第18話 かや逃亡
磨かれた鏡ような本栖湖の湖面の中には、頭からすっぽり笠雲を被った富士が映っていた。
少々小高い丘の上に建つ《飴屋金五郎商店》前では、体格の良い男が自動販売機で缶コーヒーを買っていた。
男は本物の富士を眺めながら缶のプルタブに一旦指を掛けたが、すぐに開けるのをやめた。
湖面に映り込んだ富士の山頂の雲が、水に流されるように見る見るうちに消えてゆくのに対し、本物の富士は依然として雲に覆われたままだった。
男は首を傾げた。
背中に《ゆうあいの里》と白抜きのロゴがある青いジャンパーを羽織ったその男は、頻りに缶コーヒーを振りながら、目の前の窓から店内を覗き込んだ。
「優子さん……もう行かないと……」
店内では石神が苛立った様子で、エプロン姿の優子の後ろを追いかけ回していた。
「何処へ……」
と優子は、石神を見もせず、品出しに余念がない。
「何度もご説明しましたよね、徳治郎さんのところです……」
と石神。
「何で、店を閉めなきゃないほど重要なことなの……」
と優子は通路に立ちはだかる石神の体をかわしながら、店と住居の間にあるバックヤードへと入って行った。
「重要です、ここじゃ詳しく話せないので、車の中でお話しますから、……優子さん、一緒に来て下さい……」
石神の声が狭いバックヤードに響いたが、空の段ボールをばしばし畳む優子はすでに返事すらしなくなっていた。
“チロリロリン……”と店内でチャイムが鳴り「どうも」と客が入って来た。
優子は、バックヤードの出入口に立つ石神を押しのけレジへ立った。
「いらっしゃいませ……」
と優子が声をかけると、
男性客は鋭い視線を優子や石神へ向けた。
彼はカーキ色のダボダボのトレンチコートを身にまとい、泥だらけの革靴を履いていた。
ボサボサの髪を搔き上げたり、
白髪混じりの無精髭を撫で回したりしながら、店内をウロウロと物色して回っていたが、やがて、粒あんとこしあんのあんぱんを其々一個ずつと250ml入りの紙パック牛乳を2つ持ってレジへとやって来た。
「あと、ハイライトをひとつ」
男性客は小声でボソボソと呟いたが、
優子は老人の介護で慣れているせいか一切聞き漏らさず、テキパキと背後の棚からハイライトを取ってよこした。
「あとさ……」と客は、財布とは別に、
懐ろから名刺を出して、レジカウンターの上へと置いた。
名刺には“桜の大紋”が印刷されてあった。
「警視庁、捜査一課のタチバナさん」
優子はそれを手に取って音読した。
「ここらへんで、怪しげな輩を見ませんでしたか……俺以外で……」
橘はニコリと、タバコで黄ばんだ歯を覗かせた。
「怪しげな輩……」
と優子はひと笑いして首を傾げた。
「昔、ここいらによく出没してた、教団の連中……と言ってわかりますかね、そんなような感じの輩とか……」
と橘が、落ち着いた口調で言うと、
傍らに佇んでいた石神が急に顔を強張らせた。
橘はそれを見逃さなかったが、とくに何を言うでもなく、また優子を見た。
優子は首を傾げるばかりで、
「教団、へーそんな人たちがいたんですか……」と、本当に教団の存在自体を知らないと言う風だったので、橘は、
「お嬢さん地元の人じゃないとか、アルバイトですか…」と尋ねた。
「いいえ、ずっとここの店主ですけど」と多少ムキになって答える優子。
この鄙びた店の主人が、あの教団ことを知らない。
全国区にもなった事件だ。
当時まだ物心ついてないにしても、誰か家族から聞かされるだろうに……。
橘は妙な違和感を覚えた。
それから、
「道草正宗って……、」
と続けて呟くと、
優子の顔色が明るくなった。
石神が、すかさず咳払いをした。
優子は明らかに何か言おうとして言葉を飲み込んだ。
橘の標的は優子から石神へと移った。
「お兄さんは、介護士さんなんだ……」
石神は、「はい」と頷いた。
「まあ、介護施設の母体が妙な新興宗教なんてこともあるからさ……、お兄さんとこは大丈夫……?」
と橘は鋭い眼光を石神へ向けた。
「はい……多分……」と石神は苦笑いしながら答えた。
