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第19話 濃霧



エレベーターカゴ内の位置表示機にはB55Fと表示されていた。

その扉が開くと、湿り気を帯びた熱い空気が肌にまとわりついてきた。

眼前には幅2mほどの通路が伸び、深い闇の中へと続いていた。


道草正宗は、猿轡の奥で咳き込んで

何か訴えるような目で、

背後で車椅子のハンドルを握る真西瑛(まにし えい)の顔を見上げた。


「なんか苦しそうです」と瑛は、鞘木を見た。

鞘木は無言で首を横に振って、急ぐよう促しただけだった。


二人の顔には、いつのまにか工事用の防護マスクとゴーグルまで装着されていた。

道草は、それが気に入らない。

「不公平だ、人権侵害だ」と顔を真っ赤にして訴えたが、猿轡(さるぐつわ)のせいで、「フンフンフン……、フフフンフンフン」としか声にならない。


鞘木が先に立ち通路へ足を踏む入れると、場内の照明が点灯し広大な地下空間の全貌が明らかになった。


随分遠くの方で、ヘルメットを被った作業員が数人動き回っているのが見えた。

巨大なコンクリートの構造物をクレーンらしきワイヤーから降ろし、地面へ仮置きしているようだった。


地面には、同じような構造物がいくつも並べられていた。

道草はそれに見覚えがあった。

「セグメントだ」と彼は思った。

トンネル掘削工事の際に、坑道の内壁を固定するための、ブロック状の建材である。


セグメントは通常シールドと呼ばれる巨大なドリルとセットで扱われる。

シールドが地中を掘り進むとほぼ同時にセグメントが内壁に打ち付けられる。


道草は、前職で建設業専門の派遣社員として大手ゼネコンが手掛けた首都高中央環状線のシールド工事に、施工管理という職種で携わったことがあった。

品川区大井の立坑からクレーンで降ろされた2〜3m四方のセグメントが、電気トロッコの貨車に乗せられ坑道先端部のシールドの後部へと運ばれる。

その電気ロコが坑道最深部の軌道階に敷かれたレールの上を何往復もする。

大学を卒業してから5年間毎日地下に潜ってそんな光景を眺めていた。


故に、一目でシールド工事と分かった。

「《ゆうあいの里》の地下でトンネル掘削工事?」

訝しげな道草の頭の中に、簡単な図面が引かれた。

「地下55階として……約165m、この深さを直線で掘り抜くと、本栖湖……本栖湖の水深は……富士五湖の中で一番深い、120m弱として……」

硫黄臭い湯気がそこかしこから吹き出て、数分居れば身体中汗だくになる。

今見えている地下空間は、自然に出来たものに違いなかった。

そこいら中に鍾乳石が垂れ下がっている。

おそらく地下水脈が石灰岩の地層を侵食して出来た鍾乳洞だ。


道草はそう考えながら、ふと足元を見た。

さっきから尻のあたりを生暖かい風に撫でられてなんとも居心地が悪かった。

普通の通路に見えていたそこは、

地下の断崖に架かる吊り橋の上であった。

崖の下は深い闇に包まれ、底の方は全く見えない。

吹き上がる熱気のせいで、吊り橋は微かに揺れていた。

マスクと前髪の間で覗く真西瑛の瞳には不安の色が垣間見えた。


「もっと急げ、真西くん……熱くて死んじまうよ」


先に吊り橋を渡りきったゴリラ顔の鞘木が、安全なところから叫んでいた。


「うっせ……、ゴリラ……、バカ野郎、死ね……バカ野郎」と真西瑛はゴリラに聞こえないぐらい小声で呟きながら、道草の車椅子を汗だくで押していた。


見兼ねた道草が、

「フーフン、フンフン、フン」と言うと、

「ダメです、今拘束を解いたら返って危険です」

と瑛が震える声で言い返した。


「フーン、フンフン、フンフン、フン……」

と道草。

「フーン、フンフンフン」

道草は歩くような、身振り手振りをした。

「ありがとうございます、お気持ちは嬉しいですけど、大丈夫ですから……」

と瑛。


「フンフン、フンフン……」

それでも、道草は食い下がり、立ち上がるジェスチャーをした。


「あの、揺れるんで暴れないでもらえますか……あまり、しつこいと、ここから突き落としますよ」

瑛は、車椅子を軽く傾けた。


「フーン……」道草の甲高い悲鳴が地下空間にこだました。



