23 最終実験
「了解」
すぐ後ろにいるこれまた軍人らしき女が頷くと、素早くなにかを手から放った。それは狙い外れず喚いていた鬼人の胴体に深く突き刺さる。
「なっ! なんだこれは! ぐ、うぉぉぉ!」
突き刺さった物体は注射器であった。独りでに押し子が動いて黒い内容液がするする注入されていき、それに伴い血管が膨れあがってドクドクと脈動し始める。
誇張ではなく身体全体が膨れあがり、衣服が破ける。体色はより黒みを増して角にまで血管が浮き上がり目は血走って牙が伸びる。
鬼人とも言えない存在になれ果てたそれは、まさしく鬼と言える異様であった。
「ぐぅアアアゥ……ぐおオオオオオオオ!」
目の焦点が定まらなず忙しない運動を続け、口元からは涎を垂れ流す。先程まであった人間的な様相はどこへやらかき消えて、狂獣めいた禍々しさを放つ異形が絶えず唸り声を上げていた。
お富と依子は息を飲んでこれを見つめる。
「な、なんだいこれは、どうなっちまったんだ」
「鬼人がさらに変身した……?」
幾多の修羅場を経験した教職の二人であっても、このような事態に遭遇するのは始めてであった。とはいえ生徒達や町内会の面々を危機から守らなければならない。
ダンジョン内ならいざ知らずここは街中である。後々のことを考えても怪物を野放しにするつもりは毛頭無い。意を決したお富は依子を見ると、彼女も頷き返した。覚悟のほどはできている。
「せいやぁぁぁぁ!」
先手必勝とばかりにお富が斬り掛かり、赤銅色に燃える幽導灯がごうと音を立てて鬼人の銅にぶち当たる。しかし。
「効いてない!?」
「ガアアアア!」
「はぁぁぁ!」
両名が激しく火花を散らして幽導灯を振り続けるも、一向に倒れる様子がない。それどころか、斬り付けられた所から黒い瘴気が噴き出して傷が塞がっていく。
「がぁアアアっ! おれニィ、俺ニなにをシタ! たたタ! タァイさ!」
軍服の男がやおらソフトケースを取り出してシガレットを一本咥えると、側の女が慣れた手つきで火を付けた。ジッポライターのかちんと響く音がどこか虚しく響く。
男はゆったりと肺にまで煙を吸い込むと、糸のように吐き出した。
「貴様安座真と言ったか、なにをしたかだと? お前が望んだんだろう、俺を助けろとな、そのために特別な薬を打ってやっただけだ。まぁ強靱な力の代償に理性を失う可能性があるそうだがな」
「グルアぅああぅぅぅ……な、ナンダトぅ! アアアアアア!」
「我が軍に無能は不要。力はくれてやった、後は自分でなんとかしろ」
味方のはずの鬼人が悶え苦しんでいるのに軍服の男女は涼しい顔で見ているだけだ。
「くっクソっタれぇェェェェ! や、やってやル、ナラば、ゼンインたたキコロセばいいんダロウ? やってヤルぅぅぅぅ!」
鬼人の目に赤い光が灯る。膨れあがる殺気は先程までとは段違いで、対峙している二人の足も思わずすくむ。
安座真と呼ばれた鬼人はそのまま拳を振りかぶりお富の眼前に躍り出た。力の限り振り抜く強撃は、かろうじて前に差し出した幽導灯の灯身に当たっても勢いを損なうことなく持ち主の身体ごと民家の外壁に叩き付ける。
「がはぁ!」
「先輩!」
「お富さん!」
コンクリートの外壁が砕けてお富は口から血を吐いて力なくアスファルトへと崩れ落ちる。幽導灯で直撃を防いでもこの威力である、そうでもなければ一瞬にしてお富の命はなくなっていたに違いない。
お富が倒れたのを見てえまが反射的に駆け寄った。班内で回復役を務める彼女の責任感が恐怖に打ち勝ったのだ。えまは幽導灯を掲げて必死にお富の回復を祈る。そして依子が叫んだ。
「悠人君! 学校に緊急伝令! 強敵と戦闘中! 至急応援頼む! 送れ!」
