第1話 誰も知らない
主な登場人物
・道草正宗……25歳、フリーター
・カヤ…………謎の美少女
・園蔵権三……88歳 元内閣総理大臣
・橘 警視………45歳 警視庁捜査一課班長
・瀬田刑事……26歳 橘の部下、階級は警部補
第1話は海外ドラマでいう“パイロット版”のつもり書いたので、1&2話くらい繋げちゃった感じです。
前もって言うと、けっこう長いです。
東京は土砂降りの雨の中。
バケツをひっくり返したような…などと天気予報士はよく形容するが。
バケツどころかナイアガラの滝を下から見上げているようだ。
ザァザァと、まるで滝壺の中へ否が応なく吸い込まれて行くような嫌な心地の雨の夜だった。
環八通りいわゆる環状八号線《都道311号線》から、
黒いフォルクスワーゲン製ハッチバック車、《ゴルフ》が
1台、二子玉川方面へと抜ける側道を曲がった。
上野毛界隈。目黒区と世田谷区の間ぐらいだ。
高層ビルが立ち並び、午前2時でも煌々(こうこう)と明かりが灯っている環八通り沿いとは打って変わり、裏道へ一本入ると一面が暗闇に覆われた。
このゴルフはこのごろ、キャブレーターに少しでも水が入るとグズグズ言って、ノロノロになり、酷いときには、フガフガ言ってエンストしてしまう。
見た目のかっこよさばかりを気にして、
安い中古の外車に手を出したのが悪かった。
度重なる修理。膨らむ修理費用で、
生活がまったく立ち行かない。
それにしても、
雨足は一層強まるばかりだった。
ハンドルを握る道草正宗の胸中に、何度目かの不安の波が押し寄せていた。
「本当にこんな道でいいのか、」
道幅はだんだん狭くなる一方。
もう既に車一台やっと通れるくらいだ。
この時間、当然の如く人通りも車も少ないが、対抗車が来たらとてもじゃないがすれ違えない。
自転車なんか引っ掛けても気がつかないんじゃないのか、
アクセルを踏む右足から自然と力が抜けていく。
GPSのナビ画面へ目をやると、カーソルは順調に目的地に近づきつつある。
どうやらこの道で良さそうだ。
しかし、一向にそれらしい建物が見えてこない。
車はぐんぐん坂を登り、登ったかと思えばまた降りを繰り返すうち、正宗とゴルフは割と開けた平地へ出た。
小さな家々が疎らに立ち並んでいる。
遠い家々は、陰惨な雨で塗り潰され、闇に埋もれ、僅かな光ですら掠れて見える。
この時間まで灯りがある家は極めて少ない。
(何か悪い予感がする)
路傍に点々とみえる街灯を頼りに
恐る恐るハンドルを動かす正宗の脳裏に、
先日の、あの不気味な電話の声が蘇った。
「── 夜分遅いので、“大きい音は一切たてないで下さい”、お伝えした建物へ着いたら、“敷地へは一切入らないで下さい” 道沿いに車を停めて、待っていて下さい、そして一番重要なのは“我々が何者で、どんな目的で、何をしているのか一切詮索せぬよう、我々へ対しする質問も一切せぬようお願いします、この会話を含め、あなたが見聞きしたことは一切他言無用」
「いっさい……、いっさい……」
頭の中でその「いっさい」の声がこだました。
1ヶ月ほど前のことである。
道草正宗は学生時代の先輩に西新宿で偶然に出会った。
その先輩とは、あまり仲が良かった訳でもなかったが、
久しぶりに会った懐かしさと、色々と親身に身上話を聞いてくれる優しい物腰に、ついつい心を絆され、ついぽろっと借金で苦しんでいる旨をこぼしてしまった。
先週になって、その先輩から急に連絡があった。
「お前にぴったりの仕事がある」というのだ。
条件は自動車の普通免許が有ること。
自家用車を所有していることであった。
上野毛にあるとある邸宅から、“月延 (?)”なる場所までの道のりを、たった一晩運転するだけで50万円貰えるという。
SNS , メール等での連絡は一切NG。
電話での通話のみ連絡可能。
「これで、長年付き合続けてきた債務とも一気にオサラバ出来る」
と喜んだ正宗。
電話で例の禁止条項を承諾した翌日、さっそく着手金として10万円が自身の口座へ振込まれていた。
現金を見た途端、不安は一気に吹き飛んだ。
どうやら謎の依頼主は、気前のいい人物のようだ。
“ちょろい仕事”のはずだった。
現在、途切れ途切れのラジオが、1時間に300mmと言う瞬間最大雨量を告げている。
とにかく“月延”なる聞き慣れない場所まで行けば残り40万円が手に入る。
正宗が例の如く金のことばかりを考えながら運転していると、
突如、車の右側に、瓦葺の高い塀が現れた。
何十メートルか進むと、巨人が通れるくらい馬鹿デカイ門構えが見えた。
“これが正面玄関か、ここで待っていればいいのか……”
正宗はミッションをパーキングに入れ、格子状の扉の向こうを窺った。
「うえー」思わず、声が出た。
門から屋敷まで石畳の道沿いに点々と灯されたライトで、その道程がだいぶ遠いのがすぐにわかった。
家が余分に二、三軒は建つ庭の広さだ。
遠くに小高い丘があり、その丘を登るための階段も見えた。
階段の先に屋敷の玄関のようなものが微かに光って見えた。
その先は外灯がひとつ灯っているだけなので、車内から屋敷の全貌をうかがい知ることは出来ない。
よく見ると門の内外に防犯カメラのランプが赤く光っている。
防犯態勢は厳重に見える。
「──いったい、誰の家なのだろう?」
道草正宗はそこでサイドブレーキを引いて、エンジンを切った。
◆
一方、その頃、屋敷の中では防犯装置が作動し警報アラームがけたたましく鳴り響いていた。
上下黒のスーツに、上から黒い合羽を羽織った男が、家主である園蔵権三氏のコメカミへワルサーPPKにサイレンサーを装着させた銃口を、強く押し付けていた。
「“あれ”はどこだ」
黒づくめの男は静かな口調で言った。
権三は小刻みに震えながらも、毅然とした態度で、
「何のことだ」
と声を振り絞った。
窓からの稲光が、黒装束の男の顔を一瞬だけ照らし出した。
「40年前、宮下元総理から預かったモノだ……」
「金ならそこの金庫にある…鍵は書斎の文机の引き出しの中、好きなだけ持って、さっさとこの屋敷から出て行け……」
