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徒然掌編集 零 ~あつまれ短編作品のMemento mori~

保健室の妖精

掲載日:2026/08/26

 この高校の保健室には、妖精がいる。


 保健室。ドアを開けると、彼女は幼気な顔を僕に向けてほころばせた。

 三時間目が終わるチャイム。それからほとんど時間を置かずに、僕は挨拶した。

「おはよう、小森(こもり)さん」

 鈴の鳴るような細く高い声で、その妖精は小さい手を振った。

「おはよ、せんぱい」


 小森さんは、可愛い後輩だ。


「いつ来たの?」

「さっき」

「……いま何時かな」

「じゅういちじ」

「そうだね……大遅刻だ」

 彼女は、遅刻魔でいつも眠そうな後輩だ。


「国塚(くにつか)く……せんぱいは、なんでここに?」

「四時間目、体育だから」

「サボっちゃうんだ。ひとのこと言えないねー、せんぱい」

「うぐぅ」

 彼女は、先輩である僕をまるで先輩だと思っていない、生意気な後輩だ。

 でも。


「じゃあ、これからふたりきりだ」

 そうやっていたずらに、うれしそうに笑う姿がひどく可愛らしい。そんな可憐な、保健室の妖精だ。


 無駄にドギマギする心臓。大きくため息。

「……どうしたの? せんぱい」

「なんでもない。なんでもないから……」

 女性免疫がなさすぎるだけだから気にしないでくれ。そんな本音は隠しておくことにする。

「えへへ。せんぱい、なんかかわいい」

 もっと可愛い生き物に言われたくはない。


 授業開始のチャイムが鳴って。

「……ふたりきりだね、せんぱい」

 保健室のベッド。隣に座った僕。小さな彼女は僕を見上げて笑う。

「えと、そういえば谷口先生は?」

「せんせーはね、かいだしだって。ちょうどせんぱいといれちがい」

「そっか」

 保健室の先生もいない、ただ二人きりの空間。僕は持ち込んだラノベの本に目を落として。

 ふと、温もりが腕に触れた。

 ドキッとしつつ視線を落とすと、小森さんは僕に寄りかかって、目を細めていた。

「……眠いの?」

「ううん」

 小さなあくびをしながら僕にもたれかかる彼女。その体重はあまりにも軽くて、温かくて。

「えっと……僕、邪魔かな」

「そんなことないもん。……これでいいの」

 ちょっと幼くて若干舌足らずな高い声。高校生とは思えないような彼女を甘やかしたくなってしまうのは、当然のことだと思う。

 静かになった空間。しばらくは本をめくる音もしていたけれど、程なくして消えた。文章が、頭に入らなかった。

 何処かのクラスの授業。外は体育。野球。音楽室から聞こえる合唱。夏休み前。蝉時雨。——呼吸音。心音。

 環境音だけが、僕らの間に漂っていた。


 ガラッと静寂が破られたのは、たぶん授業開始から二十分くらい経った頃だった。

「ただいまー。小森ちゃん留守番ありがと……あ、国塚もいるのね?」

 養護教諭の谷口(たにぐち)先生だった。低めで女っ気のない声で、先生は僕に大きめのため息をつく。

「またサボり?」

「体調不良」

「うそつけ」

「はいはい、サボりですよー」

「さっさと授業行きなー。さもなくば内申落とすぞ?」

 どうせ既に地の底なので落としようがないぞ、という反論は言いかけて止めた。隣で小森さんが震えていた。

 眉間にシワを寄せつつ深呼吸をする僕を横目に、谷口先生(タニセン)は「あっそーだ。小森ちゃん。いいのがあんの」とあからさまな話題逸らしにかかった。

「そのぉ……じゅぎょう、いかなきゃだめ……?」

「小森ちゃんは大丈夫だよー。国塚はさっさと行け」

「あからさまに対応が違う……」

 文句を垂れる僕を尻目に、性悪女教師(タニセン)はレジ袋をガサガサと漁って、一つの缶をぽいっとこちらに投げ渡す。


「サイダー。小森ちゃんがお留守番してくれたから、そのお礼ね」

「ありがとぉ、せんせー」

「いいのいいの」

 にこやかに受け取った缶を抱える小森さん。彼女は少し考えたあと、何かを思い出したような顔をして、缶を僕に押し付けた。

「思いだしたー」

 言いながら備え付けの冷蔵庫に走った彼女。冷凍室から取り出したのは。

「えへへ。くだものの氷だよ」

 カップに果物味の氷が入ったアイス、要はアイスボックス。それが、ふたつ。

「せんぱいといっしょにたべようとおもって、行きにかってきたんだー」

 戸惑う僕。視線を向けた先の救世主・谷口先生は、そっと視線をそらした。「見てないことに(もくにん)してあげる」ということでいいらしい。

