第24話 暗黒姫
その前日、米軍籍の最新鋭計測機器類がまだ旺盛に働いていた頃。
本栖湖上空《太陽》型未確認物体についての分析結果について、有識者によって話し合われる会議が、《本栖湖ドーム》講堂内で執り行われた。
レイライン研究の分野において、世界でちょっとは名前が知られている地質学者で、日本通信科学大学大学院教授の田守喜一郎は、本栖湖上空に発生した《太陽》或いは太陽ほどの放射線量を持つ物体が、人工的に作られたものであると言う仮説に辿りついていた。
その理由としては、その物体が不自然、すなわち自然の法則に反して出現していると言うこと、そして物体が不安定であるにも関わらず崩壊も消滅もせずむしろエネルギーが増幅し続けていると言うこと。
「……これは、人類が未だ開発に至っていない、核融合炉の一種であり、人工物であると考えます」
と言う田守教授の発言に、
軍関係は激しく動揺し、嘲る者までいた。
その見解に賛同したのは意外にも田守教授とは多年に渡りライバル関係にあった理論物理学者の南雲博士であった。
「私もそうとしか考えられない、おそらくだがナノ単位で精巧な核融合炉を形成できる科学力を持った何者かが、大気中のヘリウムや水素を燃料とした永久原子力機関として構築したモノに違いない……一見不安定に見えるもののそれは循環しているにすぎず、そのバランスを支え保全するための言わばフィールドのようなものすら自己再生あるいは増殖可能な有機的物質で出来ていると、私は断言できると思う」
南雲博士の発言に対し、日本政府側の全権として出席した巻島公親は、政府官僚として率直な疑問をぶつけた。
「先日のクリスティーナ・ヘイズ女史の説明によると既に空間の反転が起こりつつあるとのこと、あの《太陽》が膨張を続ければ、周辺の時空の崩壊が急速に進むのでは無いですか?──」
南雲博士は、沈黙してる田守教授の横顔をしばらく見つめてから、巻島の質問に答えた。
「おそらく、あれだけの質量が有れば地球だけでなく……」
「論点は地球だけで充分です──」
巻島は鼻息荒く南雲の言葉を遮った。
「── 我々にとって、あとはどうでもいい、事態は切迫しています、この数日で地球とそれ以外が、あの《太陽》に呑み込まれるか、消滅する…、まあ、どうなるにしても、それを回避する方法が、あるのか、ないのか、それが最も重要ですよ」
巻島の発言ののち、場内はより一層深い沈黙に包まれた。
それはクリスティーナ・ヘイズ女史の不在も相まってのことだったが、誰ひとりその答えを持ち合わせていないようであった。
「可能性の話をすれば、なぜ本栖湖上空なのかと言うことです──」
但し、1人を除いては、
場内の沈黙を打ち破ったのは、田守教授だった。
巻島はあからさまに溜息をついて寄越したが、
田守は臆することなく語り始めた。
「── 本栖湖は貞観の富士山大噴火による溶岩の影響は少なく《セノ海》分断以前から湖底の形をほとんど変えていません、水深も富士五湖中で随一の深度であります、地元では、古来より“境界石”なるものが湖底に沈められていると信じられて来ました。“境界石”とは、つまりは別の次元、時空連続体との境界を塞ぐ、或いは繋ぐ、或いは特異点ではなかったかと考えます、《太陽》発生の原因がその境界石にあるとすれば、あの《太陽》を消滅させる糸口もそこにあるのかもしれない」
「そんな不確定要素に人類の存亡をかけろと?」
巻島は話にならんと鼻で笑ったが、
「可能性が少しでもあるならば、境界石の調査は避けては通れない道です」
と言う南雲博士の言葉に、
巻島の目の色が変わった。
その会議の後、田守教授は、巻島を通じて日本政府に対し調査用小型潜水艇の貸与を打診したが、その矢先、本栖湖周辺で、各機関の調査機器を無力化するほどの強い磁場の変動が起こってしまったのである。
《境界石の調査》は、実現しなかった。
◆
本栖湖畔ホテル敷地内の本栖湖湖畔線(県道709号)寄りのT字路交差点のあたりで、
キヨコとその助手の鶴田繭子は、
仏岩の上に佇む少女を見つめながら、二人して地面へ折り重なるように突っ伏したまま動けなくなっていた。
2人の眼前には、宙に浮く灰色の背広の男。
「キヨコさん、なんなん…なんなんすか、あの人、宙に浮いてますけど…」
鶴田繭子はそう言っているつもりだったが、実際には口を半開きのまま静止させられており、あまり上手くは喋れておらず。
「いうぉわぅやー、わうわうわうわう…」
発音としてはこんな感じだった。
キヨコの面積の広い顔には、繭子の涙と唾液と鼻水が渾然一体となって降り注いでいた。
身体が石のように固まってしまった今の二人には、お互いにお互いをどうする事も出来なかった。
「愚かですな、実につまらんですな、人間諸君──」
男は、突っ伏したままのキヨコと繭子には目もくれず、スルスルっと更に天高く高くに上昇した。
「── 鬱陶しいシラミをシラミ潰しにつぶすは、少々骨が折れるので……」
そう呟くと男は、掌を米軍関係者でごった返す、《本栖湖ドーム》前の駐車場あたりへ翳した。
次の瞬間、駐車場に駐車されていた米軍籍の装甲車ストライカー数台が相次いで地上から舞い上がり、爆発した。