権三が、唾きとともにそう吐き捨てると、
黒づくめの男はつまらなそうに溜息を吐くのだった。
「……時間稼ぎのつもりか、警備員が駆けつけたところで殺すだけだ、警察が押しかけて来ても全員殺す、ついでに成城の娘夫婦も、孫も……」
「やめろ…」
「じゃあ言え、“あれ”は、どこに隠してある」
寝巻き姿の権三の左腕から、血が滴り、フローリングの床へ数滴落ちた。
彼の背後には電動式の介護用ベッドがあった。
点滴から伸びる管がベッド上から垂れ落ちていた、権三の腕から抜け落ちた点滴針はポタポタと一定の間隔で尚も薬液を床へ供給し続けていた。
「どうせ、私はもう、長くはない、私を殺すのなら、さっさと殺せ」
権三は胸を押さえながら、息も絶え絶えに、精一杯声を張り上げた。
男は、床に伏し酩酊気味の権三を静観していたかと思うと、
不意に権三の下腹部を硬い革靴の先で蹴り上げた。
「ぐふっ」
権三の口から唾液と声が漏れた。
男は、わずかに身体を丸めた権三の下半身から尿が漏れ出すのを眺めてほくそ笑んだ。
「これが稀代のフィクサーの末路か、惨めなものだな、そうやって苦しむ人間を、貴様は何人足蹴にしてきた……」
男は不敵な笑みを浮かべたまま、権三の白髪まじりの髪を掴むと頭部をゆっりと持ち上げて、尿で濡れた床へその顔を再び押し付けた。
「やめて‼︎」
開け放たれた居間の戸口から、年輩の女性が叫んだ。
「あなた、88歳の病人に何をしているかわかってるの…」
女性が顔を真っ赤にして激昂すると、
男は、権三の頭の上に足を置き、笑いながら女性の方へ銃口を向けた。
「勇敢だな、命が惜しくはないのか……黙ってすっ込んでりゃいいもんを……」
「う、う、来るぁー」
権三は踏みつけられ動かない顎で、必死に叫んだ。
「私は、在宅看護師です、先生を助けてくださるなら、ご希望の場所へ私が案内します」
「やめろ」
そう叫んだ権三の腹を、黒づくめの男は再び蹴飛ばした。
「先生に乱暴しないと約束してください、でなければ死んでも教えません」
女性看護師がそう叫ぶと、黒い男の足の動きが止まった。
「どこだ──」と男。
「──嘘を言えば、わかってるな」
「地下です──」と女性看護師。
「──嘘は申しません」
男はしばらく黙って女性看護師の目を見つめてから、
銃口で権三を指して言った。
「じゃあ、おばさん、この汚物を運んでくれるか──」
女性看護師は、権三に駆け寄り、すぐに彼の体を抱えあげた。
権三は女性看護師の肩に凭れ掛りながらも、自力で何とか立ち上がった。
だが、独りでは歩くことはままならなかった。
年老いてやせ細ってはいたが大柄な体格の権三である。
小柄な女性看護師が支えるには少々荷が重い。半ば覆い被さるような格好の権三に、
女性看護師はだいぶフラつきながら歩き出した。
「妙な真似はするなよ」
黒い男は改めて権三の背後から後頭部に銃口を押し当てた。
3人は薄暗い廊下を無言のまま進み、廊下の突き当たりまでやって来て、徐に立ち止まった。
「この壁の中に階段があります」と、看護師が壁へ向かって手をかざすと、壁が自動で開いた。
その中には地下階へと続く14段のほどの階段があった。
階段の下には簡易照明があるらしく、ぼんやりとオレンジ色に明るい。
「先生、申し訳ありません」
権三を肩に背負って、階段を一歩づつ降りながら、看護師は涙を流した。
「いや、三宅さん……ありがとう……」
権三は掠れ声で小さく囁いた。
彼らが階段を降りきると、また四方が壁に覆われた場所へ出た。
壁の前まで来て三宅看護師は前を向いたまま、何やらもぞもぞし始めた。
「何してる……」
「ここは私だと……非常時にしか開かないんです、全開にするなら先生の手じゃないと……ちょっと、先生の手が取れなくて」
「……こうか?」
男は左手で三宅看護師の頭へ銃口を向けながら、もう一方の右手で、権三の太い右腕を持ち上げ壁へその掌を押し当てた。
すると間もなく壁の大部分が左方向へスライドし始めた。
扉の中は、白壁が張り巡らされた個室になっていて外の空間より格段に明るかった。
そして遥かに広く感じられた。
男は、三宅看護師と権三に、先に中へ入るよう促と2人を射程におさめられる程度の距離をとった。
権蔵と三宅看護師の2人は、ヨタヨタと覚束ない足取りで、部屋へ入っていった。
男がその後について足を踏み入れると、その足の裏に感じた感触に驚かされた。
柔らかい。
土である。
床が土で覆われ、そこに草が生えている。
芝生、そんなちょっとしたものではない。
地面には自然石が転がり、緩やかな傾斜や起伏があり、まったく自然のそれに近い。
色とりどりの花が咲き、その花には本物の蝶やてんとう虫などがとり憑いている。
小ぶりではあるが樹木も植えられ、
そこは室内に作られた完璧な庭園だった。
高い天井や広い壁に複数のプロジェクターによってか青空と遠く山々の稜線が映し出されている。
さらにその空間の奥には、小さな木造の平家が建てられていた。
ここが室内なのか外界なのか、男は自分の脳が錯覚起こしかけていることに気がついていた。
見事な空間に見惚れている間に、先の2人は平家の中へ、
男が急いで開け放たれた戸口を潜ると、
「カヤちゃん、逃げて‼︎」
甲高い女性の声、突如、物陰から三宅看護師が男の身体へ飛びかかって来た。
羽交締めにされた男は後ろ手に彼女の脇腹めがけ一発、引き金を引いた。
シュコッっと、極めて小さな銃声とともに、
三宅看護師は床へ転がった。
と同時に家の奥から、髪の長い別の女性が駆け出し、男を押しのけて逃げ去っていった。
男はその後ろ姿に照準を合わせたが、引き金にかけた指がすぐには動かない。
ふと 肩に違和感を感じて手を伸ばすと、首に小型の注射器が刺さっていた。
「クッソ……この女……」
すると身体中、みるみるうちに感覚が失われ、男はものの1秒もたたないうち、床へ倒れ込み動けなくなっていた。
まだ微かに動く左手で、彼は懐ろの発信機のボタンを押した。
「“イのイチバン”奪取失敗」
その背後から、覆い被さったのは園蔵権三だった。
「……筋弛緩剤だ、惨めな末路とは、こう言うことだ…よく、憶えておけ」
