徒然掌編集 零 ~あつまれ短編作品のMemento mori~
保健室の妖精
この高校の保健室には、妖精がいる。
保健室。ドアを開けると、彼女は幼気な顔を僕に向けてほころばせた。
三時間目が終わるチャイム。それからほとんど時間を置かずに、僕は挨拶した。
「おはよう、小森さん」
鈴の鳴るような細く高い声で、その妖精は小さい手を振った。
「おはよ、せんぱい」
小森さんは、可愛い後輩だ。
「いつ来たの?」
「さっき」
「……いま何時かな」
「じゅういちじ」
「そうだね……大遅刻だ」
彼女は、遅刻魔でいつも眠そうな後輩だ。
「国塚く……せんぱいは、なんでここに?」
「四時間目、体育だから」
「サボっちゃうんだ。ひとのこと言えないねー、せんぱい」
「うぐぅ」
彼女は、先輩である僕をまるで先輩だと思っていない、生意気な後輩だ。
でも。
「じゃあ、これからふたりきりだ」
そうやっていたずらに、うれしそうに笑う姿がひどく可愛らしい。そんな可憐な、保健室の妖精だ。
無駄にドギマギする心臓。大きくため息。
「……どうしたの? せんぱい」
「なんでもない。なんでもないから……」
女性免疫がなさすぎるだけだから気にしないでくれ。そんな本音は隠しておくことにする。
「えへへ。せんぱい、なんかかわいい」
もっと可愛い生き物に言われたくはない。
授業開始のチャイムが鳴って。
「……ふたりきりだね、せんぱい」
保健室のベッド。隣に座った僕。小さな彼女は僕を見上げて笑う。
「えと、そういえば谷口先生は?」
「せんせーはね、かいだしだって。ちょうどせんぱいといれちがい」
「そっか」
保健室の先生もいない、ただ二人きりの空間。僕は持ち込んだラノベの本に目を落として。
ふと、温もりが腕に触れた。
ドキッとしつつ視線を落とすと、小森さんは僕に寄りかかって、目を細めていた。
「……眠いの?」
「ううん」
小さなあくびをしながら僕にもたれかかる彼女。その体重はあまりにも軽くて、温かくて。
「えっと……僕、邪魔かな」
「そんなことないもん。……これでいいの」
ちょっと幼くて若干舌足らずな高い声。高校生とは思えないような彼女を甘やかしたくなってしまうのは、当然のことだと思う。
静かになった空間。しばらくは本をめくる音もしていたけれど、程なくして消えた。文章が、頭に入らなかった。
何処かのクラスの授業。外は体育。野球。音楽室から聞こえる合唱。夏休み前。蝉時雨。——呼吸音。心音。
環境音だけが、僕らの間に漂っていた。
ガラッと静寂が破られたのは、たぶん授業開始から二十分くらい経った頃だった。
「ただいまー。小森ちゃん留守番ありがと……あ、国塚もいるのね?」
養護教諭の谷口先生だった。低めで女っ気のない声で、先生は僕に大きめのため息をつく。
「またサボり?」
「体調不良」
「うそつけ」
「はいはい、サボりですよー」
「さっさと授業行きなー。さもなくば内申落とすぞ?」
どうせ既に地の底なので落としようがないぞ、という反論は言いかけて止めた。隣で小森さんが震えていた。
眉間にシワを寄せつつ深呼吸をする僕を横目に、谷口先生は「あっそーだ。小森ちゃん。いいのがあんの」とあからさまな話題逸らしにかかった。
「そのぉ……じゅぎょう、いかなきゃだめ……?」
「小森ちゃんは大丈夫だよー。国塚はさっさと行け」
「あからさまに対応が違う……」
文句を垂れる僕を尻目に、性悪女教師はレジ袋をガサガサと漁って、一つの缶をぽいっとこちらに投げ渡す。
「サイダー。小森ちゃんがお留守番してくれたから、そのお礼ね」
「ありがとぉ、せんせー」
「いいのいいの」
にこやかに受け取った缶を抱える小森さん。彼女は少し考えたあと、何かを思い出したような顔をして、缶を僕に押し付けた。
「思いだしたー」
言いながら備え付けの冷蔵庫に走った彼女。冷凍室から取り出したのは。
「えへへ。くだものの氷だよ」
カップに果物味の氷が入ったアイス、要はアイスボックス。それが、ふたつ。
「せんぱいといっしょにたべようとおもって、行きにかってきたんだー」
戸惑う僕。視線を向けた先の救世主・谷口先生は、そっと視線をそらした。「見てないことにしてあげる」ということでいいらしい。
二人でアイスボックスの蓋を剥がした。ひとりひとつ。そして彼女はサイダー缶のプルタブに爪を立てて。
「……あかない」
涙目になった彼女から缶を受け取って、開けた。
