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クロ

作者: 千脇隆夫
掲載日:2026/03/27

駅まで買い物に出かけた帰り道、黒い子犬を連れた少年とすれ違った。子犬は少年の前をとことこ歩き、道端に生えている草や電信柱に鼻を寄せ、くんくん匂いを嗅いでいる。少年の持つリードが長いため子犬は自由に動きまわり、私とすれ違っても気にするそぶりもみせない。子犬は止まったかと思うと小走りで走り、また止まっては、道端の草や電信柱の匂いを嗅いでいる。

六十代半ばを過ぎた頃から日常の何気ない光景を見た時、忘れていたはずの昔の出来事を思い出すことが多くなった。

何故だろう。長年の仕事の重圧から解放され精神的な余裕ができたからか。それとも人間の脳自体が、ある年齢を契機に過去の記憶が甦るよう設計されているのだろうか。私は実家で飼っていたクロのことを思いだした。

私が中学生だった初冬のある日、柿の実を採ろうと外に出ると、庭の隅で子犬が鳴いていた。子犬は黒く長い毛で覆われ、垂れ下がった耳とくりくりした目を持つ、メス犬だった。子犬はよたよた歩き、くんくん鳴きながら、ミカンの木の下から出たと思うとまた戻り、今度はまた違う方向に出たと思うと立ち止まり、どこに行こうか迷っているようだった。父親は庭の棚に並んだ松の盆栽に水をやっていた。

お父さん、犬が庭に入ってきたよ。私はそう言ってみかんの木の下にかがみ込みクンクン鳴いている子犬を掴み、おっかなびっくり抱き上げた。子犬は突然抱き上げられて驚いたのか手の上で暴れ、すべり落ちた。落ちた場所が敷石の上だったため子犬は足を打ちつけて、キャンキャンキャンと大きな声で鳴いた。私はびっくりして、反射的にまた子犬を抱き上げた。今度は暴れず、怖いのか身を固くしてじっとしている。私が足に触れるとキャンキャンキャンとまた鳴いた。犬の鳴き声を聞いた父親が傍にやってきた。大丈夫かな?私が父親に聞くと、父親はそれには答えず、たくさん可愛がってやらないとなと言った。その一言により、子犬を家で飼うことになった。名前は誰が付けるともなく、クロに決まった。

父親は、物置から何枚かの古い板を取り出し、金槌と釘を使いあっと言う間に犬小屋を作った。門の近くに犬小屋を置き、古い毛布を犬小屋の中に敷いた。首輪と鎖のリードを買ってきてクロを犬小屋につないだ。クロは犬小屋を覗き込むと、ゆっくりと中に入り、まるで以前から住んでいたかのように静かに座った。

クロは臆病な犬だった。父親が帰宅し門を開け入ってくると、突然の人影に驚きキャンキャンと鳴きながら後ずさりし、時折失禁した。ところが入ってきたのが父親だと分かると、今度は父親の足に纏わりつき、クンクンと鳴いた。

私はクロのえさを毎晩犬小屋まで運んだ。夕飯が終わると母親が残ったおかずと白米を鍋に入れ、味噌汁をかけてクロのえさを作った。私がえさの入った鍋を持ち犬小屋に向かうとクロは気配を察し、犬小屋から飛び出しジャンプをしながらワンワンと吠えた。外はもう暗く、部屋から洩れる光で、かろうじてクロの姿を確認できた。私が鍋を傾け、犬小屋の前の皿にどさっとえさを入れると、クロはがつがつと食べ始めた。私はクロがえさを食べ終わるまでじっと見ていた。元気に食べるクロの姿を見ていると何故かうれしくなったのだ。

 クロは半年もたつとだいぶ大きくなった。犬小屋を覗くと、クロは前足に頭を乗せ、静かに眠っていた。耳が垂れ大きな目を持ち、愛嬌のある顔をしている。だが血統書付きの犬が醸し出す風格のようなものはなく、どことなく安っぽい雰囲気が漂っていた。だが私にとって、そんなことはまったく気にならずただただクロが可愛かった。

中学校から帰ると、クロを散歩に連れて行った。クロは歩く時も走る時も右前足を少し引きずった。子犬の時に私がクロを落とし、傷つけてしまったからだ。臆病な性格は大きくなっても変わらなかった。散歩の途中に大型犬と出くわし大声で吠えられると、クロはシッポを巻き込み、びくびくしながら隠れるように私の横を進んだ。何故あんなに臆病だったのだろう。気の弱い性格だったのか、それとも心無い人間や敵愾心の強い犬や猫にいじめられたのだろうか。

クロはそれほど頭が良い犬ではなかった。お手はやれたが、いくら教えても、おあずけはできなかった。クロの取柄は、とにかく元気なことだった。生命力に溢れていた。えさをがつがつ食べ、水をじゃぶじゃぶのみハアハア息があがりながらも一生懸命走った。