権三はそう囁くと、動かなくなった男の手から小銃を取り上げ、その銃口を男のコメカミへ押しつけた。
男の視線だけが、権三の手元の動きを追っていた。
引き金に掛けた権三の震える指が微かに動くと、
庭園に咲いた花々が風に揺れ、
ひときわ白い蘭の花びらに、
赤黒い血しぶきが飛んだ。
◆
屋敷の中が、そんな事になっているとはつゆ知らず、
屋敷の正門前に止められた《ゴルフ》の車内では、
道草正宗がハンドルに手を掛けたまま、大欠伸をしていた。
腕時計はもうすぐ午前3時を回るところだ。
あの土砂降りが嘘のように雨は止んで、空には月が輝いていた。
「遅っせー……」と大声でボヤく。
総額50万円を手に入れるには待つ他ないが、
欠伸しか出てこない。
「眠みーな、クソー」と眠気覚ましに叫んではみるが、
いつの間に目が閉じてくる始末。
正宗が、そのまま気持ち良くまどろんでいると、
ドン、ドンドン、と威勢良く車の窓を叩くものがあった。
驚いたと言うより彼は怒りで目が覚めた。
「誰だ、このヤロー」(俺の愛車を叩きやがって──)
音のする方を見ると白い布のようなものがゆらゆらと揺れている。
だめだ焦点が合っていない。
急いで目を擦ってもう一度見ると、白いネグリジェ姿の少女が、泣き叫びながら車の窓をいまにも割らんとする勢いでたたき続けている。
「ちょっと、なに、やめて‼︎ カギあいてる、あいてるから、開けてみぃ、開けてって…」
正宗は叫びながら、何度もジェスチャーで伝えるが、窓の向こうで少女の方も
「助けて、開けて、助けて、」と叫びながら取り乱していて、互いの気持ちは全く通じ合っていない。
正宗は堪らず身を乗り出して、内側から助手席のドアを開けた。
彼女は、今まさにガラスを叩き割らんと、ちょうど良いサイズの石を手に握り締め、振りかぶっているところであった。
「あ、開いた」
少女もキョトンとして、動きを止めた。
「あ……開いたじゃないよ!開いてるって言ってんじゃん!車のドアの開け方も知らんのか?」
少女は眼を丸くして握りしめた石を正宗の方へ突きつけながらズカズカと助手席に座り込み、
「クルマ、開け方なんか、知らない……」
と当然のように答えた。
「車に乗ったことないんですか?」
正宗は、底意地の悪い言い方をして鼻で笑った。
「あるよ、コレ、クルマ……って動くんでしょ?」
少女は鼻の穴を広げて言い返して来た。
正宗は、その顔を見た瞬間、彼女のただならぬ美貌に見惚れたまま凍りついてしまった。
「ちょっと、さっさと動かして、早く動かしてって、動かせ、このスカポンタン‼︎」
一方、少女は焦った様子で、また取り乱し始めた。
そして正宗の肩をパンパンと叩けるだけ叩いた。
「痛い、痛い、痛い……」
正宗はその女の奇行ぶりに面喰らったが、その反面、並々ならぬ興味が湧いてきたのだった。
“この美少女は何者なんだ”と、
とわ言え、
「仕事だ、運転が俺の仕事……」
すぐに気を取り直しエンジンをかけ、車を走らせた。
「行き先は、例の……」
と言いかけて、少女の方を見ると、彼女はまるで狼にでも育てられた子供のように長い髪をボサボサに振り乱して、
雄叫びをあげるように全力で泣き叫んでいた。
「おじさ〜ん、三宅さ〜ん、うわ〜ん……」
道草正宗は、そんな時も、
「“我々が何者で、何の目的で、何をしているのか”──いっさい詮索も、質問もしてはならない」
と言うあの電話の不気味な声を思い出していた。
しかし、
隣で泣いている少女が、気になって仕方がない。
何か気休めにと、話しかけようとするが質問的な内容の話題しか思い浮かばない。
それにしても、他人目もはばからず、こんなに泣くとは……親が死んだくらいに、よっぽど辛いことがあったに違いない。
少女はにわかにネグリジェの裾をたくし上げ、涙と鼻水でべろべろに濡れた顔を拭った。
正宗は、ふと彼女の露わになった白く美しい足に目を奪われた。
しかし…
(なぜに裸足?)爪先に泥が付着しているのが見えた。
夜陰に塗れ彼女のスラリと伸びた白い素足がふわりと浮かび上がった。
まだ若干あどけない顔をしているが、手足が長く、おそらく身長も正宗とそう変わらない。
前を向く正宗は注意深く運転しながらも、助手席の少女を視界の端に留めた。
一向に泣き止まぬ彼女は、頻りにネグリジェの裾をたくし上げては顔を拭っている。
(大人としてここは、何か声をかけるべきだ)
そう正宗は、意を決して再び彼女を直視した。
さすがに、布が湿ってきたのか、彼女はネグリジェを腹のあたりまでたくし上げていた。何もそこまで……と、
後部席のティッシュ箱に片手を伸ばそうと身を屈めた矢先、少女の局部が視界に入った。
気のせいかと思いもう一度見ると、
そこに、あるべきものがない。
少女は下着を履ていなかったのだ。
「それはダメ…」
正宗は道端で思わずブレーキを踏んだ。
少女は驚いて、布から顔を上げた。
「どうしたの?」
「どうしたのって…それはダメ!」
「え、何が?」
もがくように焦る正宗を、少女は不思議そうに眺めていた。
「決して、これは、誤解しないで頂きたいんですが、決して、じろじろ見ていた訳ではないんです、これは仕事とは関係ないので、例外的に……し、質問させて頂きますけども……」
「だから、どうしたの?」
「下着はつけない主義の方なんですか?」
正宗の目が必要以上に血走っていたのとは対照的に、
少女は、照れくさそうに少し笑みを浮かべた。
「あ、下着というのは、服の下につける薄い布のやつね、妾は、あの締め付けられるのが至極苦手で……」
「妾?」
正宗は、まずそこに引っ掛かったが、
まずは問題ある状況の打開に集中した。
「では、そのネグリジェ的なものの下は、スッポンポンなんですか?」
「スッポンポンとは?」
「まる裸ですか?」
「まる、裸……ですな」
少女はあっけらかんと答えた。
「裾を上げると、その……見えてしまうのです、女性の大事な部分が」
「大事な、部分?」
少女は更に裾をたくし上げて、自分の股をのぞき込んだ。
「だからダメですって」
正宗は鬼の形相で叫んだ。
