37 接敵
「加代さん!」
康夫は焦り叫んだが声は過去に虚しく響くだけだった。
次に二人が気が付いた時には、薄暗い座敷牢の中であった。
インテリアなどに工夫が見られて瀟洒な造りの部屋ではあったが、無骨で太い金属製の檻がいかめしい。
その中で籠の鳥のように飼われているのは、やはり加代であった。
あの日からどれだけの歳月が過ぎたのかはわからないが、身ぎれいにしており、何一つ不自由のなさそうな暮らしぶりがうかがえる。
ただその表情は物悲しく、小さな格子窓から遠くに見える海のかなたを眺めては生気のない西洋人形のように佇んでいた。
そのまま永遠に変わらぬ時が過ぎゆくかにも思えたが、ふと加代を呼ぶ声がした。
見ると年老いた男性が盆に乗せられた食事と共に牢内へと入って来ていた。
「またお召し上がりにならなかったのですか? いけませんなぁもっとお食べにならないと」
「……すいません、どうにも喉を通らなくて」
「それは困りましたな。加代様が弱ってしまわれると監督不行き届きでこのジジイはお役御免、旦那様に頭からかじられてしまうでしょう。ま、もっともこんなおいぼれを食らったところで美味くもないですがな! はっはっは!」
暗い雰囲気を変えようと努めて明るくふるまう老人を、加代は申し訳なさそうな目で見た。
「すいません、気を使わせてしまって」
「ああこりゃ失礼しました、頭を上げておくんなさい。私はただ加代様に元気になってもらいたいだけなんです。今は辛いでしょうが、なに、生きてればそのうちいいことがありますよ、きっとね」
「そうでしょうか……いえ、そうですね。いただきます」
「はい、たんとおあがりください、へへへ」
和やかな空気が冷たい牢内を満たすかに思われたが、次いでかけられた声は身の毛もよだつものだった。
「おう、随分と楽しそうじゃないか、加代」
「こ、ここれは旦那様、お早いお戻りで」
現れたのは、またあの黒い瘴気に包まれた鬼人であった。姿ははっきりと見えなくても声でそれとわかる。
「ああ、またいつものつまらん作戦会議だった。さっさと本土に攻め入ればいいものを、悠長なことだ」
いつの間にか入り込んでいた鬼人は、ぞっとするような瞳で加代を見る。
「やれ、普通の飯ならば食うかと思えば、あまり食が進まんようだな」
「あなたがそう睨んでいるからではないですか」
「ははは、ぬかしやがる。だがそこを気に入ってもいる。許嫁のくせにお前は昔からそうだったな。こうして捉えられてもなお鬼になるのを拒んでいる。馬鹿な女だ」
「なにを言われようと私は鬼人にはなりません。気に入らないのならばいっそ殺してください」
きっと旦那様と呼ばれた鬼人を睨み返す加代。過去の出来事とはいえ、康夫はハラハラしてやり取りを見守っていた。
「殺しはせんさ、どう思ってるのかは知らんが、これでも俺はお前を愛しているんだぞ? だがさすがに鼻についてきた。お仕置きが必要だな」
光太郎達にはもやがかかっっていて見えないが、鬼が醜悪な顔をして加代に詰め寄っているのがわかる。
緊迫した状況だが、一瞬の隙をついて加代の手を引いた老人が二人で牢を出て、素早く錠前に鍵をした。激怒した鬼人が鉄の格子を掴んで唸る。
「おいジジイ、これはいったいなんのまねだ!」
「加代様、このまま逃げるんだ! 屋敷の裏に船が隠してあるからそれで本土まで行きなさい!」
「で、でもそれじゃあおじいさんが」
「私のことはどうでもいい! いいから早く……ぐはっ!」
鬼が牢の中から伸ばした爪が否応なく老体の胴体を貫き、彼は口から大量の血を吐いた。しかし執念で鍵を取り出し加代の足元に滑らせる。
「そ、それでボートのエンジンを動かすんだ、さぁもう行きなさい! 振り返っては、いけな、い……」
「おじいさん!」
ぐらりとよろめいた体が床に倒れ、悲鳴のようにきしむ格子を掴んで鬼が言う。
「加代、なぁ加代よ、今更どこへ行くというんだ。お前の家族はおろか親戚縁者は全てすでに死んでいる。頼れる者などないはずだ」
「それでも……そうだとしても、私は行きます! 例え野垂れ死ぬとしても、人間として死んでいきます!」
「グゥアルゥ! なにも知らない小娘の分際で生意気なことを言いやがって! だがいいだろう、逃げてみろ。逃げて逃げて俺様のことを忘れかけた時、お前は改めて思い知るのだ。逃れられない己の運命をな! はっはっはっは……はーっはっはっは!」
血まみれの牢内で鬼が笑う。悪夢から逃れるようにして加代はひた走り、老人の話にあった小型モーターボートを見つけてエンジンを起動させ、からくも北の地獄と呼ばれた北海道を脱出したのであった。
これまでの顛末を見届けた康夫がうなだれる。
「加代さんにこんな過去があったのか……」
「感傷に浸っている場合ではありませんよ、霊界がまた変容しています、どうやら次の舞台へと飛ばされるみたいです。警戒を」
「へ? わわわわ!」
果たして光太郎の警告通りにぐわんと視界が歪むと、一気に辺りの景色が変わった。
そこはかがり火に照らされた薄暗い広大な空間であり、冷たい石造りの景観は巨大な牢獄を思わせた。
そして遠く中空に浮かぶ鉄でできた鳥かごの中には、打ちひしがれた女の影があった。
彼女はこちらに気が付いて目を見張った。
「康夫さん! どうしてここに!」
「加代さんなのかい? どうしてって、助けに来たんだよ! 光太郎君と一緒にね!」
「そんな……逃げて! 逃げてください! もうここは私の世界じゃないんです!」
「心配いらないよ! すぐそこから出してあげるから!」
先走る康夫を追いかけるように光太郎も駆けだすと、周囲に高らかな笑い声が響き渡った。
それは底冷えのするようなおぞましい声であり、聞き覚えのあるものであった。
しばらくすると眼前には瘴気の塊が鬼の形をなして出現し、洋々と宣言した。
「こんな所までよく来たな、その執念だけは褒めてやろう。だが後悔してももう遅い! ここが貴様らの墓場だ!」