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黄昏は手を繋いで  作者: 輝血鬼灯
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3.彼にとっての聖女

 花や草木を愛でることは、修道士にとっても美徳の一種であった。シェヘラ修道院には何年か前に国王からお褒めの言葉を頂いたという薔薇の花が植えられている。庭師などがいるわけでもなく、その手入れは週ごとに交代で修道士たちが勤めることになっている。

「ここの薔薇は……いつ見ても綺麗なのね」

 早咲きの桃色の薔薇を眺めながら、そう口にしたのは、男だけの修道院にはいないはずの、一人の少女だった。さらさらと背に流れる赤毛はよく手入れされていて美しく、青い瞳は宝石のように輝いている。

 彼女の名はリゼットといい、大司教ガスパールの娘であった。公爵の位を持つとはいえあの強面の司祭が入院前に妻子を持っていたことも意外なら、その娘がこんなに美人なのも予想外だと、まだ俗気の抜けない若い修道士たちの間で話題になっている。

 今年で十七になる、若く美しいリゼットは、シェヘラ修道院を彩る唯一の華であった。だが目下のところ、彼女の好意はただ一人の人間に向けられている。

「みんなで手入れしているものだから、褒めてもらえると嬉しいね」

 令嬢の心を射止めた幸せな青年ダニエルは、彼女の笑みにつられてつい微笑んだ。と、途端にリゼットのほうは不機嫌な面持ちになる。

「嬉しいね、じゃないでしょうダニエル。わたくしは薔薇の話をしにきたのではありませんのよ」

「え、いや、その……」

「んもう」

 どうやら挨拶代わりの社交辞令だったらしいと察するのも遅く、ダニエルは頭をかいた。「えっと……話って?」

「もちろん食人鬼退治のことに決まっているでしょう。お父様からお聞きしたの。あなた、また西の森へ行くんですってね」

「ああ」

 うっかり頷くと、詰め寄られて襟を掴まれた。白いワンピースにパラソルを差したリゼット嬢は、見た目こそ深窓の令嬢だが行動は時折男であるダニエル以上に大胆で男前だ。

「どうしてそんな危険なことを引き受けましたの! あと一ヶ月したら、あなたはここを出てわたくしと結婚するのでしょう!?」

 二年前、シェヘラ修道院を訪れたリゼットはダニエルを見初めた。どうしても彼と結婚するのだと駄々をこねガスパールと母親を説き伏せ、ダニエルが十八になったらという約束を取り付けたのだ。

 一月後にダニエルは十八歳になる。そうしたら院を出て、彼女と一緒になる約束だった。

 ダニエルにはどうして彼女がそんなに自分を気に入ったのかわからない。だが、フェニカ教は妻子を持つことも俗世の爵位を頂くことも禁じていない。そして恋と聞かれると答えに困るが、快活で行動力のある公爵令嬢リゼットのことを好ましく思っているのは確かなので、その申し込みを受けた。

 もっとも、嫌だといったところで公爵でありこの院の院長である彼女の父親ガスパールの権力を持ち出されてしまえばどうにもならなかったのであろうが。

「リゼット。僕はただ、院長の頼みを断るわけにもいかないと……」

「お父様が? でも、何もあなたが行くことはないでしょう。あなたはわたくしと結婚しさえすれば、何不自由ない生活が送れるんですのよ。他の三人の方々は亡くなったと伺いました。あなたは、とても運がよかったのよ」

 臆病だっただけだ、ダニエルは胸中でひっそりと思う。声に出せばまたこの気の強い少女に叱られることはわかっていた。それに、リゼットは口調こそ強いものの、今にも泣きそうな顔をしている。

「もうこんな危険なことはやめて」

「でもリゼット……僕はフェニカ様の」

 宗教の聖女の名前を出すと、一層彼女の機嫌は悪くなった。

「またフェニカ様? あなたはいつもそればっかり。お父様もだけれど。あなたは私よりもフェニカ様のほうが好きなんでしょう!」

「リゼット、僕はそんな……」

「もう知らない! 勝手に食人鬼退治でもなんでもすればいいじゃない!」

「リゼット! 待っ……」

 ダニエルの襟から手を離し、少女はそのまま中庭を走り去った。当事者でありながらこの展開についていくことができないダニエルは、放心したようにその場に立ち尽くす。

 しばらくすると、青年の腰ほどまでの高さがある植え込みの向こうから、呆れ顔のヴィクトルが現れた。背の高い彼には黒尽くめの修道服はよく似合い、何故か今、ダニエルはそれが酷く羨ましかった。

「おいおい、また喧嘩か?」

「ヴィクトル、どうして」

「どうしてわかったかって? そりゃあお嬢さんがあんな顔して走り去っていったら、お前が何かしたんじゃないかってみんな思うさ」

 この修道院であの人を泣かせることができるのはお前だけだ、とヴィクトルはにやにや笑う。

「喧嘩なんて、そんなものでは……」

「わかってるって。どうせお前はまたフェニカ様の尊さとかそんなものを訴えて、お嬢さんが怒ったってところだろ? お前って本当に修道士としては鑑だけど、女心がわかってねぇなぁ」

 図星を言い当てられて、ダニエルは口を噤む。

「お嬢さん、お前にちょっときつく言い過ぎたって謝ってたぞ」

「リゼットは……」

「もう帰った。お前が西の森に行くころまた来るってさ」

「そうか」

「で、どうするんだダニエル?」

 今までの冷やかすような調子とは打って変わって真剣な表情をヴィクトルはダニエルに向けてきた。対して、ダニエルは目を伏せる。

「また行くのか? 今度は死ぬかもしれないんだぞ」

「でも、院長様から言いつけられているんだ。あの食人鬼をそのままにしておいたらいつ村のほうに被害が出るかもしれないって。それに、彼女の姿を知っているのはもう俺だけだから……」

 風が吹くたびに、庭園の木々は揺れ、辺りに馨しい薔薇の方向が広がる。桃色の早咲きの薔薇は先程リゼットが褒めていたもので、光沢のある花弁が陽光に光っている。だがダニエルは思い出していた。

 あの暗く鬱蒼とした森の中、金色の髪をなびかせた一人の少女の姿を。

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