少女は正宗の顔を見つめながら、恐る恐る、ネグリジェの裾を下ろした。
「それは、運転に支障が出てしまうので……、おパンティを履いて頂けますか、出来れば上も……」
少女は唇をとがらせ眉間にシワを寄せて嫌そうな顔をしたが、正宗のただならぬ形相を前に渋々承諾した。
数分後、2人を乗せた黒のゴルフは、近くのコンビニの駐車場に停まっていた。
「こんな夜更けに、こんな店が……」
少女は店の照明を嬉しそうに眺めた。
そして、虫のように引き寄せられ、助手席側にドアを開けたが、
「降りなくていいです、俺が行ってきます」
正宗が力づく少女の手を退かしてそのドアを閉めた。
「ゼッタイ、降りないでください!」
1分足らずで正宗は店から出て来た。
平静を装いながらも興奮気味で息はだいぶ上っていた。
そして買って来た物を彼女へ手渡しながら
「はい、買って来ました、これ下着の上と下それとTシャツは男性もののLサイズしかなかったですけど、いいとこ隠れるでしょう、とりあえず下だけでも……」と言いかけたところで、少女は素早くネグリジェをスッと脱ぎ捨てた。
正宗は飛び上がって、急いでドアを閉めた。
「あの……、女性が人前で……そんな、スッポンポンになるのは、いかがなものかと……」
少女が恥ずかし気もなく、下着を身につけている横で、正宗は目を覆いながら車に乗った。
再びゴルフは、走り始めた。
「そう言えば、人間の男性は女性の裸を見ると異常に興奮するんだったな、いま思い出した」
少女は助手席で、独り言のように言った。
「……それは、男性に限らないと思いますが……」
と正宗が返すと、
「そうだな、その方が合理的だ、異性同士、生殖行為が円滑に進むしな、そもそも性交渉というものは……原生生物にとっては重要な意味をもつ……」
少女は歯切れの良い口調で話し始めた。
正宗は少々違和感を感じて、少女の顔をちらりと見た。
すると、彼女の顔からどこかさっきまでの幼さが消えたような印象を受けた。
髪の感じもさっきと少し違う、髪の毛が少し伸びたのか
「おい従者、そなた、名は何と申す、妾はカヤと申す」
正宗は彼女が急に名乗ったので面食らった。
「あ、名乗っても、大丈夫なんですか、俺は道草正宗と言います」
「はあ、では、道草と呼ぼう、道草では、道草しているようだな、正宗の方が良いか、妾の裸を見て発情したのか?」
カヤは助手席から正宗を、真剣な目で見つめた。
「はっ……何を?」正宗の顔がゆでダコのように赤くなった。
「そりゃ、発情と言うか、びっくりはしましたけど……」
彼は口をとがらせたまま毅然と言い返した。
「そうか、不思議だな、しかし、そう言うものか」
カヤは、納得した様子で長い髪を掻き上げた。
明らかに彼女の髪は、最初に見たときよりも長く艶やかになっている。
それに胸の膨らみも大きくなったような気がする。
しかし、下着をつけたせいかも知れないと正宗は彼女を横目でじろじろ見ながら思った。
「正宗、年齢は、いくつだ?」
正宗はムッとした。
俺には質門をしないように念を押しておいて、そっち随分と質問して来るなぁ…と思いつつ、
「25歳です」
実年齢をちゃんと答えた。
「そうか、それだと成犬、人間は成人か、繁殖期だから、女性に性的な興味をもっていて当然だな、
妾の裸に興奮するのは当然、正常な反応だ」
彼女は何の感情も混じってないように、至って淡々とした口調で言った。
「興奮したのではなく、驚いたんです」
正宗はあくまでそう言い張った。
「いずれにせよ妾に配慮が足りなかった、ゆるせ」
カヤはとても素直に謝罪した。
正宗は、逆に大人びて落ち着きはなっている彼女の態度に甚だ納得がいかなくなって来た。
「か、カヤさんはお幾つなんですか?」
彼は、はらいせに質問を返した。
カヤはしばらく考え込んでから、
あっけらかんと
「……わからん」
と言い放った。
「なんすか、それ、他人に聞いておいて、秘密すか……」
「本当にわからんのだ、すまん」
「は、自分の年齢がわからないなんて、ありえますか?」
正宗が嘲るように笑うと、カヤは少し悲し気な目をして、
「何度か生まれ変わっているので……」
と小さな声で言った。
正宗が首を傾げて、鼻で笑った。
「……輪廻転生ってやつすか、そんなん勘定に入れてるってハンパないっすね、じゃあ、一番最近生まれ変わって、どんぐらい経つっすか?」
と彼は更に突っ込んで尋ねた。
「2週目に入る」
「は?」
あんぐり口を開けたまま固まった正宗を見て、
彼女は少々照れた様子で苦笑いを浮かべた。
「生まれ変わったのが先週の火曜日なので、正確には1週間と2日」
とカヤが言い直すと、正宗は彼女の顔を2度3度見直した。
(こりゃ、絶対、何か悪いクスリでもやってんだな……)と逆に恐ろしくなって、それ以上なにも聞けなかった。
カヤは終始めずらしそうに外の景色を眺めていたが、はたと気づいたように言った。
「ひとつお尋ねして宜しいか?」
「何でしょう、かしこまって」
「何処へ連れて行って頂けるのかな?」
「え?」
正宗は、一瞬、頭を金槌で殴られたように気が遠くなったが、すぐ我に返った。
(きっと彼女は、俺が依頼内容をちゃんと把握してるか試しているんだ)と思い直し懇切丁寧に答えた。
「ご依頼内容は、上野毛のお屋敷から、“月延”という場所まで人と物を運ぶということでしたので、月延を調べましたところ、そんな地名は東京都、首都圏地図にはなかったんですね、そこで調べに調べたら山梨県に身延という激似の地名があったので、とりあえずそこまで行ってみたら何か情報が得られるのではないかと、」
「なぜ、そんなところへ?」
カヤは皆まで聞かず、不安気に尋ねた。
「なぜって、そちらから、ご依頼を頂いて……理由はいっさい尋ねてはいけないって……そ」
「誰が?」
カヤは、また話を遮って、更に不安気に尋ねた。
「誰がって、依頼主ですよ、あなたはご存知ないのですか?」
「ええ、依頼って、サッパリ、まったくご存知ない」
嘘をついている様子もない、カヤの澄んだ瞳を、道草はまじまじと覗き込んで、
またしてもブレーキを踏んだ。