その頃、地上、青木ヶ原樹海内の本栖風穴管理事務所には、山梨県警の津田警部補の姿があった。

津田は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して橘へしきり電話をかけていた。

しかし、どうも通じない。

事務所内は俄かに騒然としていた。

複数人の林野庁職員の他に、事務所に詰めていた自衛隊員、警察職員が忙しく走り回っていた。

「どうした」

と津田は制服の警察職員の1人を呼び止めた。

「本栖湖周辺の職員との通信が途絶えました」

警察職員は焦った様子でスマートフォンを握りしめた。

パソコン前に詰めていた林野庁職員が手を挙げた。

「霞ヶ関から緊急入電です、だいたい30GHz以上の波長の長い電波が遮断されてますね、電磁バリアーみたいなもの……とのことです」


「じゃあ、スマホは大丈夫ね」

別の職員が叫ぶ。

「マスコミが早々に発表しちゃったんで、回線がパンクしたそうです」


「何やってんの、この非常時に」


職員たちが口々に叫び、所内の誰が何を言っているのか、津田には判然としなかった。



そして本栖湖畔、漁業組合事務所前では、

橘がタバコを蒸しながらカルマンギアへ乗り込もうとした刹那、車内に“少女”の姿がないことに気づき、慌てて周囲を見渡していた。


「まあ、あんなガキどうでもいいんだけどよ……」


と彼は自分に言い聞かせたが、妙な胸騒ぎがそれを許さなかった。


橘は、カルマンギアを離れ、すぐ近くの岸辺まで歩いた。


「あのガキ、本栖湖がどうのって……」


誰かに少女の行方を訪ねようと目撃者を探し湖畔を歩回ってみるが、珍しく人気(ひとけ)がない。

気がつくと本栖湖から青白い霧が立ち登っていた。

霧は見る見るうちに湖畔一帯を包み込み、橘の視界を奪った。

霧曇った空には、目玉焼きのように光る太陽だけが見えていた。


橘は一旦霧の中から離脱しようと太陽を手掛かりに湖から離れたが、頼みの太陽も2つに分かれ後を追ってくる始末。

巨大な怪物が霧の中から自分を見つめているようにも見える。


橘は足を止め、魂を吸われたように、呆然自失で霧に包まれた空を見上げていた。


「橘さん……」

その肩に骨張った手が背後から触れた。


橘がハッとして振り返ると、

本栖湖漁協の組合長が満面の笑みで立っていた。

「びっくりした」

したり組合長は、その手に持っていたハンディーのパーソナル無線を差し出した。

「山梨県警の津田さんから、漁協に連絡があって、橘さんに無線を持してくりょ言うて……」


「はい……」


「携帯が通じんのだと、チャンネルは03にしてグループ設定もしておいたけ、盗み聞き出来んよ」


「はい、わざわざ恩に着ます」


橘は組合長からハンディー無線機を受け取ると、ヘッドセットを耳へはめた。


「はい、橘──」


「──津田です、いま本栖湖に着いたんですが、橘さんどこに居ますか?」


津田の声が遠い。

音割れも酷い。


「いま、漁協組合事務所から、北西に少し行ったところだ──本栖湖畔を歩いている」


と返した橘に、津田は少し声をつまらせた。


「え、自分もおそらく、そこら辺に居ます、急いでGPSで追っかけて来たんですけどね、橘さんの位置が分からないんですよ、間違えないですか──」


「間違えない、霧が酷いから、見つけられんのじゃないか?」

橘は、2つに見える太陽を見つめながら、何か得体の知れない胸騒ぎを感じていた。


「霧ですか?──こちらは霧なんかありませんよ、至って快晴です──、漁協組合事務所にも誰も居なくて、いま、漁協の無線を借りて喋ってるんですよ──」


津田は、何か思い立ったように続けた。


「──組合事務所で落ち合いましょう」


「そうだな、俺も一旦、組合事務所に戻るよ」

橘はそう言うと、組合長を伴い、事務所へと戻った。


しかし、事務所内で待っているはずの津田の姿は無かった。


「──いま、組合事務所内に居ます」

と言う津田。


「俺もだよ──」と橘。


「橘さん、こりゃ、どうなってるんだ──」


異常な事態に気づいた組合長と橘は、お互いに顔を見合わせ、

只々深い霧に覆われてゆく本栖湖へと目をやった。


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