第12話 ウサギ家の人々
道草正宗は孤児院で育った。
7歳の頃、実母が交通事故で亡くなり、疎遠だった親類が引き取りを拒否したためだった。
父親のことは何も知らない。
12歳の頃、里親である道草夫婦へ引き取られてからは、大学にまで通わせてもらい、何不自由なく暮らす事が出来た。
本当の母親の記憶は極めて少ない。
色白で美しい女性だった。
よく2人で公園へ行った。
よく近所の商店街でコロッケを買ってもらって2人で食べた。
何かと言えば、
よく笑っていた。
そんな母親が一度だけ恐い顔をした事がある。
ある日の夕方、彼が1人で公園で遊んでいると、公園の入り口に黒い高級車が止まったのが見えた。
車の後部席のドアが開いて、中から白いワンピースを着た若い女性が降りて来た。
顔はよく覚えていないが、とても美しい女性だった。
「元気だった……?」
と言って、その女性は彼の頭を撫でた。
彼は直感的に「この人は前から僕のことを知っているのだ……」と確信した。
「それじゃ、行こうか……」と、
彼女は彼の手を握って車の方へと誘った。
彼は何の躊躇もなく、彼女の言いなりに
手を引かれて歩き出した。
「ダメ、連れて行っちゃダメ……」
と、その時だ。
遠くから母の声がした。
パート帰りの母が自転車で通りかかったのだ。
母は、公園の中まで自転車で突っ込んで来て、自転車を乗り捨てるなり、白いワンピースの女性へ駆け寄った。
「あなた……なに考えてるの、ノコノコ出て来て……」
母は今まで見せた事のない、とても恐ろしい形相で女性へ詰め寄り、繋いだ手を必死で引き離した。
女性は悲しげな顔をして、独り車の方へ歩いて行ってしまった。
母は、だいぶ興奮して取り乱していた。
荒い呼吸が、振り乱し口もとにまでかかった長い髪の毛を揺らしていた。
母の白く細い手が空を切ったかと思うと、彼の小さな頬を打った。
「知らない人へついて行っちゃダメだって、いつも言ってるでしょう……」
小さな彼には、何が何やらサッパリ解らず、ただ泣き噦るしかできなかった。
帰り道、母はまったく口を聞かなかった。
だが、いつものようにコロッケを買ってくれた。
それと、いつもは強請っても買ってくれないオマケ付きのお菓子も買ってくれた。
母はその日だけは違う人に見えた。
夜になると、
いつも母は寝る前に絵本を読んでくれたが、その日ばかりは無理だったらしく、
ずっと彼の小さな身体を抱きしめたまま、泣きながら震えていた。
「あれは何だったのだろう、」
時々ふと思い出しては考える。
ぼやけた、幼い日々の母との思い出。
その中で、あの日の思い出だけは割と鮮明にあった。
あの優しかった母が、
必死で拒絶した白いワンピースの若い女性は、何者だったのか……。
考えても埒のあかない事だ。
「正宗、朝よ起きなさい」
母の声がした。
いや、そんな気がしただけなのかもしれない。
道草正宗は、暖かい布団の中で目覚めた。
「あら、起きたわね……」
エプロン姿の女性が、彼の布団の周りを忙しく歩き廻っていた。
「お母さん……」
道草は、久しぶりに夢の中に現れた母の面影をその女性へ重ねた。
「あら……あなたぐらいの息子の母親としては……私は少し若すぎるわね……」
女性が気分を害すどころか、機嫌よくそう言うと、道草はやっと夢から覚めた気がした。
自分が今いる場所を見回すと、何処となく懐かしい気はするものの、明らかに、目黒のアパートの自室ではない。
「……あの、すみません、俺は……というか、道草正宗と言います、なぜ………あなたは……?」
道草は、改めて困惑した。
エプロン姿の女性は、起き上がった道草に目線を合わせて、にっこり微笑むと、
「私は宇佐木優子です、あなたは道草正宗さんね、はじめまして……」
「はじめまして、……それで、なぜ俺は……ここにいるのでしょう」
道草がそう言うと、優子は彼の目を見つめたまま、ただ首を傾げた。
「……それより、朝ご飯食べませんか?」
道草は優子からそう言われて、初めて
