【エマの章】
エマの家は皇国アマリリスにある貧しい農家だった。
そして母親は子供をたくさん産んだ。
働き手となる男は重宝されたが、女は食い扶持が減ると、厄介者扱いされた。
そして長女だったエマは、ある日突然、一家が一晩食い繋ぐだけの安い値で奴隷商人に身売りされたのだ。
無慈悲にも、その日はエマの十の誕生日だった。
皇国では、不正などを嫌う皇帝ルードヴィッヒによって奴隷商人たちを厳しく取り締まう法が出来てはいたが、燐国との紛争地域では抜け道が多く、裏取引などの闇が蔓延っていた。
「……はぁはぁ、生娘じゃな……?ワシは生娘が大好物でのぉ……」
涎なのか歯の隙間から飛んでいる唾なのかわからないが、汚らわしい何かがエマの顔に飛んでくる。エマを買った男は年老いていた。貧相に痩せこけた体に落ちた肉。皺だらけの顔に手。肌には張りなどなく、染みが出来ている箇所もある。
そんな男でも下半身はまだ現役だと言うのだから恐ろしい。
――嫌だ、嫌だ……気持ち悪い……っ!
クチュっという唾液の音が。
自身の肌を撫で回すように動く乾燥した指先が。
醜い肉棒が。
男の全てが。
嘔吐しそうなほど、悍ましい。
ガシャンッ……!と金属の何かが割れる音が響き、エマは我に返った。
ぬるりとした生暖かい液体がエマの白い腹の上を伝う。太股まで垂れたそれは、紛れもなく男の血だった。
床に割れた花瓶の破片が散らばっている。とても美しい花瓶だったが、今のエマにとってそんなことはどうでもいいことだった。
――に、逃げなきゃ……!
主人を殺した奴隷など、すぐに殺されてしまうだろう。もしくは酷い拷問にかけられるかもしれない。それとも止まない暴力の嵐だろうか。
「……ほう。これはこれは興味深い……」
「?!」
その場から逃げ出そうとしたエマの動きを止めたのは、一人の男の声だった。
顔を上げれば、部屋の窓枠に腰を掛けてエマと死体を見比べている。そして男の膝の上には同い年くらいの子供がちょこんと座っていた。
「だ、誰なの……、私を殺しますか……?」
震える声で精一杯紡いだ台詞は男の笑い声に一蹴される。
「はははっ!私は正義の味方だよ!人身売買された子供たちを引き取って育てている」
「育てる?……どうして?そんなお金のかかる、無駄なこと……っ」
「世の中に無駄なことなんてないよ?」
両親に浴びせられていた台詞を吐き出したエマに、男はにっこりと微笑んだ。その時やっと月光で影を纏っていた男の顔がくっきりと浮かぶ。
声と喋り方の雰囲気で中年だろうと思っていた男は、想定よりも若かった。
「さぁおいで。このアンビアンスも君と同じ境遇の子だよ。私が育ててあげる。……君たちを立派な暗殺者に」
――暗殺者……。
心の中で復唱した言葉の意味に、エマは何故か奇妙な安心感を持った。男の無駄ではないという偽善的な言葉がはっきりと彼の思惑の意味を持っていたからかもしれない。
そして時は流れ、糸を立派に(人を殺めることが出来るほど)操れるようになったエマは、皇国より離れ、ロサという女王が導く国にやって来ていた。
目的は師の命令通りに、噂の青薔薇姫――ノヴァーリスの護衛として潜入することだった。
とは言え、師からは誰の暗殺命令も下されていない。
ただ護衛として紛れ込み、ノヴァーリス姫の成長を見守ること。たったそれだけだ。
――こんな楽な仕事もないわね。……と思っていたのだけど。
エマは小さく溜め息を吐く。
理由は、同じように侍女に扮し護衛として雇われたもう一人が騒がしい女だった為だ。