かしゅっ、と炭酸のはじける音がして、吹き出しかけた中身がちょっとだけ手についた。
こぽこぽこぽ。アイスボックスにサイダーを注ぐ。彼女と僕ので、ふたりぶん。少し余ったサイダーは。
「飲む?」
「ん」
彼女の口に注ぎ込まれた。
「あまいね」
「そっか」
ほころんだ彼女。深呼吸した僕に、彼女は流し目で告げた。
「これは、ふたりだけのひみつだね」
谷口先生も聞いてる、なんていうのは無粋だろう。
「かんぱーい」
彼女の可愛らしい音頭に合わせて、プラスチックのカップを合わせた。カラカラと氷の音がした。
アイスボックスサイダーは甘かった。甘ったるくて、冷たくて、少し酸っぱくて、後味爽やかで——すぐに、消えていった。
青春の味がした。
チャイムが鳴った。
にわかに騒がしくなる廊下。彼女は小さく震えて、ほうっと息を吐いた。この仕草になんの意味があるのかはわからない。
「お昼ごはん、持ってくるよ」
「ん」
昼食の弁当はどこで食べても構わないことになっている。
保健室は、あたかも僕らだけの楽園のようだった。
*
——ばれなかった、かな。
「小森ちゃん。出た?」
国塚先輩が出ていった保健室。谷口先生の問いかけに、わたしはうつむきながら答えた。
「はい……」
保健室の妖精、っていうあだ名を聞いた。——また、そう呼ばれてしまった。
「新しいの、持ってる?」
身体は小学生みたいに小さくて。
「もって、ます」
舌はうまく回らなくて、考えても出てくる言葉はゆっくりで。
「おむつ、結構濡れちゃってるね」
「……うん」
切迫性尿失禁、起立性調節障害、たまに夜尿症もある。
だから、対策用品が必要。常に。
わざとじゃない。でも、がまんできなくて、出てしまう。出ているときの感覚もわかるし、濡れちゃったこともわかる。けど、感じてからすぐに出ちゃう。
言い訳ばっかりが脳内を駆け巡って、視界がぼやけて。
「ほら、泣かない。親御さんも言ってたでしょ? これは、仕方ないことなんだって」
諌められて、わたしは緩慢に頷いた。
「わかって、ます。……しょうがないんだって」
例えるなら、目が悪いからメガネを付けるように、あるいは足が動かないから車椅子を使うように。
おしっこが我慢できないから、おむつを使う。そうすることで、迷惑を最小限にできるから。
わかってても、でも。
「……っ」
声を殺して涙を流すわたしの頭に、先生はそっと手を置いた。
ほんとは、いやだ。
みんなとおんなじになりたかった。
おしゃれな服を着て、年相応の下着もつけて、一緒の輪に入って、おしゃべりして、遊んで、騒いで。
でも、現実は。
小さい子供の服で、幼すぎる柄の幼すぎる下着を穿いて、みんなの輪からは弾き出されて、うまくしゃべれなくて、だから遊ぶのも騒ぐのも出来なくて。
どこにも居場所がなくなって、でも家にいるのも気まずくて。
必然的に、居場所は保健室だけになってしまった。
「保健室の妖精、なんて……ぐすっ……いや、だったんだけど、なぁ……っ」
これは、そう、仕方ないことだ。どうしようもない現実だ。変えることの出来ない、現実なんだ。
しばらく声を殺して泣いたあと、一度深呼吸して、つぶやいた。
「……かえなきゃ」
せめて、先輩にはばれないようにしなきゃ。
——知られちゃったら、きっとまた離れられちゃうから。
——先輩には、嫌われたくないから。
——好き、だから。
汚した下着を交換するために、制服のスカートを脱いだ。これ以上汚さないために。
その、矢先だった。
がらっとドアの音がした。
「小森さん。いるかな……あっ」
先輩が、目を見開いていた。
わたしはひゅっと息をひそめた。
見られ、ちゃった。
*
妖精の着替えを、覗いてしまった。
これは、そう、事故だ。保健室のドアを開けたら、ちょうど小森さんがスカートを脱いでいた。下着が見えてしまった。
白地にピンク基調のカラフルな柄が入っていて——ショーツと言うには、厚ぼったくて。
「ごめんっ!」
急いでドアを締めて、後ろを向いた。
……あれは、もしかして——。
心臓がバクバクと高鳴る。渦巻く思考とともに、一秒、二秒、三秒。
道行く生徒に見られながら過ごした長い数秒は。
「……はいって、いいよ」
しかし、想定よりも短く終わった。
恐る恐るもう一度保健室のドアをあける。ベッドの手前のカーテンが閉まっている。——その向こうに、彼女のか細くて荒い息遣いが聞こえる。