「確認ですが、カヤさんは、その依頼主の人とか、もしかして、サッパリ、まったく、関係ないんですか?」
「うーむ、関係ない」
「じゃあ、なぜ、あの屋敷から逃げるように出てきて、この車に乗ろうとなさったんですか?」
「園蔵のおじさんと三宅さんが、変な男に酷いことされて、妾はまだ幼かったゆえ逃げてきた、この車がたまたま家の前に止まってたので……」
カヤは、暫らくぼーっとして、
朝焼けに紫がかった空を見つめた。
「たまたまって、こっちは仕事中だったんですよ、……それじゃ、本当の依頼主は、今ごろ怒ってるじゃないですか、カヤさん屋敷の中で誰かと会いませんでしたか?、男、男、男の人ですよ」
正宗は興奮気味に、早口で巻くし立てた。
「男」
カヤは、地下室から夢中で駆け出して来る時にすれ違った、あの黒ずくめの男かと思い返した。
「たまたまではなかったのか……あの変な男を乗せるとして、妾をさらって、またあの月延まで……」
カヤの記憶の中に次第に鮮明になるものがあった。
「また、あの、月延って、月延をご存知なんですか?」
外では、黒いカラスがカァカァと小煩く鳴きながら空を飛び回っている。
道草正宗には、羽根が生えた札束が、朝焼けの空の彼方へと飛び去って行くように見えた。
すっかり腰ほどまで伸びた髪が、鬱ぐカヤの表情を覆い隠した。
「なんですか、急に黙り込んで……」
未だ事情が飲み込めない正宗は、
彼女の邪魔な髪をわざわざ掻き分けて顔色をうかがった。
カヤの髪は、洗いざらしのように良い香りがした。
カヤの横顔は、まるで日本人離れしていてルーヴル美術館のミロのヴィーナスのように見えた。
その透き通るような白い肌は、朝日に映えて大理石よりも陶磁器よりも繊細な輝きを帯びていた。
虚空を見つめる眼差しから少女のあどけなさは微塵も感じられない。
正宗が、カヤの横顔に魅入っているのをよそに、当の本人は小さな声で
「では、ツクヨミ、ツクヨミ」と何度も呟いていた。
正宗は我に返えり、
「ツクヨミ?」
と聞き返した。
即座に向き直り、カヤはスッと正宗の瞳の奥を見つめ返した。
正宗の心臓は一気に高鳴った。
(こんな美しい女性を、生まれて初めて見た)と思った。
「貴様、何者?奴らの仲間なのか?」
カヤの大きな目をから、ポロポロと涙が溢れ出た。
「奴ら……誰、俺は誰の仲間でもないっすよ」
正宗は動揺しながら答えた。
次の瞬間、彼女の華奢な美しい手が、
素早く正宗の喉元を鷲掴みにした。
彼は、頭を車の窓ガラスに強くうちつけられ、その痛みで気が遠くなった。
「た、ただ、人、と、物、を、運ぶ、よう、に、い、知らないオトコから依頼さ…れ…て」
薄れゆく意識の中、
正宗は、だんだん喉が潰されてゆくのを感じた。
喉元に食い込んで行く彼女の手を何とか引き剥がそうとしたが、物凄い力で、まるで歯が立たない。
ぐうの音も出ないとは正にこのこと、唸ることすらできない。
(君は誤解してる、俺は何も知らない、君に危害を与える気はない、落ち着け、落ち着け、落ち着け……)
正宗の心の中で何度も叫んでいたが彼女に届くはずもない。
それが声として空気を震わせることはなかった。
彼の胸でパンク並にリズムを刻んでいた鼓動は、曲の途中で急にリタルダンドし始めた。
人生と言う、恐ろしく長く退屈な演奏は何の予兆もなく終わりを告げようとしていた。
大金欲しさに請け負った得体の知れないバイト。
予期しなかった不思議な美女との出会い。
とびきりの絶世の美女だ。
その美女に首を絞められて死ぬと言う顛末。
滑稽じゃないか、
謎の美女に絞め殺されるというのがいい。
ドMで、ヘタレの自分には、お誂むきの最後だ。
そこだけ取ればある意味理想的な死に方とも言える。
正宗の薄ら笑いすら浮かべていた。
(ラジオをつけてくれ…マイ・ファニー・バレンタインをリクエストしてくれ、)
ラジオどころか車内は無音。
(何でもいい、スキップ・ジェームスあたりのスローなブギーにしてくれ……)
彼が今際の際に心から欲したものは、「音楽」だった。
心底「音楽が聴きたい」ただそれだけだった。
しかし無情にも彼の心臓の演奏をそこで終わってしまった。
◆
「……続いてはヴァン・モリソン……ムーン・ダンス」
スムーズな横文字の発音で、FMのDJが曲名を読み上げた。
軽快なピアノの前奏、ジャズィーなリズム、ヴァン・モリソンの鼻から力が抜けたような声が、グルーヴに優雅に乗っかる。
同日未明、環状八号線を、
赤いパトランプを回し、サイレンを響かせながら、シルバーのスバルB4が爆走していた。
「俺は好きだね、ヴァン・モリソン、ムーンダンスでも踊りながら一気に事件解決したいもんだね」
と、B4の助手席で、笑いながら片手で膝を叩きリズムを刻むのは、警視庁捜査一課の警部補の橘だった。
「……ったく何を能天気なこと言ってんすか、たまんないっすよ、これで赤羽の捜査本部からカヤの外っすよ」
ハンドルを握る瀬田がぼやくと、橘はわざとらしく高笑いした。
「まあ、赤羽だけじゃなく、豊洲もだし、あと、どこだっけ……」
「小菅っす、東京拘置所の火事……」
「“爆破”だの“殺し”だの、こう重なっちゃ、仕方ねーよ、いちいち、あっちにも、こっちにも、本店が帳場立ててんじゃさ……人手が足りないなら、所轄に任せろっての、……逆にあの管理官にあれこれ指図されないから気楽でいいや……」
瀬田はそれを聞いて、溜息をついた。
「たのんますよ主任、我が9係タチバナ班。ただでさえ管理官に睨まれて、肩身の狭い思いしてんすから、管理官か課長には絶対、逐一報告、指示を煽って下さいよ」
すると橘は、
「わーったよ、お前は良い管理官になるよ…あの坂田管理官とまったく同じこと言ってっから……」
とまた高笑いした。
そうこうしているうちにB4は、上野毛界隈の殺人現場へ到着した。
屋敷の敷地内にはパトカーが何台も雑多に止まっていた。
所轄多摩川警察署の川崎刑事が2人を出迎えた。
「事件が起こったのは、午前2時ごろ、第一発見者および通報者は、警備会社の警備員、証言によると、警報機の発報を受けて、警備員が現場へ急行、直通電話に応答がなかったので、最初は誤作動かと思ったそうで、少々現着が遅れたとか、玄関は開いていて、その後、地下室からホトケを発見、」
