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暗夜より

作者: 桐条 誠

「真琴! 真琴!」

誰かが自分の名前を呼んでいたが、自分は振り返ることはなかった。もう私は死んだ。あの時死んだのは私に違いなかった。後悔など何もなかった。それなのに、私は今、あの憎たらしい高校の正門にいたのだった。

 日は暮れ始めていたから、本来ならもう帰宅してもいい時刻だった。特に部活には入っていなかったし、学校でやることなんて何もなかった。しかし、誰ひとりとして帰る人はいなかったので、私はここにいるのが不安になって校内へと入っていった。

 私は学校が好きではなかった。大嫌いだった。だからと言って、家にいたいわけでもなかった。家庭も嫌いだったのだ。学校では入学以来二年間、散々にいじめられ、家庭では父も母も絶えず喧嘩して、その中にいた私は何も言わない傀儡のような存在でしかなかったからだった。自由を制約され、ただひたすらに人に動かされているだけの存在だった。例えて言うならば、動物園で見世物にされている狼だった。もし、そんな歪な環境でなければ、狼も群れをなして、誰にも笑われず、虐げられることなく悠々と生きていたはずだった。〈もしも〉なんて都合の良い世界があるのなら、私もそんな風に、誰にも害されることなく、自由に生きてみたかった。

 私は校内に入って一つ気づいたことがあった。私以外に誰もいなかったのだ。グラウンドにも教室にも誰ひとりいなかった。そのうえ、昇降口や玄関、体育館、普段施錠されている場所、見渡す限り全ての扉が開いていた。私は不審に思いつつも、初めて校舎に入ってみたいと思った。しかし、すぐには校舎に入らなかった。いや、入れなかったのだ。いくら心の内では「入りたい」と思っていても、あの忌まわしい学校に入るには、少しの勇気が必要だった。私はそれをすぐに得られるほど、器用ではなかった。

 そもそも、そんな立派な能力を持っていたのなら、いじめてくる人たちに言い返すだけの勇気と度胸は持ち合わせていただろうし、両親を黙らせるだけの言葉を持っていたに違いなかった。だが、そんなことを死んだあとに、まして自分自身が死んだあとに考えてもどうにもならない話であったのは言うまでもなかった。

 私は校舎に入るべきか、入らないでいるか、ただ迷った。ここで誰かが入るというのならば、あるいは入らないというのであれば、それに従うのであるが、今ここには誰もいなかった、私しかいなかったのだ。私はしきりに昇降口の扉のガラスを鏡代わりに長い黒髪を整えたり、何もないのに埃を払う仕草をしたりしながら、入るか入らないかだけを考えた。

 しばらく経って、私は結局校舎に立ち入ることにした。外に居たところで、誰も来るわけではないし、何もすることがなかったからだった。そしてついに私は校舎に踏み入った。なるべく音を立てないように、さっきまで鏡だった扉を開いた。やはりそこにも誰もいなかった。扉の鍵も全て開いていた。さらには定刻になってもチャイムは鳴らなかった。私は、誰かの邪魔になるわけでもないのに、誰が決めたかもわからない常識にただ従って、靴を脱いで自分の靴箱にしまって、スリッパに履き替えた。

 先生も生徒もいないうえ、全ての扉の鍵が開いているのなら、普段行けないところへいけるはずだ、そう思った私は校内を歩き回ることにした。いきなり職員棟から探検しては面白味がないし、誰かいるかもしれないという思いがあったからか、東端に位置する体育館から回ることにした。体育館には特に行ったことのない場所などはなかったが、どうせ全てを歩き回るなだから、面白味にかけるところから先に見て回った。

 あれだけ校舎内に入ることを恐れていたくせに、実際に校舎に入るとちっとも怖くなんてなかった。むしろ学校で一人きりというのは初めてのことだったから、とても楽しいくらいだった。誰かにいじめられることもなければ、親の喧嘩の仲裁に入る必要もない。さらに、今なら好きなこともなんだってできた。時折、聴き馴染んだ若い女性の声が「真琴!」と私の名前を呼んでくるが、周囲を見渡しても私以外誰もいなかったから、不思議に思いつつも、そこまで気に留めていなかった。

 体育館を一通り見て回ると、次は武道場、次は被服室、という風に東から順に見て回った。もちろん普段行ったことのない場所に行くことが主な趣旨ではあったが、行ったことのある場所も見回った。少しばかり大きな学校ではあるが、西端の職員棟まで一時間と少しあれば十分に見て回れる大きさだった。

