第8話 予感
近隣の鳴沢村の消防団の案内で、山梨県警の警察官らによって、樹海北西部の大掛かりな捜索が行われていた。
その中に、捜査一課の津田と奈良橋の姿もあった。
「刑事さん、ちょっと」消防団員のひとりが声を上げた、複数の刑事が我先にと、その団員のもとへ駆け寄る。
「これ見てみて貰えますか」
消防団員が軍手を履いた手で、駆けつけた津田に黒い革製の長財布を手渡した。
津田が受け取った財布を開くと、少量の金の他に、数枚のカードが入っていた。
その中に運転免許所もあった。
そこには「 道草 正宗」の名前があった。
写真には、白いワイシャツ着て、寝起きのような顔の道草が写っていた。
県道71号線。
左右が樹海に挟まれた道の路肩にスバルB4が止まっていた。
「はい、了解、どうも……」
そう言って橘は携帯を懐へしまった。
そして、
「財布めっかったって……」と溜息混じりで運転席の瀬田へ告げると、徐に山梨観光推進委員会で配布している冊子を広げた。
「……でも、本当に道草正宗は、こんな樹海の中を歩いて逃げたんですかね、例のゴルフ(車)のシートから、致死量の血痕も出たし、それも2種類、その……屋敷から逃げたって少女と一緒に逃走した…にしても、あんな銃で撃ちまくられて、瀕死の状態で……いくら何でも、もう……まる1日経ってるし、死んでますよ」
車内でハンドルを撫で回しながら瀬田が、早口で言った。
「ああ、そうだな……どっちかの遺体でも出てこないことにはそれも証明できんな……」
と、橘はあまりその話に興味がなさそうに、冊子の地図に目を落としていた。
瀬田は構わず話し続けた。
「例の教団の施設ってここら辺にあったんですよね……そう言えば、高速で発見された犯人の遺体にも、その教団の焼印があったんすよね……」
「……うん」
遅れて橘の返事が聞こえた。
「主任、公安時代に来たことあるんすよね……どんな感じだったんすか?」
と、瀬田は橘を見た。
助手席で橘は、地図を広げたまま目を閉じている。
「マジすか、主任こんな状況で寝てんすか……」
「おまえ、うるせーよ、いま考えてんだよ……確か、そこらへんに脇道あんだろ、ちょっと入れ」
橘は、不機嫌そうに前方を指差した。
「何すか……」
「何でもいいよ早く行けよ」
橘は、リクライニングを起こしてシートベルトを締めた。
瀬田はミッションをDに入れてB4を発車させた。
「そこすか、」
「そう、これ…」
瀬田が橘に言われた脇道を曲がると、一軒の鄙びた小さな民宿が見えた。
敷地の入り口に《民宿よしむら》の文字。
庭に置かれたベンチには上半身裸の初老の男性が、気持ち良さそうに日光浴していた。
「あの人……大丈夫すか」
しかめ顔の瀬田が車を停めるなり、橘は車を降りて、ニコニコ笑いながらその男性近寄っていった。
「お、いた……吉村さん」
吉村は、葉巻をもった手を小高くあげて、爽やかな笑顔で返した。
「あの人が……オーナー」訝しげな面持ちで瀬田も車を降りた。
「何、久しぶりじゃない……また捜査、たまには仕事以外で来なさいよ…」
吉村は背中を書きながらそう言って、葉巻をくわえた。
「へへ、やってました?」
と橘は釣竿を振るジェスチャーをしながら、吉村の隣へ腰掛けた。
瀬田は、一定の距離をとって立ち、吉村の日焼けした背中の虫刺されをじろじろと観察した。よく見ると身体中いたるところが蚊に刺され、今まさに肩に蚊がとまっていた。
「……ああ、今朝も本栖湖でニジマス3匹釣ってやった……こんなやつ」
吉村は火のついた葉巻を振り回しながら、身振り手振りで得意気げに語った。
「やりますね、朝から」
橘も仰け反って大喜びして、タバコに火をつけた。
「……ほんで何、事件かい?」
と吉村が切り返すと、
「うん、まあね」
橘は、少し気まずそうに懐から携帯を取り出し、津田からのメールの添付ファイルを開くと、吉村の顔の前に出した。
「この人、見なかった?……昨日とか、」
携帯の画面には道草の顔。
「いや~、若い人だね……、若い人は見てないな、年寄りなら1人泊まってるけどね」
と吉村が首を傾げると、
「あそ、こんなような人見かけたら教えて、死体でもいいから……」
橘は携帯を懐へしまった。
「ああ、あれか」
吉村が気づいたように大声を出した。
「昨日の朝のだろ?……あの事件すごかったな、うちでも予約キャンセルされたもん……物騒だよな」
「うん、まったく……迷惑な話ですよ」
「……まったくだ」
吉村は何が可笑しいのか、とにかく大声で笑い飛ばした。
「最近、教団施設に出入りなんかないっすよね」
と橘が何気なく尋ねると、
「あ……そう言えば……」
という、吉村の反応は意外なものだった。
「こないだ、釣の帰りに車で通りかかったら、黒い大きな四駆がとまってたな……」
橘は驚いた顔で、瀬田の顔を見た。
「一応……津田さんに……」
と瀬田は、すぐさまスマートフォンを弄りだした。
「吉村さん、それいつ頃っすかね」
と橘が尋ねると、
「2、3日前かな……お客さんいて、急いでたから連絡すんの忘れてた、ごめんね……」
それを聞いた橘は、ベンチからの飛び上がるように立ち上がり、敷地の隅に停めたB4に向かって駆け出した。
「……瀬田、そんなの後だ、ちょっと行ってみんぞ」
橘に怒鳴られた瀬田は、電話しながら橘のあとを追いかけた。
「おまえ、助手席に乗れ、俺運転すっから」
橘がハンドルを握ったB4は、まるで水を得た魚のように忽ち反転して、道路に消えていった。
相変わらずベンチに座ったきりの吉村は、そんなふたりを珍しそうに眺めていた。そして肩の虫刺されを掻きながら、また葉巻を咥えたが、もう火はとっくに消えていた。
つづく