川崎刑事は橘の後ろへ張り付き、手帳のメモを早口で読み上げた。
「へー、誤作動はしょっちゅうあんの?」
橘は形式的に聞き返すが、半ば聞き流していた。
「は、それはわかりませんが、家主の園蔵権三氏は長年に渡り心臓を患ってまして、介助なしでの単独歩行は、ままならない状態です、24時間12時間交代で、在宅看護師が2名体制ですから、疲労から何らかの操作ミスをする可能性が充分ありますが……」
橘と瀬田はそれぞれ靴に専用のビニール袋をはめ、手にゴム製の手袋をはめた。
「あの園蔵権三氏の屋敷にしては、警護も看護も、ヤケに手薄だよな……」
橘は改めて屋敷の外壁を見上げた。
屋敷の玄関は、所轄の捜査員や関係者が忙しく出入りし、人でひしめき合っていた。
「なんか、お祭りっすね」
瀬田は少々二の足を踏んだが、橘は臆せず、
「本庁捜査一課の橘です、入りますよ」
と家中に聞こえるような大声で叫んだ。
すると、鑑識連中が手を休めることなく、口々に「うぃーっ…」と返した。
瀬田は少々面喰らいながら玄関を一歩入り、
「同じく捜査一課、瀬田入ります」自ら叫んだ。
しかし何処からも返事はかえってこなかった。
瀬田は屋敷内を見渡して、あまりの広さに改めて溜息をついた。
「凄い、広い家っすね〜」
「元首相の家だ、粗相のないようにな、未来の警視総監殿」
と橘がニヤニヤと小声で言った。
「現場は、こちらです」
と川崎刑事は、玄関から伸びる長い廊下を奥へ奥へといざなった。
玄関のホールを抜けると、広い廊下の左右の壁に、大きめの扉が点在していた。
そのどれもが、捜査のため開け放たれて、部屋の中が顕となっていたが、夫人が他界して久しく家政婦等も置かず、権三は動けなくなるまで独りで暮らしていたようで、手入れが行き届かないためか、ほとんどの部屋が近年使われた形跡がなかったようだった。
権三が介護用のベッドを置き、寝室代わりにしていたのは、食堂であった。
キッチンの近くに小さなトイレ付きのユニットバスが増設されており、他にも介護に必要な設備が一部屋に集約されてあった。
橘は、ベッドから床へ垂れ下がった点滴の細い管を見ながら、事件発生当時の犯人の動線を想像していた。
川崎刑事が、
「犯人は中庭から食堂の窓ガラスを割って侵入したものとみられます、」と説明した。
《犯人はこの広い屋敷を迷うことなく、食堂までやって来た、その筋の人間なら、事前に間取りを知ることは出来ても、園蔵権三が食堂を寝室として利用していた事を知っていた人物はそう多くはあるまい……》
廊下は歪なかたちの回廊となっていたが、
その一端の突き当たりに、例の隠し扉はあった。
橘たちは、扉と言うよりヒト1人分通れるほどの隙間が開いた壁の前までやってきた。
川崎刑事は更に、
「害者はこの中です」と2人をいざないながら先を進んだ。
扉の中には地下階へと続く階段。
その階段を下りると、更に分厚い扉が開け放たれていた。
「何すか、これ…」
巨大な地下空間を目の当たりにした瀬田は、思わず声を張り上げた。
「まあ、東京ドームよりは小さい、0.2個分まではないな」と橘。
部屋の中には天然の草花、樹木まであり、昆虫までもが飛び回っている。
壁や天井にはプロジェクションマッピングで大自然の風景が映し出されていた。
部屋へ足を踏み入れた橘は、訝しげに当たりを見渡した。
すると、壁の隅々に10cm四方の小さな穴が空いているのを見えた。
「カメラか、……」
と橘は呟いた。
「なんか、室内で動物でも飼ってたんすかね」
と瀬田が、橘に話しかけると、
「うん、いい読みだな……家畜小屋にしちゃ、綺麗すぎだけどな……」
と言って、彼はスタスタと早足で、川崎刑事が立つログハウスの前まで歩いて行った。
ログハウスの前では鑑識が遺体の写真を撮影している最中だった。
「ガイシャは2名、うち1名は在宅看護師の三宅ミツ子、52歳、園蔵が個人的に雇っていた看護師の中の1人です、脇腹を32口径の銃弾で撃ち抜かれてほぼ即死、もう1名は身元不明、身長170前後の男性、コメカミを同じく32口径で撃ち抜かれて即死、それで、家主の園蔵権三が32口径のワルサーPPKを握り絞めたまま、
この害者の上へ馬乗りになった状態で発見されてます」
「で、園蔵権三は?」と橘。
川崎刑事は続ける。
「第一発見者である警備員が救急車を呼んで、世田谷区の総合病院へ緊急搬送されてますね」
「容態は?」
「意識混濁、生死の境を彷徨っている状態です」
「ってことは、園蔵権三が、2人を殺害したんすか?」
と瀬田が言うと、
川崎刑事と橘が顔を見合わせて笑った。
「えっ、違う…違いますよね」
瀬田はキョロキョロと、橘と川崎の顔色をうかがう。
橘は(やれやれ)と言う感じで長い前髪を掻きあげた。
「部屋の中を見てみろ」
床には白いムートンのカーペット。
木製のベッドにはピンクの花柄のベッドカバー、大小様々なぬいぐるみ、本棚にはブロンテ姉妹やシェイクスピアの全集が並んでいる。
学習机の上には中学レベルの問題集などが並んでいた。
「まるで10代の女の子の部屋だよな…ここには、もう1人いたように見えないか」
橘がそう言うと、
「娘、いや孫娘……」
瀬田は即答した。
「お前、考えてね〜だろ、娘や孫を、閉じ込めておくのか、こんな豪勢な座敷牢にか、」
橘が笑いながら声を荒げると、瀬田は困惑した。
「じゃ、精神に何らかの変調きたしてたんですね。座敷牢って言うのは、戦前まであった風習で、精神病の家族を自宅療養させたっていう……」
「データは、ちゃんと頭に入ってんだな……、でも、お前はそれ、考えてるんじゃなくて、上手く解答してるだけだ、……閉じ込めとかなきゃならないぐらい精神に変調をきたしてた娘の割に、俺は、なぜか、この部屋から沸々(ふつふつ)と世の中の事を学習したいという意欲を感じるんだけどな、うん、部屋中に普通に生活したいと、させたいと言う意志が充満している」
そんな橘に瀬田は共感しながらも、言い返した。