 私は東側を見終えると、体育館と職員棟のちょうど真ん中にある学生棟へと移動した。しかし、学生棟はその名の通り、生徒の教室しかなく、教室はどれも同じ造りであったのは知っていたため、あえて学生棟を飛ばして、職員棟を見て回ることにした。

「真琴! 真琴!」

学生棟から職員棟までの渡り廊下で、また聴き馴染んだ若い女性が自分の名前を呼んだ。よく聴くと大人の声ではない。また、子供の声でもない。限りなく大人に近い声だった。何度も聴こえるものだから、私はそろそろこの声が耳障りになってきた。そして、辺りには誰もいないということは承知していたが、「うるさい!」と激しく怒鳴った。校舎中に自分の声がひどく響いた。決して恥ずかしくはなかった。普段叫んだことがなかったから気持ち良かった。ここは何をしても居心地がとても良かったのだ。


 日が沈み、黄昏時を迎える頃に職員棟に着いた。まず向かったのは職員室だった。事務室や校長室など、ほかにも見回ることのできるところはあったが、見たところでたいして面白くないから、私の眼中にはなかった。

 職員室も当然人はいなかった。それを表すように、電気は付いていなかった。私は音を立てて職員室の扉を開け、躊躇することなく立ち入った。そこには様々な書類が机の上に置かれていた。課題のプリントから、しっかりと封のされた封筒まで様々であった。中には生徒一人ひとりのテストの点数や成績もあった。私は適当な椅子に座ってそれを覗いた。いや、見た。私をいじめていた奴らは皆、私よりも成績が下だった。良くもなければ悪くもない成績である私より下だった。失笑した。全クラスに晒してやろうとも思った。ここにいる限り、なんでもやり返すことができたのだ。実に嬉しかった。まさに今生きている、そんな感じだった。

 しかし、ここには誰もいなかった。ここで何をしても、ただの自己満足だった。それを思い出した途端、自分が恥ずかしくなった。そして、私はすぐにその場を去り、明るい廊下の隅へ逃げ込んだ。この方がずっと私に似合っていた。これが本当の私なのだと気づいた。悔しかった。思わず泣き崩れてしまった。泣き声が誰にも聞こえないようにひっそりと泣いた。

 ふと、私は屋上に行ってないことに気がついた。ずっと行ったことのない場所だった。私は学生棟の屋上しか行く方法を知らなかったが、最後にそこに行くことにした。学生棟の屋上は確か、学生棟の廊下の真ん中にある階段をひたすら登れば行けたはずだった。

 私は屋上に向かうために、再び職員棟から学生棟に行くあの渡り廊下を通った。今度は誰も自分の名前を呼んでくれなかった。結局のところ、誰が自分の名前を呼んでいたのかわからなかった。ただ、私がよく知っている人であることは間違いなかった。


 屋上もやはり施錠されていない。窓を開けようとすると、長年開けられていなかったためか、動かすたびにひしひしと音を立ててきしむ。

 すっかり日は沈み、赤みを帯びた空はもうなく、もうじき夜がやってくる。今日は新月なのか、どこを探しても月は見当たらない。

 屋上を見渡すと誰かいる。男子生徒だ。彼は夏の制服を着ている。男子の夏服は白いシャツだから、どんな暗い場所にいようとすぐわかる。私は冬服を着ていた。冬服は黒っぽいから夜になるとどこにいるのかわからなくなる。だから、彼はきっと私に気がつかない。そう思って、私は彼に声をかける。

「あの、何をしているんですか」

彼は私を見てこう言う。

「月を見ている」

おかしな話だ。今日は新月だというのに、月なんて見えるはずがない。でも、私はなぜか腑に落ちるのだ。

「真琴は校内を歩いていたけど、楽しかったかい」

彼はどうやらずっと私を見ていたようだ。

「すごく楽しかった、すごく。一人で好きなことができるってこんなにも楽しいこととは思ってももみなかったです」

彼がすっと私のことを見ていたかもしれないというのに、私は一つも気持ち悪がったり、怖がったりしない。それどころか、見ていて当然だ、と初めて会う彼に妙な親近感さえ感じている。

「そうかい、それが聞けて嬉しいよ。僕はね、真琴が楽しければそれでいいんだよ」

彼は一息ついてさらに言う。

「僕は真琴と同じさ。親がいるわけでも、いじめを受けたわけでもないけど、間違いない。僕も真琴も結局は同じなんだよ」

彼が私を見るときの眼差しは非常に冷たいものである。その眼差しは溶けることのない氷山のような怒りや憎しみがあるのではないだろうか。彼の眼差しが向けられたとき、私はもう二度と彼に会えることはないのだと気づく。それは虫の知らせでも予言でもない。ただそう思えるだけなのだ。


