第17話 ゆうあいの里
新たな登場人物
真西瑛…「ゆうあいの里」女性職員。
鞘木……「ゆうあいの里」医療主任。
みすゞさん……「ゆうあいの里」利用者
十日目の月がその黄金の輝きを失いかけていた頃。
夜明け間近の薄明るい空の下、
黒いフォルクスワーゲンゴルフは、
中央自動車道を西へとひた走っていた。
運転席の道草正宗は、直線へ入るたび何度かハンドルから片手を離し、親指を唇へ押し当てた。
強くハンドルを握りしめているせいで、指の筋肉が強張って痛みを感じていたのだ。
ハンドルにしがみついていなければ、身体がどこかへ飛ばされてしまいそうだ。
室内バックミラーの中に、あの銃を持った男たちが乗る黒いSUVが映る。
その度に身体中の震えが増すようだった。
恐怖で筋肉がバラバラに千切れてしまいそうだ。
そんな彼の肩に、そっと触れるものがあった。
隣りの席に座る少女の手だ。
「やっぱり、あなたは来てくれた」
と口走った少女の瞳は、道草の横顔を見つめているようでいて、もっと違う何かを見つめているようだった。
「悪いけど、今君の話に付き合ってる余裕はないんだよな」
身体へのしかかるの荷重と胸の高鳴りのせいで、道草の呼吸は荒くなった。
「あなたは、いま記憶の中……記憶を辿って、私を探しに来たの……」
「何を言ってんだ、追われてんだぜ俺たち、銃を持った奴らに……不思議ちゃんも大概にしろよ……」
少女は、荒ぶる道草の頬に手を添えて、その額に唇を寄せた。
「もう大丈夫、目を開けてみて」
その瞬間、
雨音にも似た機銃掃射の轟音が、彼女の声を掻き消した。
シートの裂け目から、無数の綿クズがまるで吹雪のように噴き出し、破裂したガラスの破片が光を帯びてキラキラと輝いて空中を舞った。
視界に入る何もかもが木っ端微塵に破壊されゆく混沌の刹那、
彼女の見開いた琥珀色の円な瞳だけは、彼の蒼白の相を映し続けていた。
「君はそうやって、俺を見つめてくれていたのか、ずっと……そうやって……」
視界が赤く染まってゆく、
そして、世界は暗転した。
山梨県某所、医療福祉法人「ゆうあいの里」女性職員 真西瑛は、
寝台に横たわり眠る道草正宗の瞼を、細い指先で押し上げた。
そして、瞳孔の開ききった彼の瞳を、ペンライトの光で照らした。
「ハッ……」っと道草は瞬時に目を覚ました。
真西瑛の制止を振り払って、彼は力任せに上半身を振り起こしたが、急に吐き気がして、呼吸がうまくいかず、やたら咳き込んだ。
「まだ、少し麻酔が効いてますから……」
瑛は優しくたしなめた。
「俺に何をした」
視界がぼやけている事に、ひどく狼狽する道草に瑛は冷静に話続けた。
「あなたを此方へお連れするのに、落ち着いて頂く必要があったものですから……麻酔を使っただけです」
「クロロホルムを嗅がせてか……」
道草が知った被りで怒鳴ると、
「そんな、理不尽なことはしません、ファンタニルです」
瑛は少し声を荒げた。
「ファンタ?」
道草の脳裏には不意にファンタの何かの缶のラベルが浮かんだ。
「クロロホルムは危険性が高いので使用してません、ファンタニルはオピオイドの化合物です」
「オピ…オピ…」
道草の脳は旨い具合にフリーズした。
麻酔は徐々に抜けてゆき、
ぼやけていた道草の視界も次第に焦点が定まって来た。
「これ、何本に見えますか」
真西瑛がそう尋ねながら、道草の目の前にVサインを出した。
「サイモン・ル・ボン」
道草が無表情で答えると。
瑛の右眉がピクリと動いた。
「すみません、その方は存じ上げません」
瑛は優しく受け流したつもりだったが、
「デュランデュランのヴォーカルです、あなたは、少しヤスミン・ル・ボンに似てる」
道草は、更にまだ続けた。
「デュランデュランも、その方も存じ上げません……」
「元ファッションモデルで、サイモン・ル・ボンの奥さんです」
「元ファッションモデルさんに似てるなんて、お誉め頂きありがとうございます」
瑛は道草を笑顔で見つめたが、その話にまったく興味がないという感は隠し切れなかった。