ある日、私は母親からの依頼で知り合いの家に届け物をすることになった。クロの散歩にはちょうど良い距離だった。私は歩くのが面倒で自転車で行くことにした。クロのリードを首輪からはずし、自転車のペダルをゆっくり踏んで進みだす。クロはだまってついてきた。後ろを振り返ると右前足を少し引きずり早足で追ってくる。広い道路を横切るため自転車を止めるとクロも止まる。道路を横切ると、クロも道路を横切る。やがて知り合いの家に着いた。玄関の呼び鈴を鳴らすと愛想の良い中年の女性が出てきた。預かり物を渡すと、その女性は大業にお礼を言った。挨拶をして、振り返るとクロがいない。

クロ、クロと名前を呼ぶと、脇道から何事もなかったかのようにのっそりと現れた。どこに隠れていたのだろうか。

ゆっくりと自転車を発進させる。クロはとことこと、後をついてくる。速度を上げるとクロも速度を上げるが、徐々に自転車との距離が拡がって行く。スピードを少し落とすとすぐにクロが追いついてくる。行きと同じ道路を横切り、家に戻るとハアハアハアとクロの息が荒い。水用の皿に、水を流し込むと、クロはじゃぶじゃぶ水を飲む。私は汗をかいた顔をぬぐい、空を見上げた。初夏の青い空が広がり太陽がまぶしかった。

 夏休みになると、毎日のようにクロと遊んだ。クロを庭に放すと、大喜びで駈けずり回る。軟式野球のボールを放り投げると、クロはボールを咥えて私の所に戻ってくる。手を出しボールを取ろうとすると、さっと向きを変え私の所から遠ざかる。こら、よこせ!と言うと、すぐに、向きを変え私の傍に寄ってくる。私はクロの首を押さえ、ボールを取りだす。ボールは細かい落ち葉とクロの唾液でべたべたしていた。

 夏が終わり秋も深まる頃、クロを久しぶりに抱き上げた。ずっしりと重い。また大きくなったのだ。クロを飼い始めて、ほぼ一年。クロをゆっくりと地面におろし、大きくなったねと声をかけると、クロはその言葉がわかったかのようにワンと吠えた。

 冬のある日、クロを連れて散歩をしていると、いつのまにか白い犬が近づいてきて、クロと並んで歩いている。クロは怯えることもなく普段どおりに私と一緒に歩いている。私がコラと言うとその犬はぱっと離れるが、すぐにまたクロのそばに寄ってくる。しばらく散歩を続けていると白い犬は、脇道に入り、いなくなった。

ところが、数日後、白い犬が庭にやってきた。クロの周りをうろうろし、クロに近づいては匂いを嗅いでいる。クロは困ったように逃れようと動き回るので、鎖のリードがジャラジャラ鳴った。その後も、たびたび、白い犬が庭に現れてはクロに近づいた。

そんなことが続いてから一か月後、クロのおなかが大きくなってきた。父親が子供ができたなと言った。私は驚いた。ちょっと前まで子犬だったクロが、もう子供を産むということが信じられなかった。クロを飼い始めてまだ、一年ちょっとしか経っていない。

クロを散歩に連れていくたび、お腹がすこしづつ大きくなった。身体が重いのか歩くと左右に揺れる。幼かったクロの顔が急に精悍に見えてきた。成犬の顔だ。今まで以上にえさをがつがつ食べた。

クロを庭に放すと縁の下に潜り込むようになり、地面の匂いを嗅ぎ、穴を掘っているのか前足をさかんに動かしている。そして、座り心地を確かめるように、何度もそこに座り直していた。

しばらくたったある日、今まで聞いたことがない声でクロが鳴きはじめ、後ろ足で立ったまま前に進もうと暴れている。リードがピンと張ったままだ。私がクロのリードを外すと一目散に縁の下に潜り込んだ。本当にクロから子どもが生まれるのだろうか、私には信じられなかった。クロは夕方になっても縁の下から出てこなかった。餌を縁の下に運んでもクロは食べようとしない。私は縁の下を覗き込んだ。クロは座り込み、子犬がいる様子はなかった。

私は、翌朝起きると、すぐ縁の下を覗きに行った。クロは前足を伸ばし、静かに座っていた。子犬はいない。

その日、中学校から帰ると私は母親に子犬が生まれたか聞いた。母親は生まれていないようだと言う。縁の下をまた覗いてみる。子犬はいなかった。そしてクロもいなかった。クロ、クロと呼ぶと庭の端の方からクロが現われた。クロのお腹は小さくなっていた。

夕方、父親が帰るとクロの話をした。父親は、産んだ子を食べてしまったかもしれないと言った。私は、得体の知れぬ怖さを感じつつクロが哀れに思えた。私は庭にでてクロの首のあたりを抱きかかえお前、子供食べちゃったのと聞いた。クロは何も答えなかった。

 ずっとあとで知ったことだが、産んだ子が未熟児だったり人間が子を触ったりすると、親犬が子を食べてしまうことがあるそうだ。クロの子は、未熟児だったのだろうかか。あるいは私が何度も縁の下を覗いたことがいけなかったのか。実際、子犬がどうなってしまったかは結局のところわからなかった。