橘は、買った品物を優子から受け取ると、ゆっくりと店を出た。
そして帰りしな、
店の外で缶コーヒーを啜っている、あまりにも体格の良い《ゆうあいの里》男性職員の面構えをチラっと確認するように一目した。
「《ゆうあいの里》ねぇ……」
と呟き、橘は店の脇へ駐車してあったカルマンギアへと乗り込んだ。
セルを回して、2、3回アクセルを踏むとエンジン音が安定した。車内にはボクサーエンジン独特のボコボコとした武骨な音が響き渡った。
橘は、直ぐには走り出さず、あんぱんをひとかじりして、ボクサーエンジンの音を聴きながら精神統一をしているようであった。
それから「よし……」と呟き、ハンドルに手をかけると、ギアをバックに入れ店の敷地を出て行った。
橘が去った《飴屋金五郎商店》ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
「カヤちゃんが居ない……」
と、優子。
「かやちゃんて、一緒に朝ご飯食べてた女の子ですか……」
石神の問いに、優子は黙って頷いた。
「高橋さん、女の子見なかった」
石神が、外に立っていた体格の良い同僚にも尋ねてみると、
「女の子ですか……、あの裏口から出て来た子かな……その子だったらさっきのヘンテコな旧車に乗って──」
と、高橋はあっさり答えた。
「“出て来た子かな”じゃなくてさ……、2人を連れて行くように“室長”にも言われてんだからさ、高橋さん、引き止めてよ」
と石神は高橋を怒鳴りつけた。
「あ、すみません」
高橋は少々納得いかない様子で頭を下げた。
優子はさっさと、店を閉めて
店の裏口付近の車庫へと向かった。
シャッターを開けると、
庫内からはビカビカのハマーH2が、顔を出した。
「なんで……、ハマー」
駆けつけた石神が思わず呟いた。
カルマンギアを軽快に運転する橘は、本栖湖畔を目指し走行していた。
カーラジオからはアイズレー・ブラザーズの「Harvest For The World」が流れ始め、橘は実に上機嫌に、鼻歌混じりでシフトをハイトップに入れ、アクセルを踏み込んだ。
「アイズレー……最高じゃん」
そんなギンギンな感じになったカルマンギアの後部座席から、ゴソゴソと何やら蠢く気配がした。
橘はルームミラー越しに、後部座席を見た。
後部座席では、5〜6歳の女の子が袋入のポップコーンを食べながら座っていた。
「おい、ガキどっから来た……」
橘は焦って声を荒げた。
「どっから来たかはさして重要じゃない、どこへ行くかが問題……」
少女はモゴモゴと喋りながら、口から粉状のポップコーンくずを飛ばした。
「……、えっ、なに、お前シートを汚すなよ、特注なんだぞ」
ボクサーエンジンの音で少女の声が掻き消されて、橘にはよく聞こえない。
当然、少女にも橘の声は聞こえなかった。
「おじさんは、何処行くの?」
と少女は物珍しそうに油のついた手で、
ペタペタそこいら中を触りながら言った。
「何処へ行くって、お前に関係ねぇだろ……だからベタベタした手で触るなっての!」
と橘。
「本栖湖に行くんでしょ……」
「だったら何だ!」
「私も連れてって」
少女の鋭い眼差しは、ミラー越しに橘の目をとらえていた。
その頃《飴屋金五郎商店》裏庭の車庫では、石神がハマーH2のハンドルを握っていた。
優子が車庫のシャッターを閉めて戻って来た。
車内ではMCハマーの「U can't touch this 」が流れていた。
「なんで、MCハマーなんすか?」
と石神は、助手席でシートベルトを締める優子へ尋ねた。
「……知らない、MCハマーって何?」と優子。
石神が口籠ると、
「そりゃ、ハマーだからじゃないすか……」
後部座席から、高橋が、どこか嬉しそうに口を挟んだ。
車内にはMCハマーの軽快なラップだけが鳴り響いた。
「それよりどうして、カヤちゃんは、あの刑事の車に乗り込んだんすかね」
と石神はハマーを発車させながら言った。
「……さぁ、昔から好奇心旺盛な方ですから……」と優子は、そうポツリとこぼした。