「俺があなたを誉めたかどうか、本人の写真も見ずによく判断できますね」
道草は不思議と、心に思った事を抑制できず言葉にしてしまった。
瑛は笑顔のまま表情筋を多少強張らせながら、無言でスマートフォンをいじり始めた。
「どうですか」
「美しい方です、イラン人とイギリス人のハーフなんですね……誉められたと思いますよ」
「そうですか、80年代、イギリスでとても人気があったモデルにしては、中途半端だと思いませんでしたか」
「思いました」
「……それより、同じロックシンガーと結婚したモデルなら、エヴァ・ハーツィコヴァや、ポリーナ・ポリスコワの方が全然可愛くね……とか思いませんでしたか」
瑛は、またスマートフォンへ目を落とした。
「知らないんですね」
と道草。
「知りません」
と瑛。
「まさか、ナジャ・アウルマンやアンバー・バレッタも知らないんですか」
瑛は押し黙ってしまった。
道草はその後も、聞かれもしないのに、
ファッションモデルの名前を洪水のように列挙した。
「リンダ・エヴァンジェリスタ、モニカ・ベルッチはあまりに有名ですが……ケイト・モス……でも、僕はチャンドラ・ノースが好きでした……」
別室で様子をモニターしていた
医療主任の鞘木が、道草たちのいる処置室へ駆け込んで来た。
「苦痛だ、真西くん……真西くん……聞いてて、苦痛だ」
そして、スマートフォンの画面に見入る真西瑛を、背後から呼びつけた。
「は、はい……」
瑛は、ビクッと肩を窄めて振り返った。
「あのね……このくだり長過ぎ、そんで真西くん、君、彼のペースに飲まれ過ぎ、アトロピン投与した時点で、こうゆう流れ予測できたでしょう、できなかった?」
鞘木の問いかけに、瑛はまた肩を窄めて、可愛く笑って首を横に振った。
「予測できなかったんだ、そんな、自信持って首振らないで……じゃあ、じゃあ言うね、
出来るだけ必要な尋問だけで、潜在意識を誘導しなきゃ……必要な情報引き出せないでしょ」
「はぁ、すみません」
「すみませんじゃなくて、考えたらわかるよね……この状況で、ファッションモデルの情報いる?」
「いりません」
「ファッションモデル名鑑でも作るの?」
「作り……ません」
「ちょっと悩んだ、そんな情報引き出してもさ我々になんの利もないんだ……わかるよね」
「はい、すみません、多少興味があったものですから……」
「正直で良いけど、ここは、君の知識欲を満たす場じゃ無いんだよ……だいたいね……」
早口で巻くしたてる鞘木を前に、著しく萎縮し小さくなってゆく真西瑛。
アトロピン投与により判断力の鈍った道草は、「レティシャ・キャスタ…」と呂律が怪しい舌でやっと言い終えて、
「おまえこそ、説教が長ぇよゴリラ…いや、オランウータン……いや、チンパンジー……だと、ちょっと可愛くなっちゃう………それと、ナオミ・キャンベル……」ブツブツと言葉の洪水が止まらない。
「鞘木だ、医療主任の鞘木……いまの君に、言うなと言うのも酷だが、他人の容姿をアレコレ言うと、身の安全は保障出来んぞ」
「恐喝かハゲ」と道草。
「ハゲてねーし、髪あんだろ目見えね〜のか」と興奮する鞘木に、
「まだ、あまり、見えてないと思われます」
と瑛が口を挟んだ。
数分後、
道草はまるで捕縛されたハニバル・レクターのように、猿轡と拘束衣で拘束され車イスへ乗せられた。
「……ふん、ふん、ふーん、ふふ、ふ」
廊下を移動中も、道草はモールス信号のように唸り続けた。
「まだ喋ってるよ、効き過ぎじゃないか、アトロピンが自白剤としてここまで有用性があるなんて、聞いたことが無いぜ」と鞘木がぼやくと、
「だいたい、ここへ連れて来て薬を投与したのは、アンタたちだろう……」
車椅子を押している真西瑛が強い口調で言った。
「何だと貴様」
鞘木が瑛へ向かって凄んだ。
「いえ、私じゃなく道草さんがそう仰ってます」
と、瑛は近過ぎる鞘木の顔をかわしながら言った。
「え、」鞘木が道草に目をやると、
「ふん、ふん」と彼は頷いた。