「学習したい意欲があっても、容姿などの事で社会に対して恐れを感じる人もいます、そう言う精神的に弱い子を庇護することだって」
「あの二重の分厚い隠し扉は? まるで外敵から身を守るための防壁だ、心を覆う壁にしては物理的に厚すぎる」
そう言い合う橘と瀬田を見かねて、川崎刑事が説明を始めた。
「とりあえず、確実に存在している被害者と加害者、あるいは容疑者について話を戻しますが………、園蔵権三の寝室からここまで血痕や体液が点々と続いています、
園蔵権三と三宅ミツ子はここまでこの身元不明のこの男に強制的に連行されたのでしょう、ここへ来て……ここにいた……おそらく少女か何かを逃がすために共謀し、男を殺した」
川崎刑事はそう言うと、鑑識捜査員の1人から注射器を受け取り2人に示した。
「発見当初、男の遺体の肩に深く突き刺さっていた注射器です、未消化性の筋弛緩剤或いは麻酔の類い、おそらく三宅ミツ子が隠し持っていたものでしょう、これで男の動きを封じれば、歩行困難な園蔵権三でも、銃を奪い男を殺害することは可能です」
橘は、瀬田の方をちらりと見てから、川崎刑事へ話しかけた。
「外の防犯カメラの映像、あと、この部屋にも、カメラありますよね……」
川崎刑事は即答した。
「屋敷外周と敷地内の映像は、いま警備員が立会いのもと上の階で確認中です、すぐご覧になれます、ここのカメラに関しては、警備員いわく、セキュリティ会社の管轄ではないそうです」
「じゃ、どこの管轄なんでしょうね、いずれにせよ、その少女が鍵だよね……」
川崎刑事と橘はそう話しながら、地下庭園を横切り、巨大な部屋の出口の方へ歩いていった。
瀬田は、ハウス内に佇んで謎の少女が暮らしていたと思われる部屋の中を眺めていた。
「なぜ、こんなところへ隠れていたんだ」
(この部屋の少女は精神病患者ではない、学習意欲のある健常者だ)
そして、身元不明の男の遺体へ目をやった。
「お前は、何しに来た」
血だらけの遺体は答えない。
「いいすか…」
鑑識連中が瀬田を邪魔くさそうに押しのけ運搬用の遺体袋へ遺体を収容し始めた。
三宅看護師の遺体は、眠っているように見えた。
「なぜ、命をかけてまで、少女を守ったんですか、なぜ、」
瀬田はいつまでも問いかけ続けていた。
◆
カーラジオからは、ヴァン・モリソンの
“ムーンダンス”が流れていた。
すると、何処からか香ばしい油とスパイスが焼けた匂いが漂って来た。
この匂いには覚えがある。
一時期、毎日のようにこいつを買い食いしていた。
「ファミ、ファミ……って言うか、あのチキン」
例の骨なしフライドチキンの香りだ。
「いい加減、起きろ、起きないと食べられんぞ」
と、女の声が聞こえた。
「え、カヤさん?」
道草正宗は飛び起きた。
ヴァン・モリソンの歌声の向こうから車のエンジンの音。
助手席にカヤの姿があった。
カヤの下半身はパンツ一丁だったはずだったが、いまは白いフリルのついたスカートを履いている。
正宗は後部席を見て合点がいった。
脱ぎ捨てたはずのネグリジェがない。
彼女は白いネグリジェの上から黒いTシャツを着たのだ。
それなりに女の子らしい格好に見える。
しかし足は裸足のままだった。
正宗が外を見渡すと、そこはさっき立寄ったコンビニの駐車場だった。
カヤは、ちゃんと下半身も隠れる服装をしている。
「はい、お財布借りたぞ」
カヤが正宗の黒革の財布を差し出した。
どれくらい気を失っていたのか、
正宗は財布を受け取った左手にはめられた腕時計を眺めた。
「……あれ?」
時計が止まっている。
カヤは美味しそうにチキンを頬張りながらペプシを飲んでいる。
正宗が不思議そうにそれを眺めていると、カヤはおもむろにもう1つの紙包みを破り、熱々のチキンを彼の目の前へ差し出した。
「これ美味しいぞ、これお前の分」
そう言うカヤの手から正宗がチキンを受け取ると、
「コレも買ってきた、これお前の分」
彼女は矢継ぎ早に500ml缶ペプシも差し出してきた。
「なぜにペプシ……しかも缶」
正宗はペプシもまじまじ見つめた。
再びカヤの方に目をやって、
「君、さっき俺の首絞めたよね、俺、確かにあん時、死んだよね」
カヤは、チキンを全部たいらげて、ペプシをゴクゴクいってから、
「さっき?時間軸としてはこれからだけど、お前は死んでない、心臓がちょっと止まっただけだ」
と言って“ゲー”っとゲップをした。
「それ、死んだって言わない?」
「生物学上、心肺機能の停止が…死と定義されてるならそうだな、でも、」と言いかけて、カヤは、また“ゲー”っとゲップを吐き出した。
「面白いなコレ、シュワシュワーっての飲むと」“ゲー”カヤは楽しそうに何度もゲップを繰り返した。
「いまの長かった最高記録」
「ゲップやめて、ちょっと話聞けよ」
「あ、ちょっとチキンが逆流…」
カヤは、そのうち、ちょっと気持ち悪くなった様だった。
「正宗の心臓が発するパルスが、脳データを読み込むのに少々邪魔だったもので、少し止めてみた、生命に支障なかったはずだ、現にいま生きてるし……」
と言って、
彼女はペプシ缶をドリンクホルダーへ置いた。
「脳データって……」
「脳データは脳データだ、妾が読み取ったのは主に、記憶中枢を行き交っている電気信号だがな、どうやらお前は妾に仇なす者ではないようだ」
上機嫌なカヤは思い出したようにさらに付け加えた。
「あ、やはり正宗は妾の裸を想像していたようだな、女の乳房の画像が何種類も見えた、妾のはあんなにデカくはないぞ、見るか?」
カヤはそう言って、自分のTシャツのすそをたくし上げた。
正宗は飲みかけていたペプシを吹き出した。
「見なくていいです……んな記憶、読みとらんでいい」
あたふたする正宗をよそに、カヤはそのての話を続けた。
「古い層の記憶の中で、最も強烈に光っていたのが女の乳房だった、正宗が最も興味をもち、初めて見た時によっぽど感動したんだな、高校時代に付き合ってたカナミちゃんって」
「やめろ……忘れた、そんなの……」
正宗は声を荒げながら、カヤをにらみつけた。
(本当に俺の記憶を読んだのか?)
