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黄昏は手を繋いで  作者: 輝血鬼灯
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8.逃亡と選択

 捕らえておけとは言っても院内に牢などあるはずもなく、ダニエルは外から鍵のかけられる一室に閉じ込められていた。普段は物置として使われている部屋だけに、空気は悪くて埃っぽく、雑多なものが溢れているのに殺風景だ。何もかもが色褪せてくすんだ牢獄。

 明け方まで、ダニエルは膝を抱えて座り込み、ただひたすらにフェニカ教とシュザンヌのことを考えていた。ガスパールのことは、もう彼は最低の人間だと結論を下してしまった。リゼットとは一緒にいられないだろう。ヴィクトルが彼女を幸せにしてくれたらいい。

 シュザンヌは一体どうなるのだろうか。ガスパールの目的がダニエルたちの殺害にあるのだったら、彼女はこのまま放って置かれるのだろうか。それならばいいが、もしもこのまま彼女にまで教会の手がかけられることになったら、彼女はどうなるのだろう。

 ダニエルが思い出すシュザンヌの姿はいつも、食人鬼の恐ろしさではなく、森の中で穏やかに暮らす一人の少女の無垢な笑顔であった。彼は神と聖女に祈る。

 どうか神様フェニカ様、シュザンヌを幸せにしてください。聖典の文句を思いつくままに唱えていると、ふいに入り口の扉が軋んだ。

「やれやれ、災難だね、君も」

「バティスト伯爵……」

 物置に入ってきたのは、あの“狂人”バティスト伯爵だった。

「どうしたのですか? 見張りは?」

「何、私が君に何だかんだとちょっかいをかけているのは周知のことだからね。殺すならその前にイイ思いをさせてもらうくらいいいだろうと鼻薬を嗅がせながら囁いただけだ」

「あなたって人は……」

 ダニエルは呆れた。呆れながら、無性に泣きたくなった。だってバティストが本当に言葉通りのことを行うつもりだったのなら、何故ダニエルの鞄をその手に持っているのか。年季の入ったずだ袋の中には、彼の修道服でない衣服や、薬や、路銀等、必需品が詰め込まれている。

「どうしてですか?」

「単にガスパールが嫌いで、君のことが好きだからだよ」

「どうして院長のことが嫌いなんですか?」

「あれを嫌わずにいられるか……と言いたいところだが、まあ大人には大人の事情があるということさ」

「バティスト卿」

 ダニエルは男の名を呼んだ。伯爵は鞄をダニエルに渡しながら、口を開く。

「行くのだろう」

 それは問いかけではなく確認だ。

「行きます」

「神とフェニカ様の心に背くことになっても?」

 バティストの瞳が穏やかに問いかける。

「行きます。このままにはしておけない。ガスパール院長のことについては、悔しいけど僕は何もできない。けれど、こんな僕にだってできることはあるだろうから、それをやりに行きます。それに」

 勝手な自己弁護かもしれない。都合のいい見方なのかもしれない。それでも、ダニエルはシュザンヌと生きるうちにそういう考えに思い至ったのだ。

「僕は後世の人間が祭り上げた奇跡の御使いではなく、人として、医術を学び人を救おうとしたフェニカ様の心を信じます」

 バティストが微笑む。

「経典よりも、教会よりも――本当に尊いのはフェニカ様のお心だけだ。天の御主のお慈悲だけだ」

 経典も、教会も、あとから付け加えられたもの。改竄はいくらでもできる。そのつもりでなくとも、人は容易く言葉の解釈を間違える。年月を経るほどに明らかになるのではなく、より難解で複雑になっていく。

 けれど信じたいのはいつも一つだけだ。人が人を思う、その心は経典よりも尊いのだと。

「私は昔、妻と娘を同時に失って神を信じることを止めた。けれど後に娘だけは生きていることを知って、フェニカ様の奇跡と愛を感じた。本当に正しいものは、どんなに否定しても否定しきれない。必ずどこかにある」

「伯爵」

「行きなさい。君にはまだ、未来がある。今までとは違う、新しい明日が」

「――……はい」

 ダニエルは爪先立ちになり、伸びをした。背の高いバティストにそっと口づける。性的な触れ合いを極度に嫌っていたダニエルの、それは精一杯の愛情表現だ。バティストはダニエルの眼帯の下の空洞である左目と、二本の指の切り口を愛おしむようにそっと撫でた。