 空はすでに闇夜の中にある。今まで見えなかった月は、今にもちぎれそうな三日月となって、か弱い月光で私を照らしている。しかし、この光では、彼の姿はおぼろげにも見えはしない。

 そんな中、彼は「もうすぐ僕は自殺する」と何度も言う。そのたびに私は「うん」という粗末な言葉ではあるが、一つ一つ丁寧に返した。普通なら、理由を聞いたり、諌めたり、あるいは自殺を止めるよう説得したりするべきである。だが、私はそんなことは決してしない。これは勇気や度胸がないからではない。私が彼をどれほど諌めたとしても、彼が自殺することは知っているし、彼もまた、私が彼を諌めることはないと知っている。きっと私と彼は鏡のような存在なのである。

 彼は十六、七回繰り返し同じ言葉を言うと、屋上の端へ向かう。ついに自殺するのだ。私は彼に連れられるように、かすかに見える彼の姿を追いかける。もう彼の姿は見えないに等しいが、それでも私はついていく。たとえ彼が見えなくなったとしても、彼の場所は分かる気がするからだ。

 端に着くと彼は止まって、私のほうを向く。

「これでお別れだ。真琴に会えて嬉しかった。最後に一つお願いを聞いて欲しい」

私はさっきと同じように「うん」とだけ返す。

「僕が飛び降りたら目を瞑って欲しい」

「わかった。じゃあ、私に一つ聞かせて」

彼は黙ったまま頷く。これはよく見えた。

「死ぬのは怖くないの」

他に聞きたいことはたくさんある。しかし、この言葉を思わず言う。彼をもう少しだけ生かしておきたい、そんなくだらない抵抗をしているのだろうか。私は彼を失うのが怖いのだ。

「答えは真琴と同じさ」

彼がそう答えていると、そこには彼はもういない。一瞬のことだ。あまりに言葉がはっきりと聞こえたから、彼がいつ落ちたのかわからない。下を覗き込んでも、暗くなりすぎて彼は見えない。気を抜けば吸い込まれていきそうな黒である。彼がどこに落ちたかなんて、皆目見当もつかない。

 こうして再び私は一人になる。どこを探しても彼はいない。本当に誰もいない、私一人だけなのだ。私は彼の言った通り、目を閉じる。目を閉じれば何かが変わる、そんな気がして、目を瞑る。


「真琴! 真琴!」

聴き馴染んだ声が、私の名前を呼んでいた。あの時の大人に限りなく近い声ではなかった。あの声と全く違っていて、すぐに母の声だとはっきりわかった。

 目を開くと、まばゆい光が差し込んだ。私は病院の白いベッドで横になっていた。そこには私の両親が私の顔を覗き込んでいるのだった。母は私の名前を何度も呼んで、父は慌てふためいて医者を呼んでいた。

 私の体は、感覚はあるのだが数十トンあるかのようにピクリとも動かなかった。不意に視界に入り込んだ外の景色はやけに美しく感じた。特に白昼の空に浮かぶ月は美しい満月だった。勝手に溢れた温かな涙は、私を生きているのだと強く実感させたのだった。


 あれから何年か経ったが、私が病院にいた理由も、不意に見えた外の景色も私は決して忘れることはなかった。あの時、私は自宅マンションから飛び降りて病院に運ばれた。学校ではいじめられ、家庭内では両親の絶えぬ喧嘩で、すっかり疲弊しきっていた私は自殺を図ったのだ。私が助かったのは奇跡だったと医者から告げられた。私はもう二度とこのような馬鹿な真似はしないだろう。

 私の自殺騒動があってから、私は転校していじめはなくなった。両親も一切喧嘩をしなくなった。目を開いてからは、まるでパラレルワールドに迷い込んだかのように世界が一変したのである。

 そして、彼と出会ったあの学校での出来事も、今でも鮮明に覚えている。とはいえ、あれは夢だったのか夢ではなかったのか、私の名前を呼んでいたのは誰だったのか、未だにわからないままである。

 そういえば、彼の名前を聞き損ねていたが、なぜ私を知っていたのだろうか。彼は一体誰だったのだろうか。私に分かることは、彼はきっと生きている。それだけだった。



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