っているような人間ではないんです。その証拠にほら、こんなにも卑しい姿となってしまいました」
顔を上げて暗がりから姿を見せた加代子に康夫は思わず息を飲んだ。
浅黒い肌に角を生やして両目から大粒の涙を流すそのさまは、正に鬼女と呼んで差し支えのない異形であったからだ。
怖気を覚えるその姿に、思わず康夫は目を反らした。彼の額には玉のような汗が止めどなく湧いて滴り落ちていた。
康夫が戸惑っている一方で、光太郎への邪鬼達の攻撃は激しさを増していた。そこに姿なき鬼の嘲り声がこだます。
「どうしたどうした青瓢箪、加代の姿に怖じけついたのか? そうとも、こいつはもう全てを諦め見も心も鬼と成り果てたのだ! だがな、そんなお前でも最後に役に立てることがあるぞ? それはなぁ、鬼となった加代に食われることだよ! カマキリのように頭からバリバリとなぁ! 惚れた女に殺されるのは本望だろう? はっはっはっは……はーっはっはっは!」
康夫は己の無力さを呪って強く唇を噛みしめた。すぐ目の前て泣いている愛しい人を助けようにも、自分にはその術がない。
鬼の高笑いを聞きながら絶望して力なくその場に膝から崩れ落ちると同時に、彼方から勇ましい少年の檄が飛んできた。
「康夫さん、惑わされてはいけません!」
「ほほう、小僧。貴様はまだ希望を失ってはおらんようだな。威勢はいいが、果たしてそれがいつまで続くかな?」
邪鬼共に紛れて濃い瘴気の塊が黒い拳をかたどり、連続して光太郎を襲った。
彼はボロボロになりながらも必死に抗い、そして叫ぶ。
「この現状を打破するにはあと一歩、あと一厘が足りません! 今まさに神仏が降臨されようとしていますが、最後の決め手に欠けています! ここは加代さんの心の世界です、真実彼女が心を開かねば、まず奇跡は起きません! それには康夫さん、あなたが説得するより他はないんです!」
「光太郎君……でも、僕は」
「でももへちまもありゃしません! 見てくださいその鳥籠を! あれは呪いの鬼がこしらえたものではなく、恨みの霊がなしたものでもありません! 己で己を裁く自責の念があたかも洞窟の鍾乳石のように凝り固まった結果、心を閉ざす牢獄を自らの中に作り出してしまったのです! 鬼人化の呪いはその心の弱みにつけこまれた結果に過ぎません!」
「そんなことを言われても、今さらどうしろって言うんだよ!」
「自分の気持ちを伝えるんですよ! 愛と真心の行動でしか神仏は動かれません! それが神霊界の原則です! さぁ立ち上がってありったけの思いの丈を叫びなさい! 恥も外聞もかなぐり捨てて魂からぶつかるんですよ!」
光太郎の声に励まされて雷に打たれたのように顔を上げた康夫は、強く、どこまでも強く両手を握った。そして決意を胸に立ち上がると、毅然として加代の目を見た。
「……加代さん、あなたは自分が生きていてもしょうがない人間だと言いましたね。でもそんなことはないんです、無理やり東京まで連れてきて悪かったと思うけど、あなたのお陰でこれまで僕は本当に幸せだったんだ。あの浜辺で初めて加代さんを見つけた時はなんて綺麗な人なんだろうと思ったよ、その気持ちは今でも変わりません。だからここから出て一緒に帰りましょう! 僕にはあなたが必要なんだ!」
「康夫さん、ありがとう……でも、やっぱり私は……」
「たとえあなたが鬼でいつか僕を食べるのだとしても、一向に構いません! あなたを愛しているんだ! ずっと側にいて欲しいんです!」
「――康夫さん」
ぽろぽろと加代の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、震える指で康夫の手にすがりついた時、カシャンカシャンと渇いた破裂音を立てて鳥籠の牢獄は幻の如く崩れ去った。
崩れ落ちる加代の体を康夫が慌てて抱き留めるとその姿は最早鬼のそれではなく、青白い顔をしているとはいえ彼の記憶にあるかつての美しい加代であった。
しばし見つめあった2人は、お互いの存在を確認し合うように固く抱き締めあうのだった。