そして別にもう一人。執事に扮している男も何を考えているのかわからない者で気味が悪かった。
「……テラコッタ!!またこんなに……部屋を汚したわね?!」
「わわ、エマちゃんごめんって!!食べかけのケーキを分けてあげるから!許してよーっ」
「食べかけって何よ?!そんなもので許せるわけないでしょ?!あぁ、もう!どうして貴女と相部屋なんだか……っ!」
暗殺者として修行に励んでいた日々は辛かったが、生きていいという実感を得ることが出来た。
過去の悲しみを乗り越える為に、それらは確かにエマに必要不可欠だった。
だが今はどうだろう。
目の前にいるテラコッタは、のほほんとした楽天家だ。物心ついた時から素晴らしい魔力を持っていたらしい。親はいなかったが、優しいシスターや同じ境遇の兄弟たちとぬくぬくと育ってきたらしい。
自分に持っていない温かさが、異様に眩しかった。
そしてそんな彼女を鬱陶しいと思いながらも、どこか好いている自分がいたのも事実だった。
生温い感覚が今までの自分自身を麻痺させていく。
「……失礼します」
ハッと顔を上げたときには、部屋の中にシウンという例の執事に扮している護衛がいた。
扉の前で腕を組んで冷たい視線で自分達を見ている彼に、エマは眼鏡の奥で鋭い眼光を送る。
「ちょっと、シウン!勝手に乙女の部屋に入ってこないでもらえますかぁー?」
「……俺は三回ノックをしましたよ。それでも気付かず無駄口を叩いていたのは貴女方でしょう。……後、三十路前後で乙女とは……」
「カッチーン☆エマちゃん、こいつ殺そう!!」
エマはまた始まったと思った。
テラコッタとシウンは相性が悪いのか、顔を付き合わせばいつもこんな感じなのだ。
「私は別にいいわよ……」
「いやいや良くないよ?!アイツの顔を見て!!エマちゃんの胸が絶壁だとか馬鹿にしてるんだよ?!」
「……それはアンタの感想じゃない?」
グリグリとテラコッタの蟀谷を強く拳で痛め付ける。すぐに悲鳴を上げ降参すると手を上げるが、胸にコンプレックスのあるエマはもう少しだけ苛めてやろうと思っていた。
「……ふっ」
そんな時だ。いつも無表情のシウンが吹き出したのは。
「……ひっ?!い、いま、アイツ、笑ったの?!」
「……こほん。いいえ。笑ったんじゃなくて、貴女方は俺に笑われたんです」
そう言ったシウンは綺麗に微笑んで、まるで絵画の中の王子様のようだった。思わず見惚れてしまいそうになったエマに、シウンは咳き込むといつもの冷たい視線を向けてくる。
「ところで。今夜、陛下の寝室に集まって欲しいとのことです。定期的な報告会だとは思いますが」
そう言って部屋から出ていったシウンの後ろ姿を見送りながら、彼がたった一年で随分柔らかくなったものだとエマは思った。
勤め始めた頃の彼は、笑うことも苦しそうだったのだ。
「あのシウンコ野郎、絶対ロリコンだよ!!私の可愛いノヴァーリス様を見る目が日に日にイヤらしくなってるもん!」
「私はアンタの方が涎垂らしてやばく見えたけどね」
「うわぁん!エマちゃんは私とシウンコ野郎どっちが大切なんだー!!」
――強いて言えば……
そこまで考えてから、エマは小さく吹き出した。
角が取れて丸くなってきたのは、自分自身が一番かもしれない。と、そんなことを思いながら。
窓の向こうでは冬の凍てつくような風が窓ガラスを白く濁らせながらコンコンと叩いている。
――……ここは温かい。
師の思惑が何にせよ、願わくばこの淡い夢のような日々がずっと続きますように。
――汚れた私が望んでもいいのなら。
はぁっと吐き出した息は、白く空気を渡りすぐにかき消えた。