その廊下からは、各部屋が見渡せるようになっていた。
廊下を進む毎に、
「ゆうあいの里」で現在実施されている数々のサービスが、まるで絵巻物のように、次々と道草の視界へ流れて来た。
「ここは、統廃合で廃校になった小学校の校舎を増改築した建物です、大正末期に尋常小学校として建てられた校舎は、
当時の木造建築の集大成として憧れの的だったそうです」
と、瑛は道草へ語りかけた。
食堂で、カレーを食べながらビンゴに興じるご高齢者たち。
演舞室と銘打たれた室内で日舞に勤しむご高齢者たち。
太極拳に打ち込むご高齢者たち。
道場では空手や剣術の稽古で、無邪気に跳ね回るご高齢者たちまで見えた。
どのご高齢者の表情も生き生きとして光り輝いていた。
「ふん、ふんふん、ふふふん……」
と道草が言うと、
「まさにその通りです」
と瑛は、満面の笑みで共感した。
「え、何が」
そばで聞いていた鞘木が、反応した。
「ご高齢者の方々は、愛する学舎にまた通うことが出来て、学生時代へ戻れたような気分になっておられるのではないかと……道草さん素晴らしい洞察力です」
と瑛が快活に道草の言葉を通訳すると、
鞘木は驚愕した。
もう半ば薄気味悪いのと、
何やら後輩への敗北感とで、
苛立ちが口を突いて出た。
「へー……ふふんだけで、そこまで分かる君の洞察力も常軌を逸してるね、そんな能力があるのに職場の同僚の心を読み解けないのが僕は不思議で堪らないな、だってもっと仕事を覚えても良いはずなに……へー凄いよな…」
瑛は寂しそうに俯いた。
すると道草は、
「ふーん、ふふふんふん」と興奮気味に言った。
「何て?」
鞘木が訊ねると、瑛は、
「言いたくありません」
と俯いた。
すると、更に道草が
「ふーん、ふーん、ふふふん」
と続けた。
「……て、言うかコイツ絶対、俺に言ってるよね」
と鞘木は取り乱した。
「ふん、ふん……」
と言う道草に、
瑛は、俯いたまま「ぶっ」と吹き出した。
「いまの笑ったよね」
と鞘木、
「笑ってません」
と瑛。
「笑っ……」
「笑ってません、……笑ってません」
瑛は鞘木を強く見つめ返した。
「わかった、コイツ何つったんだよ」
鞘木は気が収まらない。
「いや、何も言ってないと思います」
と瑛。
「いや今、言ってたろーよ」
と道草を指差す鞘木。
「今?」
瑛は首を傾げた。
「怒らないから言ってみろよ」
と鞘木が大声を出していると、彼の背後から、
「うっせー、この類人猿、オメーはまだ脳が進化してねぇから、わかんねぇんだ……」
と女性の嗄れた声が聞こえた。
鞘木が目を血走らせて振り返ると、
そこには着物を着た背の小さな白髪のお婆さんが佇んでいた。
「みすゞさん……何言うんすか……」
怒りに震える鞘木を、
みすゞさんは鼻で笑って、
「そこの車椅子のお兄さんが、言ったんだよ、……でも、情けないねサヤちゃん、それしきのことで大の男がピーチクパーチク……」
みすゞさんは、それだけ言うとさっさと生け花の教室へ入って行ってしまった。
しかし、その白衣を纏った類人猿の、広い背中の両翼に、溶岩の如く隆起しせしめし肩肉は、
項垂れるどころか益々雄々しく怒り上がるのだった。
瑛は、白衣から浮き出た彼の僧帽筋だけ持って帰りたいと思った。
しかし、そんな瑛の心を知らず、
その僧帽筋の主は、
「道草さん、後で浣腸な……」
と、溜息交じりで言ってのけるのだった。
つづく
毎度「月世界の暗黒姫」ご精読いただき有難う御座います。
言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、決してネタ切れしているわけではないのです。
作者は、ついつい寄り道をしてしまう性格なのです。
構成が未熟なばかりか、
拙い文章でイライラされている読者の方々もおいでかも知れませんが、
何より作者が1番楽しめる小説を目指しております。
小松政夫さんのお言葉お借りいたしますと、
どうかひとつ、
長ぁ〜い目で見てください。