自分が空腹である事に気がついた。
「頂きます」
「それと、道草さんが着てたTシャツ、汚れてて、穴が開いてボロボロだったので、処分させてもらいますけど良いですよね?」
優子は、親指と人差し指で摘んだ黒い布切れを、道草へ見せた。
「ああ、捨てて頂けるならお願いします」
「それじゃ、朝食は下の階に用意してあります、階段降りて廊下を左へ曲がったとこが居間ね」
そう言い残して、優子はボロキレと店の在庫を持ってさっさと階段を下りて行ってしまった。
道草は自分の着ているTシャツを見た。
一瞬見て「アディダスか……」と思った。さして興味がなかったので、それっきり見ることはなかった。
部屋の押入れの扉が開け放たれて、棚板の上に同じ柄のTシャツがビニールでパッケージされたまま何枚も平積みされてあった。
畳の床の上に置かれた開封済みの段ボールの中にも、真っさらな新品の状態で同じTシャツが何枚も入っている。
どうやら道草が寝ていたこの部屋は在庫置き場になっているらしかった。
道草が一階の居間へ出向くと、宇佐木徳治が、高めの座椅子へ腰掛けて、2〜3歳の女の子と一緒に、既に朝食とっていた。
座敷テーブルの上には地元で採れた物なのか、山菜の煮もの、焼き魚、ベーコンエッグが並んでいた。
独り暮らしの長い道草にとっては久しく見ていなかった朝食の風景だった。
彼が部屋の戸口で、その光景に見惚れていると、徳治がギロっと彼を睨んでよこした。
「何を突っ立っておる、目障りだから座るぐらいしろ……」
徳治が不機嫌そうに言い放つと、道草はちょこんとお辞儀をして、スゴスゴと座った。
「どうも、泊めて頂いてありがとうございま……」
道草が礼を言おうとすると、徳治は面倒くさそうにその言葉を遮った。
「泊めるも何も、君が勝手に目を覚まさないだけだろう……まる1日は寝とったぞ……」
「それは、とんだ……ご迷惑を……」
「お魚しゃん、お魚しゃん」
と、今度は徳治の隣に陣取った女の子が彼らの会話へ割って入った。
「魚?」
女の子は、頻りに道草の胸元を指差す。
「お魚しゃん」
道草は自分の胸元へ目をやった。
彼がアディダス・オリジナルのマークだと思っていたTシャツの柄は、魚が3尾扇状に並んだマークであった。
ロゴもローマ字で“adidas”ではなく“sabadas”と書かれてある。
「……サバ」
道草がまじまじとサバを見つめていると、台所から優子が現れ
「あ、サバダスTシャツね、在庫だいぶ余ってたから……嫌だった?」
と尋ねた。
「……サバ、で、いいです」
道草は首を横に振った。
「サバで、いいダスね……」
優子が機嫌よく笑うと、
徳治は、不服そうに道草の顔を見た。
「……こんな奴に、サバなんぞ着せることぁないんだよ、どうせ……警察か極道に追われて来たんじゃろい……こ奴は人殺しの目をしておる、わしゃな国の秘密諜報機関におったから、一瞬で人の人となりを見抜くぞぃ……逃がさんぞ、覚悟しておけ……」
徳治の鋭い眼光に、道草は著しく萎縮した。
「コラ!やめなさい、おじいちゃん何言うの、お客さんに向かって……」
と優子が徳治を一喝した。
「お客さんびっくりしてるじゃない、おじいちゃんは生まれてこの方ずっとこの店やってるでしょう、忘れたの?」
しかし、今日の徳治は優子に幾ら叱られても、少しもひるまなかった。
なぜなら、隣に座っていた幼い女の子が、自分の味方に思えたからだ。
女の子は、まるで林家パー子のように、徳治が何を言っても“キャッキャキャッキャ”と嬉しそうに歓声を上げた。
徳治はそれだけで何やら根拠のない自信が湧くのだった。
「お客だと?……客っちゅーのは、うちの店で金出して商品を買ってくれる人のことを言うんじゃ、うちの商品をタダで着て、タダで飯を喰らおうとする奴を、わしは客とは認めん……」
道草は優子から受け取ったご飯茶碗を、
そぉーっとテーブルの上へ置いた。
「うちでは、うちの敷居を一歩でも跨いだ人を、誰であろうとお客さんとして持て成すの!」