 二人でアイスボックスの蓋を剥がした。ひとりひとつ。そして彼女はサイダー缶のプルタブに爪を立てて。

「……あかない」

 涙目になった彼女から缶を受け取って、開けた。

 かしゅっ、と炭酸のはじける音がして、吹き出しかけた中身がちょっとだけ手についた。

 こぽこぽこぽ。アイスボックスにサイダーを注ぐ。彼女と僕ので、ふたりぶん。少し余ったサイダーは。

「飲む?」

「ん」

 彼女の口に注ぎ込まれた。

「あまいね」

「そっか」

 ほころんだ彼女。深呼吸した僕に、彼女は流し目で告げた。


「これは、ふたりだけのひみつだね」


 谷口先生も聞いてる、なんていうのは無粋だろう。

「かんぱーい」

 彼女の可愛らしい音頭に合わせて、プラスチックのカップを合わせた。カラカラと氷の音がした。

 アイスボックスサイダーは甘かった。甘ったるくて、冷たくて、少し酸っぱくて、後味爽やかで——すぐに、消えていった。

 青春の味がした。


 チャイムが鳴った。

 にわかに騒がしくなる廊下。彼女は小さく震えて、ほうっと息を吐いた。この仕草になんの意味があるのかはわからない。

「お昼ごはん、持ってくるよ」

「ん」

 昼食の弁当はどこで食べても構わないことになっている。

 保健室は、あたかも僕らだけの楽園のようだった。


    *


 ——ばれなかった、かな。

「小森ちゃん。出た?」

 国塚先輩が出ていった保健室。谷口先生の問いかけに、わたしはうつむきながら答えた。

「はい……」


 保健室の妖精、っていうあだ名を聞いた。——また、そう呼ばれてしまった。

「新しいの、持ってる?」

 身体は小学生みたいに小さくて。

「もって、ます」

 舌はうまく回らなくて、考えても出てくる言葉はゆっくりで。

「おむつ、結構濡れちゃってるね」

「……うん」

 切迫性尿失禁(がまんできなくて)、起立性調節障害(あさおきられなくて)、たまに夜尿症(おねしょ)もある。

 だから、対策用品(おむつ)が必要。常に。

 わざとじゃない。でも、がまんできなくて、出てしまう。出ているときの感覚もわかるし、濡れちゃったこともわかる。けど、感じてからすぐに出ちゃう。

 言い訳ばっかりが脳内を駆け巡って、視界がぼやけて。

「ほら、泣かない。親御さんも言ってたでしょ? これは、仕方ないことなんだって」

 諌められて、わたしは緩慢に頷いた。

「わかって、ます。……しょうがないんだって」

 例えるなら、目が悪いからメガネを付けるように、あるいは足が動かないから車椅子を使うように。

 おしっこが我慢できないから、おむつを使う。そうすることで、迷惑を最小限にできるから。

 わかってても、でも。

「……っ」

 声を殺して涙を流すわたしの頭に、先生はそっと手を置いた。


 ほんとは、いやだ。

 みんなとおんなじになりたかった。

 おしゃれな服を着て、年相応の下着もつけて、一緒の輪に入って、おしゃべりして、遊んで、騒いで。

 でも、現実は。

 小さい子供の服で、幼すぎる柄の幼すぎる下着を穿いて、みんなの輪からは弾き出されて、うまくしゃべれなくて、だから遊ぶのも騒ぐのも出来なくて。

 どこにも居場所がなくなって、でも家にいるのも気まずくて。

 必然的に、居場所は保健室だけになってしまった。

「保健室の妖精、なんて……ぐすっ……いや、だったんだけど、なぁ……っ」

 これは、そう、仕方ないことだ。どうしようもない現実だ。変えることの出来ない、現実なんだ。


 しばらく声を殺して泣いたあと、一度深呼吸して、つぶやいた。

「……かえなきゃ」

 せめて、先輩にはばれないようにしなきゃ。

 ——知られちゃったら、きっとまた離れられちゃうから。

 ——先輩には、嫌われたくないから。

 ——好き、だから。


 汚した下着を交換するために、制服のスカートを脱いだ。これ以上汚さないために。

 その、矢先だった。


 がらっとドアの音がした。

「小森さん。いるかな……あっ」

 先輩が、目を見開いていた。

 わたしはひゅっと息をひそめた。


 見られ、ちゃった。


    *


 妖精の着替えを、覗いてしまった。


 これは、そう、事故だ。保健室のドアを開けたら、ちょうど小森さんがスカートを脱いでいた。下着が見えてしまった。

 白地にピンク基調のカラフルな柄が入っていて——ショーツと言うには、厚ぼったくて。

「ごめんっ!」

 急いでドアを締めて、後ろを向いた。

 ……あれは、もしかして——。

 心臓がバクバクと高鳴る。渦巻く思考とともに、一秒、二秒、三秒。

 道行く生徒に見られながら過ごした長い数秒は。

「……はいって、いいよ」