突如として巻き起こった火柱の中で、若い米兵たちはなす術なく一瞬で炎の中に消えた。
山梨県道709号=本栖湖畔線沿い、《本栖湖》と書かれた石碑の前で、ぼーっと空を見上げて立っていた米軍特殊情報士官(NSA)マギー・ウォーターズのすぐ眼前でも、20名ほどの同僚士官が一瞬にして炎の中に姿を消した。
「ぎゃー、ぎゃー」
彼女は途端に発狂して奇声を上げながら《本栖湖ドーム》方面へ物凄い勢いで走り出したが、低い植垣に足を取られ、ちょうどいい高さの樹木の枝に額をゴツンとぶつけて、敢えなく失神してしまった。
そのすぐ近くで、道路を封鎖するように駐車されてあった重高機動戦術トラック《HEMTT》の荷台から、携帯式防空ミサイルシステム《MANPADS》をよいしょこらしょと手渡しで下ろしていた一個小隊が、やっとそれらを各々(おのおの)肩へ担いで、
上空に浮いている男へ照準を合わせた。
「無駄だ、撤退だ、」
とっくに避難を開始していたクリスティーナ・ヘイズは、そこから数キロ離れた《本栖湖ドーム》の階段の影から、メガホンでもって、徐々に戦闘配置につき始めている米軍の兵士たちへ向けて避難するよう呼びかけた。
だが、軍属はクリスティーナの呼びかけにはまったく反応しないどころか、ドームに残留していた者たちまで、前線へ駆け出していった。
「お嬢さん、やってみるまで勝敗は分かりませんよ」
クリスティーナの近くで得意げに双眼鏡を覗くスタイルズ中佐は、不敵な笑みを浮かべた。
その直後、神妙な面持ちで《MANPADS》の発射スウィッチを押した兵士たちの背後で、《HEMTT》が巨大な轟音と共に爆発した。
その爆発の衝撃で吹き飛ばされた兵士たちが何度ボタンを押してもミサイルが発射されることはなかった。
「早く捨てろ」
誰からともなく、そんな声が上がると間もなく、《MANPADS》内で既に装填されているミサイルが熱膨張を始めた。
「逃げろ、逃げろ」
至る所から、そんな悲痛な声が聞こえて来た。
《本栖湖ドーム》の展望スペースに立つクリスティーナ・ヘイズの眼からは、真っ黒で巨大な煙の渦と、その中で新たに巻き起こる爆発によって噴き上がる数々の炎を確認することしか出来なかった。
「みんな、死んでしまう」
美しいブロンドを真っ黒な灰だらけした、
クリスティーナ・ヘイズは両手で顔を覆い、崩れ落ちるように床に膝をついた。
嗚呼、神よ。
誰か……誰でもいい。
どうか、どうか
我らを救いたまえ。
「この世に、神など……もし、おられたならば、このようなことを、お許しになるはずがない」
傍らアイリス・レーゼンビーが声を震わせながらそう呟くと、クリスティーナはアイリスの胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
その横で、頭を抱え鬱ぎ込むスタイルズ中佐。
「主よ我らをお救いください、どうかお救いください……」
なす術なく、巨大な炎に飲み込まれてゆく人々の悲鳴と怒号が、広大な本栖湖の湖面に反響していた。
その多くの、目に見えない魂が、舞い上がる真っ黒な煙と火の粉と共に天高く昇ってゆくようだった。
その時である。
「マーナガルム、おやめなさい……」
本栖湖上空に浮かぶ《太陽》を背にした一人の少女が、灰色の背広を着た男のそばまで飛び来て、精一杯の大声で叫んだ。
「姫様、何故でしょうか──」
少女から《マーナガルム》と称されたその男は、満面の笑みで不愉快そうに言い返した。
「── そもそも、貴方様こそが、千と六百年前、この虫ケラどもを掃討あそばすために、この世界へ送り込まれた《暗黒姫》御君、何故邪魔だてなさるのか、それがしには、とんと合点が行きませぬ」
「下がれ」
「まさか、月帝を謀るおつもりか?」
終始、嘲りの眼差しでささけ笑い、そう語るマーナガルムは、その《暗黒姫》なる少女と本栖湖上空で対峙したまま静止していた。
「カヤ……ちゃん、カヤちゃん、」
一方、地上の湖岸、仏岩付近では、エプロン姿の宇佐木優子が、天上の少女を一心に見つめたまま、ふらふらと無軌道に歩き回っていた。
「優子さん、今はマズい」
その背後から石神が、優子の腕を掴み、なんとかカヤたちから遠ざけようと試みるが、優子はすぐに物凄い力でその手を振り払ってしまった。
「高橋、ぼーっと見てないで手を貸せ」
湖岸の砂浜に尻もちをついた石神は、上空のカヤとマーナガルムのやり取りを眺めたまま怖気づいて固まったままの高橋を怒鳴りつけた。
「は、はい……」
と、返事は返すものの、高橋は一向に動く気配がない。
「やれやれ」
と見かねた橘が、仏岩を登ろうと手をかける優子に背後から近づくと、不意に羽交締めにしたが、すぐに振り解かれてしまった。
「まったく、なんだって、すげーチカラだな」
橘もまた地面に転がった。
「……好きにさせるしかないですよ」
さっきまで、ずいぶん後ろを歩いていたはずの
瀬田が、倒れている橘に歩み寄るとすぐに手を貸して、立ち上がらせた。
「そうなんだろうけど、放っておくわけにもいかんだろう」
そう言うと橘はまた優子の方へ駆け寄って行った。