と優子。
「だいたい失礼じゃない、どんな事情があろうと、困ってる人を助けるのは当たり前でしょ……」
「けっ、詭弁じゃ……」
徳治と優子は互いが互いに顔を睨みつけた。
「道草さん、うちのおじいちゃんね、ちょっとボケてて偏屈になってるだけだから気にしないで、いっぱい食べて下さいね」
優子は食の進まない道草を気にかけて、小声で話かけた。
「はい、」
徳治の様子を伺いながら、道草も小声で頷いた。
すると徳治は、テレビのニュースを指差しながら、くどくど続けた。
「……わしゃボケとらんぞ、お前らの方がボケとるんじゃ、世の中の連中は、みぃんなボケとる、……見てみぃスマホ見ながら道を歩いて、人にぶつかっても謝りもせん……それどころか、ぶつかった事にすら気づかん……これで日本が天災にでも見舞われたらどうする……だいたいだな……」
優子は既に耳を塞ぎ、目を閉じていた。
「あ〜ヤダヤダ……頭がおかしくなる」
徳治の愚痴の矛先は自ずと道草へむけられた。
「……それに比べて道草とやら、貴様の娘は賢いのう……昨日までハイハイしとったかと思うと今日はもう立ちあがって歩いとる、……ほれ、上手に箸を使いこなして、ご飯まで食べとる、明日は空でも飛ぶんじゃないのか……」
徳治は女の子にトロけるような笑顔を向けた。
女の子は徳治の顔を見て、キャッキャとまた手を叩いて喜んだ。
「お魚しゃん」
女の子はそう言って徳治の髪の薄い頭を小さな指で差した。
「お魚いた?」
徳治は照れ臭そうに自分の頭を撫でた。
道草は女の子の顔を見ながら、ぽつりと言った。
「その子は俺の子じゃありません、優子さんの娘さんじゃないんですか?」
優子は、食べる箸を止めて、道草の顔を見た。
「え、だってこの娘、あなたが連れて来たのよ、……でも、一昨日の晩にうちに来た時より、だいぶ大きくなってるけどね」
「ああ、あの赤ん坊か……」
道草はぽつりと言った。
「……なんだ、やっぱり誘拐して来たのか、わしの思った通り、身代金目的の誘拐だな……」
徳治がホクホク顏で絡んで来たが、優子は手でハエでも払うような仕草をして、まるで相手にしない。
「なんで赤ちゃん連れてたの、もし、差し支え無ければ話して貰えます?」
優子には、道草が犯罪に手を染めるような男には見えなかった。
それ故に興味が湧いた。
「変な話なんで、信じて貰えないかもしれませんが……」
と道草が言うと、
「貴様が、ここにおることが既に変な話じゃ……」
徳治がボソッと皮肉った。
優子は徳治を睨みつけて野良犬でも追い払うように舌打ちした。
道草は、優子と徳治の顔を交互に見ながら恐る恐る話し始めた。
「……森の中で、見つけたんです」
「捨て子だったの?」と優子。
「いいえ、多分違います、倒れた木の中から泣き声がしたんです、木の皮を剥がしたら中にこの子がいました」
道草はありのままを真剣に語ったつもりだったが、話を聞いた優子は笑いを堪えるのに必死な様子だった。
「それは何……竹から生まれたら“かぐや姫”だけど……木から生まれたら?」
「竹から生まれようが、木から生まれようが、“かぐや姫”は、“かぐや姫”じゃろ」
と徳治が口を挟んだ。
つけっぱなしのテレビの画面に、青木ヶ原周辺で発見されたゴルフの残骸が映った。
「……この不可解な事件に関しまして、警察の公式発表によれば被疑者死亡のまま書類送検とう言うことですが、赤羽の都議一家惨殺事件の被疑者も遺体で発見されてますよね、警察はこれら被疑者の身元を明らかにしておりませんが、植草さん……」
ニュース番組のキャスターが深刻そうなな顔でコメンテーターへ話を振る。
「まあ、警察が何らかの情報を掴んでいるかもしれませんが、こう言った不可解な事件の真相と言うのは往々にして表に出て来ずらいですよね……」
コメンテーターは最もらしい顔で、語った。
「こんな話は、時間の無駄だ、こいつらもボケまくっとる、……」
テレビを見ながら、徳治が一蹴した。
「はいはい……偉そうに、テレビの人たちだって一生懸命番組作ってるのよ」
