ローズのピアノ
ローズピアノは少し値が張る上に、ピアノといいながらピアノの音が出ない。
しかし、楽器店の片隅で埃を被ったそれを見た時、僕は何となく心惹かれるものがあった。絵を気に入るような、似合わない服を買ってしまうような衝動みたいなもの。見た目が気に入ったというにはあまり面白くない格好の、オルガンよりも簡素な黒い長方形の筐体に鍵盤が付いている。アコーディオンから蛇腹を取って四本の鉄パイプで自立させたといった風情だ。松任谷由実が弾いていた記憶もあるけれど、音色は覚えていなかった。
鍵盤を叩くと、くぐもって全く響きの無い音が微かにけゴン…と鳴るだけだった。
「あれ?音が出ない」
「それはエレピだから、電源を繋がないと音が出ないよ」
振り返ると黒色のハリネズミのような頭の青年が立っていた。黒いエプロンをしているので、どこぞのコーヒーチェーンの店員のようだなと思った。
「電子ピアノですか?」
少しだけ知識があるような振りをして聞き返してみると、微笑のまま首を振られた。
「いいや?これはエレピ、電子ピアノは音をサンプリングして、鍵盤を押すと再生するっていう、まあ入力装置だ。で、このローズピアノはエレピで、短い弦と共鳴版が入っていて、それをマイクで拾って音を出すんだ。平たく言えばエレキギターみたいなものだよ。グランドピアノはアコースティックギターみたいなものだと思えばいい。電子ピアノの中で、ピアノ以外の音もサンプリングして再生できるようになっている物をキーボードと言ったりするけど、パソコンのキーボードと同じ入力装置って意味になる。因みにおんなじ場所に並んでいるけれどシンセサイザーは全くの別物だ」
「キーボードとシンセサイザーって違うんですか?」
「キーボードは再生装置だけど、シンセサイザーは機械音を作り出す装置だ。英語でシンセサイズは合成って意味で、電気信号を合成して音を作る。鍵盤が付いたのはその作った音を音階にして演奏する為だよ。昔のアナログシンセはケーブルの差込口と電力調整のノブがたくさんついた百キロ近い機械の塊だったんだ。仕入れた記録は無いけれど、年代物のアナログシンセは電源を入れてから起動するまで半日近くかかったりすから、今はデジタルの方が主流になってる。あ、つまりこれは電気で音を出すピアノって事だよ」
店員は少し苦笑しながらそう締めくくった。僕は彼の話を聞きながらああ、この人は楽しそうだななどと考えていたので、僕はバレないように覚えている限りの内容で質問を作って返してみたが、何だか少し間抜けな質問になってしまった。
「じゃあ、これはその、このピアノの音しか出ないってことですか?」
「そうだよ。だから需要は少ないんだけど、一部のミュージシャンは持っておきたいって思う楽器だ」
ピアノ弾くの?と聞かれて不意に地面に戻って来た様な気がした。慌てて返事をしたので多少声の音量がおかしくなった。
「いえ、全く弾けません」
「まあ、ピアノは鍵盤を押せば音が鳴るから、誰でも弾こうと思えば弾けるから」
「いや、それはだって」
流石に誰でも弾けるわけはないだろうと思ったし、そう言おうと思った。けど店員は続ける。接客用の笑みではなくなっていた。
「例えば、右手だけで鍵盤を押してメロディーを弾くことは出来る人はたくさんいる。けれど、みんな弾けない、難しい、無理だっていう。弾けるっていう事の水準がものすごく高いところにあるんだよ。ショパンを間違えずに弾けるようになって初めて弾けると言っていいみたいに思っているけれど、右手で短音で、チューリップを弾けるくらいでも、弾けることには変わりないと思うんだ。最初から両手が別々に動く人なんてそうはいないよ、みんな練習して出来るようになった。だから無理だってあんまり言ってほしくないんだよ。それに、外国の人に日本語を喋れるかって訊くと、喋れるっていう人が多いんだ。で、聞いてみるとスシとかラーメンとか忍者とか、その程度なんだけど、それでも彼らは胸を張って喋れるって言う。僕はそれでいいと思った。日本人は、って言い方は正確じゃないかもしれないけど、少しプライドが高いっていうか、あんまり高い水準を求めすぎてるんじゃないかって。音楽は楽しければいいと思う。聴くのもいいけど、自分でやるから楽しいんだと思う。自分の手から音が世界に飛び出していくのはいいものだ。音楽ってそういうものだと思う。だから、高級な楽器はミュージシャンしか買っちゃいけないとも思わない。君が欲しいと思ったんなら、それは巡り合わせだと思うよ」
「え?いや、僕は別にその、購入を考えてるわけでは……」
僕がアタフタと不審な動きをしていると、店員さんは無邪気な声で笑った。
「いやゴメンゴメン、そこまで押し売りするつもりは無いよ。衝動買いするような物じゃないし、部屋に臆にしても大きい上にメンテナンスも面倒だからおすすめはしないよ。これ」
「そ、そうなんですか?」
「あと、外国人の話はドラマで見たのの受け売りだから。裏付けは無いんだ」
「あ、そうなんですか…」
僕は苦笑いを浮かべながら思った。この人はそれ程真面目な人でもないようだ。
「昔はピアニストを目指したこともあったんだよ。コンテストで一度だけ金賞を取って、自分は天才だと思った。けれどそんな人は五万といると知って、それから楽しくなくなった。仕事で音楽をやるのは中々辛いものがあるよ。そんな人の弾く音は、よほどの才能が無いと魅力的にはならない。それで少しの間ピアノの家庭教師をしてみたりした。その時、弾けるようになった子供を見て、楽しそうだと思った。それが羨ましかったし、もうあそこには戻れないんだと思った。だから、今はこうして楽器を売っているってわけだよ」
だから、というのは、それでも好きだからという意味だろう。音楽から逃げられない人。それしか出来ない人なのだ。でも、苦しんではいないのだろう。
僕には結局なにも分からないけれど。
店員さんはローズピアノに電源を入れてくれた。念のため店員が鍵盤に少し触れると、氷の転がるような暖かい音がポロポロと鳴った、音楽室のピアノの少しひび割れて透き通った音とは違っていた。
「いい音ですね」
「まあ、これはミのフラットの音が出ないんだけどね。それで15万円。どう?」
「少し、親と相談します」
店員の男性は「よろしくご検討ください」とちょっと揶揄うように笑った。
それから1週間後、あのローズピアノは無くなっていた。床の四つの足跡がそれが置かれていた時間を物語っている気がした。別の髪の長いバンドマン風の店員が声を掛けて来たので、ここにあったピアノを尋ねると、「ああ、あれは売れたよ」とあっさり言われた。落胆しつつ、ふとピアノ担当の店員の姿も見えなかったのでその事も尋ねると、長髪の店員はああとこともなげに言った。彼は親の介護の為に仕事を辞めたとのことだった。
「ローズの音ならサンプリングしてるキーボードもあるから、弾いてみます?」
液晶画面と無数のボタンの付いたキーボードの真っ白な鍵盤を押すと、あの時と同じ音がした。けれどどういう訳か、このピアノは欲しいと思わなかったので、僕は店員にお礼を言って楽器店を出た。
またどこかで、巡り合うだろうか。