カヤはまだ話したりないようだったが、言われた通り話をやめた。
正宗はとっさに、
「なんで、そんな他人の記憶を読みとったりできるんすか」と言いかけて、(やべ、これ質問しちゃダメなやつか)
と口をつぐんだ。
「よく知らない、昔からずっとそうだ」
カヤは少しうつむいて物憂げ呟いた。
「超能力とかなんでしょうね、きっと……」
正宗は妙に物分かりよく話を終わらせようとした。
カヤはよく意味がわからないようだったが、
正宗を見つめて何度もうなずいて見せた。
「……という訳で、正宗はどうやら教団の手下ではないようなので、一先ず安心と言うことで」
カヤは、嫌な顔ひとつせず、その後も正宗の質問に答えた。
「教団とは?」
「私を狙っている教団、あ、ツクヨミ教団……」
「ツクヨミ……?」
「日本の神学上の神様の名前で、月の神様を指す」
道草の脳裏に、死(仮)の間際に聞いたカヤの声が蘇った。
「じゃあ、君を連れ去ろうとしたそのツクヨミ教団の連中が、俺に運転を依頼したってこと」
「うん──それは何とも言えんが、月延って教団にとって聖地だしな、妾は行きたくない」
「ふーん」
正宗はチキンにかぶりつきペプシを飲みながら、いつの間にか、カヤのほんわかとしたペースに飲み込まれてしまっていた。
そして、はたと我に返った。
「で、これから君、どうすんの?」
「うーむ、せっかく久しぶりに外界に出られたので、これから正宗の家に行って、明日は現代の東京を見物してみたい」
「そうか、カヤさんが月延に行きたくないなら、帰るしかないもんな…」
と平静を装いながらも、正宗の目には空の彼方へ飛び去ってゆく大量の札束が再び見えていた。
「ちょ、ちょっと待って俺の家に行くって⁈」
続いて彼は記憶中枢をフル稼働させて自宅のアパートの室内の現状を想像してみた。
結果、到底、女の子を連れ込める部屋でないことが判明。
「だが……」
と、カヤがまだ話を続けていた。
「あすこ、あそこに大きい黒い車が見えるな」
そう言ってカヤが指さした先に、正宗は目をやった。
駐車場の隅に黒い大きなSUVがエンジンをかけたまま停車していた。
「きっと、あれが、教団の連中だ」
「え、マジ……」
「調布に入ったあたりから、こっそり尾行されてたんだが、多分向こうも確証が持てなかったらしく、接触してこなかったようだ」
カヤはあっけらかんと笑って言った。
「気づいてたんなら、もっと早く言ってくれればいいのに」
正宗は焦りながらも、
(あの人たちが残りの40万払ってくれるのかな)という淡い期待を抱いた。
正宗の思念を感じ取ったのか、
カヤは、急に大笑いした。
「妾を、差し出せば、或いは可能性はあるかもしれないが、多分、正宗は殺されるであろうな」
正宗は青ざめた。
「なにそれ、そんな感じ?そ、そんなに危険な連中なの?」
「アマテラスの光の世界を、ツクヨミの闇の世界へひっくり返そうって連中だから、そんな安全な人たちじゃないな」
しかし、カヤは笑っていた。
「もう、そろそろ警察が、防犯カメラの映像から正宗の車を特定する頃だ、警察内部の内通者が、教団へ連絡したら、奴らは、この車だと確信して、妾をさらいにくる……」
正宗は激しく狼狽えた。
「まずい、まずい、まずい、それって警察もグルってこと、人殺しにひと役かってんの……うわー、なにそれ、悪の秘密結社」
とても、信じられない話だと正宗は思ったが、ついさっき死んで蘇ったばかりだし彼女の他人の記憶を読みとったりという能力を鑑みるに、カヤの話には寸分の信憑性があると感じた。
しかし、今の自分に何が出来るのか……
カヤは、おもむろに自分で車のドアを開けた。
「だから、さようなら……妾が車降りて3つ数えて、全速力で逃げてくれ、あと車は途中で捨てていった方が良い、正宗の顔はまだ記憶されていないであろうから、きっと逃げおおせる」
「え、何言ってんの?」
正宗の視線の先で、駐車場の隅のSUVから黒いスーツ姿の男が2人、映画でしか見たことないような自動小銃AK-47を小脇に抱えて降りて来た。
しかし、すぐ近くのカヤは、笑顔のまま正宗を見つめている。
「……少しのあいだったけど、楽しかったゾ、ありがとう」
「ダメだよ、あんな奴らの所になんか行っちゃダメだ」
「もう、誰も巻き込みたくないので……園蔵のおじさんも、三宅さんも、たくさんの人が、いままで私を守ろうとして……」
カヤは言葉に詰まった。
「ダメだ」
正宗は恥も外聞もなく叫んだ。
カヤはもう、それ以上何も言わずに
そのまま車のドアを開け放った。
黒いスーツの男たちは銃を構えたままこちらへ駆け寄って来る。
正宗は、外へ向かってシートから立ち上がろうとするカヤの背中へ咄嗟に手を伸ばした。
正宗の伸び切った指先が、彼女のTシャツの襟に引っかかった瞬間、彼は力いっぱいに彼女の身体を車内へ引き戻した。
カヤが仰向けにひっくり返って、
正宗の膝に頭を打つか打たないかのうちには、もう彼は、
シフトを“D”へ無理矢理に突っ込んで、アクセルをめいっぱい踏み込んでいた。
ドアが開きっぱなしの黒のゴルフは“ブブォーン”と、まるで嘶くような轟音をあげて猛スピードで走りだしたのだった。
次回をお楽しみに!