そんな徳治に優子が呆れる。
「当たり前だ、それがこいつらの仕事だもん、ワシが言っとるのは、もっとジャーナリストとして気骨ある……」
「はいはい……」
優子は徳治の話に耳を貸さず、食べ終わった食器を持って台所へ去っていった。
「カヤ……」
道草が、そう呟いたのを、徳治は聞き逃さなかった。
「今、なんつった」
徳治は目を剥いて、道草の顔を見た。
「カヤ……あ、ちょっと思い出して、別に何でもないっす」
道草がへらへら笑っていると、
目の前に座っていた女の子が
「はい」と小さな手を挙げた。
徳治は更に目を剥いて、女の子を見た。
「カヤちゃん?」
と道草がまたその名を呼ぶと、
女の子がまた
「はい」と手を挙げた。
「へぇ、カヤちゃんて言うの?…可愛いらしい、いいお名前ね……」
台所から戻って来た優子がそう言って微笑んだ。
女の子は笑顔でコックリと頷いて、より一層大きな声で、
「はぁい」と返事をした。
「そうか、そうだったのか……」
道草は、笑顔のカヤを見つめて微笑んだ。
徳治は目を引ん剝いたまま、顔をブルブル震わせた。
とその時、“ピロリロリロリロン…”と店の方で例の電子音が鳴った。
優子は居間の時計を見た。
「あらやだ、おじいちゃん時間よ、デイサービスの人来ちゃた……急いで」
優子は徳治の腕を肩へかけて体を重そうに持ち上げた。
「手伝います……」
道草が近よると、
「大丈夫よ、知らない人が手伝うとかえって危ないのよ」
優子は息を漏らしながらそう言って、徳治を電動車椅子の上へ座らせた。
「宇佐木さん、“ゆうあいの里”です」
と言いながら、青いジャンパーを着たデイサービスの職員が、店と繋がる勝手口から顔を出した。
道草はその職員の顔を見て“ギョ”っとした。
「先輩?石神先輩……」
先輩と言うのは、道草へ例の“園蔵邸のバイト”を紹介した、学生時代はあまりパッとしなかったあの“先輩”である。
「よっ、道草か、久しぶり……来てたんだ」
石神先輩はあっけらかんと笑って挨拶した。
その瞬間、道草の頭の中で、ここ数日の記憶が鮮明に蘇えった。
「ちょっと、久しぶりじゃないっすよ、」
「えっ、だって……いつ以来だっけ、初台で飲んだ以来だろ?」
キョトンとする石神先輩に、道草は駆け寄るなり掴みかかった。
「……俺は、えらい目に遭ったんすよ、なんなんすかあのバイトは……」
頭を揺すられながら石神先輩は、胸ぐらを掴む道草の腕を取った。
「道草、いま……ちょっと、仕事中だから……ちょっと、離せ……」
「そうよ道草くん、どんな事情があるか知らないけど、お友達のお仕事の邪魔しちゃ駄目よ……冷静にお話しなさい」
優子は徳治の車椅子を押しながら、至って冷静に言った。
掴み合った良い大人2人を見上げて、カヤが手を叩いてキャッキャと笑っている。
徳治は石神を見つめて、無言のまま顎で“外へ連れ出せ”と合図した。
石神は徳治に向かって頷くと、
「道草、ここじゃ迷惑になるから……外行って話そう」と道草の肩をポンと叩いた。
道草は気が治まらなかったが、凛と立つ優子の顔をちらっと見て、石神の申し出に黙って従った。
石神の後ろに付いて、店の外まで来ると、他の介護職員が数名、車から降りて待ち構えていた。
「やれ」
という石神の号令で、彼らは瞬く間に道草を取り押えた。
「おいおい、離せ、お前ら何なんだよ!」
両脇を抱えられた道草の悲痛な叫び声が、負犬の遠吠えのように虚しく響いた。
「道草くん、ちょっと君に用がある、一緒に来てもらおうか……」
車椅子の徳治が、道草へ声をかけた。
道草は答える余裕もなく、屈強な職員たちによって、まるで捕獲された野良犬のようにワンボックス車の後部座席へ投げ込まれた。
「石神くんは、後からウチの車で優子と“あの娘”を連れて来てくれ……」
車の介護用リフトで車椅子ごと持ち上げられながら、徳治は石神へ指示を送った。
「はっ」
石神は、軽く会釈して車へ収容される徳治を見送った。
つづく