吐き出すもの
「蝶を吐く」企画。今さらですが、ちょこっと書きました。
眠れぬ夜に、文章を綴る。
今日あったこと。嬉しかったこと、悲しかったこと。
今日なかったこと。嬉しいことはなにも起きなかったから、もしも……起きたならきっと喜んだこと、悲しいことは苦い薬をオブラートに包むようにして。
会社から夜遅くに暗い部屋に戻る。ワンルームの扉を開けたときに、不意にこみ上げた吐き気にうずくまった。お昼に食べたものはなんだった? 健康を気づかって飲んだ野菜ジュースだけ。じゃあ、夜は? まだ食べていない。
ただ、同期の彼女に嘘を吐いた。いつも自慢話ばかりする彼女に。
それは、わたしの空想の物語。
大きな会社に勤める彼氏がいること、ブランド物のバッグやアクセサリーをプレゼントされたこと。近いうちに彼のご両親に紹介されるかも知れない、なんてことを。
彼女は一瞬眉を吊り上げたけれど、きっとすぐにわたしの嘘に気づいただろう。驚き見開かれた目は、わずかの後に、あざけりへと変わった。きれいに塗られた赤い唇が歪んだもの。
胸を突き上げるようにして襲ってきた吐き気は、何かが狭い喉を通り過ぎると不意に楽になった。
けれど、胃液を吐いたときのあの焼けつくような痛みは喉にない。
いったい、何を……と耳元で羽音がした。
ぱさぱさと微かな音。紙をめくったときのような軽い音。
灯りをつけると、目の前を黒い蝶が横切り、水道の蛇口へととまった。
こんな真冬に、蝶が。もしかしてわたしの体から? まさか。濃紺のコートに銀の鱗粉が散っていた。
膝が、がくがくとふるえた。
キッチンの小窓を開けて、蝶を外へと追い出した。
蝶はふわりと夜の闇へ消えた。
それからだ。嘘を吐いた日の夜には、わたしは蝶を吐く。
いつしか部屋の壁には蝶が何頭も貼りつくようになった。
嘘を吐くかわりに、物語を書くようになった。
それは、わたしだけが読む恋の物語だ。
どれだけ嘘を重ねてもいい。物語のなかで、わたしは華やかな人生を送ることにした。
相変わらず、蝶を吐くときがある。
それは物語の嘘を巧みに語ることができた時だ。
いつか目にも鮮やかな大きな蝶が吐けたらいい。
物語、たくみに嘘をつく。
どこかの誰かが映画を「いつわりの人生」と表現したという。