「昔からって、自分はあの子を初めて見ましたけど、優子さん、長いこと一緒にお住まいだったんですか……、」
と石神。
すると突然、真顔の優子がその腕を掴んだ。
「私いま、何か言った……なんて言った?」
「危ない、危ない」
石神は焦りながらも、
自分を見つめる優子の美しい瞳に息を飲んだ。
一方、橘は、
本栖湖畔の漁業組合事務所前で車を停めた。
「すぐ戻って来るから車の中で待ってろよ」
「はい」カヤはコックリ頷いた。
「分かったな、絶対に車から出るなよ」
「はい」
「……わかったな」
と橘は念でも送るように、カヤの視界の中心に人差し指を突き立てた。
彼はドアを閉めてからも、あどけないカヤの横顔へ刺すような視線を送り続けたが、
やがてくるりと踵を返して組合事務所の中へと入って行った。
橘の姿が見えなくなると、
カヤは助手席の脇へ小さな手を突っ込んで、シートの背もたれを倒して、難なくドアを開けた。そして、そもままスルスルっと車の外へと出て行ってしまった。
「あ、橘さん……」
橘が組合事務所のドアをくぐるなり、
受付の女性の声が飛んできた。
「組合長いる?」
と橘が言うと、
「組合長、お客さーん」
女性は背後のパーテーションがぐらつくぐらいの大声で叫んだ。
「そんな、大きい声出さんでも聞こえるわーい」と組合長も負けずに怒鳴りながら、パーテーションのすぐ陰から顔を出した。
「橘さん、意外とすぐ近くにおったからビックリしたが、まさか衝立を一枚隔ててるだけとは……思わんかった……、ビックリした?」
組合長は顔をくしゃくしゃに笑いながら、カウンター越しに橘へ顔を近づけた。
「うん、ビックリした」
橘は一応笑ったが、正直どうしていいかわからなかった。
「……出航記録」
組合長は顔を顰めた。
「サルベージ船とか、例えば政府の要請とかで、湖内にそんな船を出したことないか……」
受付の女性が、カウンターの上へここ数年の記録簿をドンと乗せたが、組合長はそれを開くまでもなく、
「ない」と答えた。
「クレーン船は湖内を航行できないのよ、水質保護のために漁船も全部、手漕ぎか、汽船て決まってんだ、国の要請と言えども滅多なことでは許可はおりないよ、ディーゼル船は湖内には来ないの──湖内には来ないのよ」
そう言って、組合長はニヤニヤしながら、橘の顔色を伺った。
「そうすか……」
橘は、顔色ひとつ変えず壁に張られたポスターへ目をやった。
組合長は、受付の女性の顔を覗き混んで、
「……だよなクレーンは、湖内には来ないよな」
と念を押した。
受付の女性も顔色ひとつ変えず、無言でコックリと頷いた。
組合長は物欲しそうな顔をしていたが、
橘は、
「じゃ、どうも……」と頭を下げて、一旦建物を出たが、すぐにまた戻った。
「湖の辺りで、祭壇なんか組んで、神主さんとかが祈祷したりは……」
と言う橘の質問に、組合長は最初ポカンとしていたが、
「地鎮祭みたいな感じか、じゃあ神湖祭の前かいな、ほうじゃ、昔は鎮湖祭言うて、祭壇組んでやっとった言う話を聞いたことあったかも知れん、みんな裸んなって、チ○コ出して湖に浸かるんじゃ……」
とニヤニヤしながらさらりと言ってのけた。
「……んな訳ないじゃないですか」
隣で受付の女性がさすがに顔を赤らめた。
「いやいや、鎮湖祭じゃ、一糸まとわんでぇ、チ○コぐらい出すやろ普通、出さんかいね、出すやろ普通──」
身内から反応があったことに機嫌を良くして組合長はノリノリで声を張りあげた。
「湖の何を鎮めるんですか……、湖底に眠る御神体とか……」
橘は至って冷静にチ○コの話に食いついた。
「ああ、そら伝説やけどな、2千年前、貞観の大噴火で“せの海”が潰れて樹海になったのは橘さんも知っとるやろう、だが本栖湖は昔から“本栖海”て言うてな、“せの海”には属しとらんかった、この本栖湖の湖底には古代からのものが埋まってるとか、いないとか……運がいいとか、悪いとか……」
組合長は続けて、今年の神湖祭の詳しい日程など話始めた。
10分後、
「……で、それがどうした」
と組合長が聞き返した頃には、事務所に橘の姿はもうなかった。