 しかし、想定よりも短く終わった。


 恐る恐るもう一度保健室のドアをあける。ベッドの手前のカーテンが閉まっている。——その向こうに、彼女のか細くて荒い息遣いが聞こえる。

 僕は深呼吸しつつ——さっきはしなかったはずの薄いにおいが鼻をくすぐる——彼女の言葉を待って。

「…………見、た……?」

 やがて小さく尋ねられた。その声は、震えていた。

 怖がってるんだ。……トラウマ、だったのかな。

 どんな言葉でさえも、彼女を傷つけてしまうような気がした。でも、沈黙もまた彼女を傷つける気がして。

 答えに窮する僕に、小森さんはポツリと口にした。

「どう、思った……かな」

 すごく答えにくい質問だった。けれど、ここで濁すのもあんまり良くないと思って。

「その……可愛いと、思いました」

 正直に答えた。

 我ながら気持ちの悪い答えだ。弁明しようと口を開こうとした——けれど。

「……ほんと?」

 そんな僕を遮って、彼女は小さく、震えた声で尋ねた。

 腹を括るしかなかった。


「本当。……本当に、可愛いなって思った」

「きたないな、のまちがいじゃなくって?」

「えと……その」

「おむつ……とれてないんだよ? ……いつでもどこでもおもらししちゃう、きたない子なんだよ?」

「……そういうところも、可愛いとか、変かな」

「っ……ぅ……その、せんぱい、ろりこんなの? わたしこんなにちっちゃくて……っ」

「むしろそこが可愛いと思う」

「えっ……おしゃべりもうまくできないし」

「僕とは話せてるじゃないか。ゆっくりな話し方も可愛いし」

「…………その、あさおきれないし……」

「そういう病気だって聞いてる。眠くてぽやぽやしてるのも、可愛い」

「うぅ〜……せ、せんぱいって……へんたい、だったの……?」

「小森さんが好きってのをそう定義づけるとするのなら、そうなのかもね」


 半分ヤケだった。けれど、全部本音だった。ずっと思っていた、包み隠すことのない本音そのものだった。

 なんだか、すっきりとした。

 笑った僕に、小森さんは小さく細い唸り声を出して。

 シャッとカーテンを開いた。

 まだ穿いていなかったスカート。シャツの裾からちらっと見えるその下着は、さっきよりも黄色く膨らんでいるように見えて。

 ひょこっと出てきた彼女の顔は、真っ赤に染まっていた。

「せんぱいの、ばかぁ……」

 目をグルグルさせながら彼女は、僕の胸に体を預けた。

「……しばらく、こうさせて」

 心臓がどきりと高鳴った。

 服越しに触れる小さな温もり。僕はそっとその背中に手を伸ばした。

「どくどく、してる。……あったかい。おちつく」

 彼女が、ほうっと息を吐いた。

 緊張はする。けど、僕の方もどこか安心しているようだった。

 しばらくの沈黙。僕らだけの時間。

 彼女は僕の腕の中で、僕を見上げて告げた。


「……なんで、わたしをこんなにほめてくれる……の?」

「嬉しくない?」

「うれしい……けど、なんか、その」

 モジモジとする彼女に、僕は少し笑って告げる。

「ずっと、思ってた。言うのがなんか、ちょっと恥ずかしかっただけ」

「うっそぉ……でも、ほんとだ。なんかスッキリした顔してる」

「そうかな」

「ほんとに。……でも、まだ……」

 信じられない、のだろうか。

 胸の中の妖精は、まだ少し震えていた。

 僕はそっと目を細めて、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。


「……大丈夫。僕は、どんな君でも受け止めるから」

 なんてクサいセリフだ。けど、本気だった。


 胸元が湿った。彼女が、声を殺して泣いていた。

 僕は、その頭をそっと撫でた。

 すすり泣く彼女。僕は黙って、彼女の頭をゆっくりと撫でた。


「っ……ありがと……せんぱい」

「その……どういたしまして」


「……だいすき」

「こっちこそ」


 合間合間に言葉をかわしつつ。

 騒がしい昼休み。静かな僕らだけの時間が、過ぎていった。


    *


 この高校の保健室には、妖精がいる。


 保健室。ドアを開けると、彼女は幼気な顔を僕に向けてほころばせた。

 三時間目が終わるチャイム。それからほとんど時間を置かずに、僕は挨拶した。

「おはよう、小森さん」

 鈴の鳴るような細く高い声で、その妖精は小さい手を振った。

「おはよ、せんぱい」


 小森さんは、可愛い後輩で。

「せんぱい。……だいすき」

 可愛い、僕の妖精だ。


Fin.


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