「は、ははは、はい! え~とピッチ、ピッチ……あーもうどこだよ! ーーあった! ってげぇ!」
弾かれたように声を上げた悠人が忙しなく身体中をまさぐると、やっとポケットに入っている簡易型携帯電話を見つけた。しかし取り出して見てみるとそれは、先程までの小邪鬼との戦いの最中で壊れており、とても使用できる状態ではなかった。
「なんだこれ、使えねぇじゃねーか! おい勇! お前のピッチ貸してくれ!」
「い、いやだ」
「え? いやすぐ返すしなんならお前がかけても……」
「いやだぁぁぁぁ! 助けて、誰か助けて! うわぁぁぁぁぁぁ!」
「あぁおい勇! どこ行くんだよこらぁ!」
変化した鬼人を見てガタガタと震えた勇は自分の降魔灯すら放りだして一人で逃げ出してしまった。これに触発されて酔っぱらいもあちこちにぶつかりながら逃げていく。龍次は痛む身体をなんとか動かして自分のピッチを悠人の足下に滑らせた。
「それを使え悠人!」
「おおサンキュー龍次さん!」
悠人は素早く学校の緊急連絡先に電話をかけると、混乱しながらも大声で現状を説明した。
「先生! 至急後詰めの先生方が駆けつけてくれるそうです!」
「了解! 花牟礼さん! 先輩はどう?」
「なんとか歩けそうです!」
「よし、じゃあ十三班は町内会のみなさんを護衛して学校まで戻って! ここはあたしが食い止める!」
「依ちゃん……一人じゃ、あたい、も」
「大丈夫です先輩、あたしを信じて下さい、後は宜しくお願いします」
「あんた……」
「心配ないですって、帰ったらまた飲みに行きましょう!」
「ああ、きっとだよ」
えまはお富を抱えて立ち、ゆっくりと歩き出した。龍次や悠人も歯を食いしばりながら徐々に遠ざかっていく。
「光太郎君、君も早く逃げーー」
だが光太郎だけが一人、動かずにその場で立ち尽くしていた。いや祈っていた。
先程から右手の幽導灯を背後に回して背骨に垂直に沿わせるようにして持ち、左手で拝みながら神妙な面持ちで祈り続けていたのだ。
依子が少年を見ると、彼も無言で見つめ頷き返す。すると力強く少年の中で淡く渦巻いている神聖を強く感じ取った。
危機的な状況下では真っ先に生徒を避難させるのが教職者の勤めである、しかし依子はこの一瞬で彼と彼を守護する存在に賭けてみようと思った。
「ーーその顔は意地でもここを動かないって顔ね。わかったわ、なにをしたいのかは知らないけど君の好きにやってみなさい」
「いくら光太郎さんでも無茶ですよ! 一緒に逃げましょう!」
お富を支えたえまが叫ぶ、しかし少年はその場を動かず軽く頭上で幽導灯を三回振り回した、そして再び元の深い祈りの中に没入していった。
これは灯士の間で認識される合図で、問題無いとか行って良しや安全を意味する。えまはその威風堂々たる後ろ姿を見て、若干躊躇いはあるものの大人しく後退した。
鬼人はと言うとだんだん理性が乏しくなり、薬の副作用からか時折動きが止まって苦しそうな表情も見せている。攻撃力はあるが錯乱して所かまわず手当たり次第拳を打ち付けている状況だけに、もう少しの閒なら時間稼ぎが可能だろう。
だが後ろに控えている者がどう動くかがまったく読めない、依子は軍服の二人をきつく睨み付けた。
「心配するな、この場は我が闘争には相応しくない。もしお前達があれに勝てるならば見逃してやろう」
何本目かのタバコの光が蛍のように儚げに灯る。そして気だるげに白い煙を吐き出して言った。
「勝てるものならば、な」
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