 ようやくダニエルには彼の愛情がわかった。この修道院で、上辺だけの言葉といつの間にか歪んでいた信仰心をかざす自分を、誰よりも見守ってくれていたのは彼だったのだ。

「ありがとう、ございます……っ」

 バティストの厚意を無にしないよう、振り返らずに部屋を出た。


 ◆◆◆◆◆


 コン、コンと馬車の窓を外から叩かれて、リゼットは顔を出した。シェヘラ修道院へ向う途中の道で馬車を止めていた彼女は、院で馴染みの修道士の少年に尋ねられる。

「あ、お嬢様。この辺で修道士ダニエルを見かけませんでしたか?」

「いいえ。見ていないわよ。彼がどうかしたの?」

 婚約者の名前を聞いて、眉間に皺を寄せながらリゼットは尋ねる。少年は頭をかいた。

「はぁ。なんでも、罪を犯して閉じ込めたられたのを、脱走したとかで」

「ダニエルが!? 何の罪を!」

「なんか、食人鬼に関連することらしいですよ」

 修道士の少年はそういうと、礼を言って馬車から離れた。カーテンを半分だけ閉めた状態で話していた彼女は、もう半分もきちんと閉める。

「ですってよ、ダニエル」

「……リゼット、君って役者だったんだね」

 馬車の中に匿われていたダニエルは、婚約者であった少女の演技に呆気に取られながら小さく声を出した。

「女ってのはね、人の眼を見ながら平然と嘘がつける生き物なのよ。それよりも、あなたのことよ、ダニエル……これからどうするの?」

「シュザンヌに会いに行く」

「シュザンヌ?」

「ああ、ミスコの森の食人鬼の……」

 リゼットは深く溜め息をついた。彼女はダニエルの話を聞いて父の諸行に憤懣やるかたない様子を見せたが、流石のダニエルも、ガスパールが彼らの結婚を反対するためにダニエルを殺そうとしたことまでは言えなかった。

「あのねダニエル。わたくしは美人だわ」

「リゼット?」

 唐突に一見脈絡のない話題を切り出すところは父親譲りなのか、リゼットが淡々と語る。

「ずっと周囲にそう言われてきたし、自分でも自覚していたわ。でもわたくしは公爵令嬢でこの容姿だから、財産目当ての男たちからご機嫌取りの褒め言葉を言われる言葉も多かったわ。彼らにとっては、褒める相手が美人ならどれだけ考えるのが容易いお世辞だったと思う?」

「……」

「ねぇ、ダニエル。あの日、二年前、初めて会った日、あなたもわたくしを綺麗と言ってくれたわね。あの中庭で。でもその時のあなたの言い方は、わたくしが公爵令嬢だから褒めようと言うのではなくて、そこらの薔薇が美しいのと同じように、綺麗だと思ったからただ綺麗だと言った、という感じで、わたくしは本当に嬉しかったの」

 だから両親に無理を言ってもダニエルと婚約した。けれど。

「あなたのあの言葉は……わたくしを公爵令嬢だからという理由で言ったのではなかった。けれど、わたくしに好意をもって言ってくれる言葉でもなかったわね」

「リゼット」

「わかっているの。わかっていたのよ、本当は最初から。あなたにとっては薔薇も朝焼けもわたくしも、みんな綺麗で、それだけのもの。それって特別とは程遠いの」

 彼女を美しいと思った。その凛とした気性は好ましいと、清々しく感じた。

 けれどダニエルは、リゼットに恋を、男女間の愛情を焦がれるほどに感じたことはない、一度も。それがずっと心苦しかった。だからヴィクトルのこともリゼットのことも責めることはできなかった。誰よりも自分の心の至らなさを知っていたから。

 全てを平等に愛しているということは、結局誰も愛さないことと同じだ。

「もう、終わりなのね」

 リゼットが微笑む。彼にとってやはり彼女は美しくて、好ましくて、それだけだった。

「リゼット……」

 ダニエルは彼女に何か言ってやりたかった。しかしそれを阻んだのは、前触れもなく馬車の扉が開けられる音だった。

「やっぱり、ここにいたか」

「ヴィクトル……っ」

 向かい合う二人の姿を見て、彼は少しだけ息がしづらいような苦笑を浮かべた。そしてするりと中に身を滑り込ませると、言った。

「お嬢さんが何でもない道の端に理由もなく馬車を止めていたのは、絶賛アタック中の俺と二人っきりで話をするためだ」

「ヴィクトル、君は……」

「街の方は修道院の人手が出てる。着替えて、外を迂回しろ」

 ダニエルは彼に憎まれていると思っていた。ヴィクトルが不愉快極まりないといった顔を無理に作りながら、素っ気なく吐き捨てる。

「勘違いするなよ。俺はお嬢さんの悲しむ顔を見たくないだけだ」

「ああ」

 カーテンをそっと開いて、ダニエルは外の様子を確認した。空はすでに紫に白んでいる。近くに修道院の追っ手はいないようだった。

「僕、行くよ」

 リゼットが頷き、ヴィクトルは目線だけをダニエルに向けた。

「二人とも……――どうか、幸せに」

「あなたもね、ダニエル」

 ダニエルはリゼットの手をとり、その甲に口づけた。夢のように儚い一瞬の出来事だ。

 バタン、と馬車の扉を閉じる音が、リゼットにはやけに大きな音に聞こえた。

 彼女の滑らかな頬を滑る透明な雫を、ヴィクトルは見ないように努めた。

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