33 和泉加代
時は過ぎて日も暮れて夜の二十時を回った頃、とっくに子供達がいなくなって静かになった駄菓子屋鍋島の店先で、ごめんくださいと木戸を叩く者があった。
夕食を済ませまどろんでいた康夫はずれた眼鏡を直しながらやれやれと出迎えると、そこに立っていたのは誰あろう昼間の学生灯士、暁光太郎ではないか。驚いた康夫の声が上ずる。
「どどっどうしたんだい光太郎君、もしかして店に忘れ物でもしたのかい?」
「さて、忘れものかと問われればそのようにも思いますが、一つお聞きしたいことがありまして」
目深に被った学生帽のつばに少年が手をやると、にわかに不気味な風が吹き、納戸がカタカタと音を立てた。
落ち着き払った様子の光太郎とは対照的に、康夫の額には後から後から脂汗が浮かんでくる。
「き、聞きたいことってなんだい?」
「康夫さん、灯士であるあなたにはわかっているはずです、この家の奥から微かに漂う鬼の気配、隠しおおせるものではありません」
全てを見透かすような光太郎の瞳が康夫を射抜く。たまらず彼は目をそらした。
「な、なんのことかわからないなぁ、鬼がいるだなんて君の気のせいだと思うけど、あはは……じゃあさよなら!」
康夫が急いで閉めようとする木戸を光太郎はさっと左手を差し込んで止めた。それは少年のものとは思えない膂力であり動かざること岩のようだ、康夫の力ではどうにもできなかった。
「とくとご存知のこととは思いますが、鬼が現れたのならばそれに対処するのが灯士の定めです。そこまで庇われるとなると、なにか特別な事情があるのではありませんか?」
「お、鬼じゃない! 彼女はまだ人間だ!」
「彼女……そうですか、やはり匿ってらっしゃるんですね」
すっと光太郎の目が細くなると同時に、康夫は体中から滝のような汗を流して狼狽えた。なにか言い訳をしようにもこの少年を前にしては上手くいきそうにない。
康夫が視線を漂わせながらうわごとのようになにかを呟いていると、店の奥から大きな音が聞こえてきた。そして続く断末魔。
「ぎゃーーーー! 康夫! すぐ来ておくれ~~!」
「どどど、どうしたんだよばあちゃん!」
「失礼します!」
「あ! ちょっと困るよ!」
康夫の静止を振り切って風になびく柳のようにしなやかに店内へと侵入した光太郎は、声のした方、すなわち二階への階段を速やかに発見してトトトトトンと駆け上がる。するとそこには外れたふすまとへたり込む老婆の姿があった。
恐怖におののく老婆に光太郎が声をかけようとした瞬間、蛇の如く素早く這ってくる邪気を敏感に察した光太郎は間髪入れずに幽導灯を抜き放った。
「ギャッ!」
薄暗い室内に清浄なる光が輝いて、襲いかかろうとしたところに強い聖気を受けた何者かは短い悲鳴を上げて部屋の隅へと飛びのいた。
光太郎は愛灯を掲げながら部屋の中央にある吊下式照明の紐を二回カチカチと引き下げると、弱弱しく点滅した丸型蛍光灯の明かりが異形の姿を照らし出す。
苦しそうに照明を見つめるその姿は額に角を持ち尖った犬歯に爪を持ち合わせた鬼人そのものであった。
「昼間から感じていた違和感の正体はあなたでしたか」
「グルゥアウ! チガウ、わたしワァ、マダ、鬼じゃ、ナイ」
長い髪を震わせて怯えながら光太郎を見るその瞳からはしずしずと涙が流れており、かろうじて人の心を留めているようにも感じられた。
どうしたものかと光太郎が思案していると、不意に後ろからナベシマの老婦人に腰回りをつかまれた。
「お願いだよ学生さん、どうか見逃してやっとくれ! この娘はこんな見かけだが悪い子じゃないんだよ! 康夫! お前もなんとかお言い!」
「光太郎君、この加代さんは邪鬼じゃないんだ! 普段はなんてことないんだけど、ただ今はちょっと具合が悪いだけなんだよ」
「安心して下さい、無体なことは致しません。人が鬼になるのにはそれ相応の理由があります、まずはそれをお聞かせ願いましょう。しかしその前にーー」
光太郎は隅で固まっている加代と呼ばれる女性の前で、ゆっくりと優しく幽導灯を振り始めた。きらきらと淡く青白いプリズムをこぼれさせながら揺らめく光を見ていると、自然とその場にいた全員の気持ちが落ち着いてきて穏やかな心持となった。ついには伽羅のようなかぐわしい香りまで漂ってきたではないか。
最初は怯えながらこの光景を見ていた加代だったが、次第に瞼が重くなってきてついには意識を失うように眠りに落ちた。
「康夫さん、今加代さんは眠っていますが長くは持ちません。時間を稼ぐために術式を施すのひとまず寝かせて下さい」
「ほ、ほら康夫、何してんだい! さっさと言われた通りにおし!」
「痛った! 叩かないでよばあちゃん!」
祖母にどやされながらも康夫は鬼化して眠りにつく加代を重そうに抱き上げて、やっとのことで布団の上に寝かせることに成功した。
光太郎はその間に自在布から様々な術具を取り出すと加代の周りに並べた。
加代の周りを囲むように四隅に盛塩をして香を焚き、蝋燭に火をともす。己の手には塗香をまぶすと、清涼感のある清々しい香りが鼻孔を抜けて心地いい。
仕上げに特別な方法で聖別された壺を取り出し樒の束を中のご神水に付けて祈りながら水滴を振りまくと、バチリと蝋燭の炎が音を立てて鳴り、一介の駄菓子屋の店主である老婆の身からしても、空間がキリリと清まるのがハッキリ分かった。
光太郎は加代の様態が安定しているのを見て、改めて二人に向き直った。
「これでしばらくは大丈夫です、ではお聞かせ願いましょうか。なぜ加代さんが鬼人化の途中にあるのか、その理由を」
おさまっていた風が再び勢いを増して家屋全体を打ち付ける。ギシギシと音が鳴り、僅かに照明が揺れている。
祖母が心配そうに見つめる中、康夫はごくりと喉を鳴らして重い口を開いた。
「実は……加代さんと僕は逃げて来たんだ。鬼人が支配する北の最果て、北海道からね」
大変遅くなり申し訳ありません
まだ現状が安定しているとは言えませんが、少しずつでも溜まったら更新して
行きたいと思います、
何年かかるか分かりませんが最低限自分自身で納得出来るところまで書きたいので
宜しければ気長にお待ちいただけると幸いです