僕は深呼吸しつつ——さっきはしなかったはずの薄いにおいが鼻をくすぐる——彼女の言葉を待って。
「…………見、た……?」
やがて小さく尋ねられた。その声は、震えていた。
怖がってるんだ。……トラウマ、だったのかな。
どんな言葉でさえも、彼女を傷つけてしまうような気がした。でも、沈黙もまた彼女を傷つける気がして。
答えに窮する僕に、小森さんはポツリと口にした。
「どう、思った……かな」
すごく答えにくい質問だった。けれど、ここで濁すのもあんまり良くないと思って。
「その……可愛いと、思いました」
正直に答えた。
我ながら気持ちの悪い答えだ。弁明しようと口を開こうとした——けれど。
「……ほんと?」
そんな僕を遮って、彼女は小さく、震えた声で尋ねた。
腹を括るしかなかった。
「本当。……本当に、可愛いなって思った」
「きたないな、のまちがいじゃなくって?」
「えと……その」
「おむつ……とれてないんだよ? ……いつでもどこでもおもらししちゃう、きたない子なんだよ?」
「……そういうところも、可愛いとか、変かな」
「っ……ぅ……その、せんぱい、ろりこんなの? わたしこんなにちっちゃくて……っ」
「むしろそこが可愛いと思う」
「えっ……おしゃべりもうまくできないし」
「僕とは話せてるじゃないか。ゆっくりな話し方も可愛いし」
「…………その、あさおきれないし……」
「そういう病気だって聞いてる。眠くてぽやぽやしてるのも、可愛い」
「うぅ〜……せ、せんぱいって……へんたい、だったの……?」
「小森さんが好きってのをそう定義づけるとするのなら、そうなのかもね」
半分ヤケだった。けれど、全部本音だった。ずっと思っていた、包み隠すことのない本音そのものだった。
なんだか、すっきりとした。
笑った僕に、小森さんは小さく細い唸り声を出して。
シャッとカーテンを開いた。
まだ穿いていなかったスカート。シャツの裾からちらっと見えるその下着は、さっきよりも黄色く膨らんでいるように見えて。
ひょこっと出てきた彼女の顔は、真っ赤に染まっていた。
「せんぱいの、ばかぁ……」
目をグルグルさせながら彼女は、僕の胸に体を預けた。
「……しばらく、こうさせて」
心臓がどきりと高鳴った。
服越しに触れる小さな温もり。僕はそっとその背中に手を伸ばした。
「どくどく、してる。……あったかい。おちつく」
彼女が、ほうっと息を吐いた。
緊張はする。けど、僕の方もどこか安心しているようだった。
しばらくの沈黙。僕らだけの時間。
彼女は僕の腕の中で、僕を見上げて告げた。
「……なんで、わたしをこんなにほめてくれる……の?」
「嬉しくない?」
「うれしい……けど、なんか、その」
モジモジとする彼女に、僕は少し笑って告げる。
「ずっと、思ってた。言うのがなんか、ちょっと恥ずかしかっただけ」
「うっそぉ……でも、ほんとだ。なんかスッキリした顔してる」
「そうかな」
「ほんとに。……でも、まだ……」
信じられない、のだろうか。
胸の中の妖精は、まだ少し震えていた。
僕はそっと目を細めて、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「……大丈夫。僕は、どんな君でも受け止めるから」
なんてクサいセリフだ。けど、本気だった。
胸元が湿った。彼女が、声を殺して泣いていた。
僕は、その頭をそっと撫でた。
すすり泣く彼女。僕は黙って、彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「っ……ありがと……せんぱい」
「その……どういたしまして」
「……だいすき」
「こっちこそ」
合間合間に言葉をかわしつつ。
騒がしい昼休み。静かな僕らだけの時間が、過ぎていった。
*
この高校の保健室には、妖精がいる。
保健室。ドアを開けると、彼女は幼気な顔を僕に向けてほころばせた。
三時間目が終わるチャイム。それからほとんど時間を置かずに、僕は挨拶した。
「おはよう、小森さん」
鈴の鳴るような細く高い声で、その妖精は小さい手を振った。
「おはよ、せんぱい」
小森さんは、可愛い後輩で。
「せんぱい。……だいすき」
可愛い、僕の妖精だ。
Fin.
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