 その後、クロは縁の下に入ることもなく元のクロに戻った。白い犬が庭に現れることもなくなった。そしてその年の冬が静かに過ぎ去って行った。

冬の終わりに降った雪が犬小屋の屋根にまだ少し残っていた。雪が解けた屋根には赤茶けて干からびた柿の葉が残っていた。クロは何事もなかったかのように、あいかわらず元気にえさをがつがつ食べている。

私は中学校の友達と遊ぶ時間が多くなり、クロを散歩につれていく回数が減ってきた。学校が休みの日はクロを散歩に連れていったが、休みでない日はリードで繋いだままにしておくのが可哀そうになり、昼間も放し飼いにする日が多くなった。そのうちクロは庭から抜け出し、近所の通りまで足を延ばすようになった。

4月、桜が舞う頃、学校から帰ると家の前で隣のおじさんに声をかけられた。クロが車にひかれたみたいだよ。そう言って大通りの方を指さした。大通りまでは百メートル程ある。私は、学校のカバンを玄関に置き、母親にそのことを伝えると、大急ぎで大通りに向かった。

急ぎ駆けて行くと、横たわっているクロの姿が見えてきた。一見したところ外傷はどこにもなかった。私はかなり動揺していた。そして怖かった。しかし逃げ出す気持ちはまったくなかった。

 数年前、隣の犬が亡くなった。隣のおじさんは亡くなった犬を抱き上げ、犬に向けなにかやさしく声をかけていた。私にはその姿がとてもかっこよく見えたのだ。その記憶があったので自分もそうすべきだと思った。

私は横たわったクロの両前足のつけねに手を差し入れ、自分の顔の近くまで引っ張り上げた。クロはまだ温かかった。そして重たかった、クロ帰るよ。私はそう言い、クロの頭の後ろに右手を当て、左手で背中を支え横向きに抱いて家に帰った。私はクロをテラスに横たえた。母親がサッシを開け、クロの姿を見ると、何も言わずに家の中に戻った。しばらくすると、段ボールを抱えて母親が戻ってきた。クロの棺を探してきたのだ。私はクロを静かに抱き上げ段ボールの中に横たえた。母親は段ボールに蓋をしてビニールの紐でぐるぐる巻きにした。

 段ボールに入れたクロをテラスに置いたまま夜を迎えた。父親はめったにない出張でその日、家に居なかった。私には悲しかった記憶も怖かった記憶もない。気が動転してしまい何も考えられず何も感じなかったのだろうか。夕飯をどんな感じで食べたのか、どんな話をしたのかまったく覚えていない

 朝起きると母親がテラスに出てクロの棺の傍に立っていた。私もテラスに出た。

クロの棺の角の所に穴があき、周りに段ボールの破片が散らばっていた。破れた穴からクロの横顔が見えた。私は、クロが亡くなったことを改めて認識した。母親が言うには夜遅く、外で犬が吠えるので、テラスを覗いてみると、以前よく来た白い犬が段ボールをかじっていたそうだ。母親はサッシを開け犬を追い払ったが、怖くなりよく眠れなかったと言った。私は、そんなことも知らずにぐっすり眠っていたのだ。

学校に行く準備をしていると、電話が鳴った。受話器を母親が取り、何か話をしていたが、最後に、本当に助かります。よろしくお願いしますと言って電話が切れた。電話は、小さな印刷会社の社長からだった。

当時、母親は個人請負で和文タイプの原稿打ちをしていた。その日たまたま仕事の依頼があったようで、その話が終わった後、クロが亡くなり、処分に困っていると話したようだ。すると社長が、ゴミの焼却場を知っているのでクロを車で運びましょうかと言ってくれたそうだ。私はその話を聞き、中学校に向かった。

中学校から帰るとクロを入れていた段ボールがなくなっていた。印刷会社の社長が運んでくれたのだ。クロはいなくなった。もう見ることも触ることもできない。その時、私は悲しかったという記憶がない。ただ、段ボールがなくなっていたという光景だけが記憶に残っている。記憶がないだけで本当はすごく悲しかったのかもしれない。

六十代後半のこの年になって、クロのことを思い出すと、後悔と悲しみとが湧き上がってくる。はじめて実家の庭に現れたクロ、あの時、もっとしっかり、抱いていればよかった。そうすれば、前足を痛めることはなかったのだ。クロのリードを外すべきではなかった。クロは自由になり、うれしかったかもしれない。しかしそれはクロのためではなく、散歩が億劫になった私の怠慢のせいなのだ。

毎日リードを付けて散歩に連れていけば、クロは車にひかれなかった。自分のせいで、クロは一年半という短い一生で終わってしまった。

私が犬小屋のそばに行くとクロはいつもジャンプして喜んでくれた。えさをやるとガツガツとおいしそうに食べた。

クロは幸せだったのだろうか。どんな願いがあったのだろう。

 クロはどこで車にひかれたのか。きっと大通りだったに違いない。どうしてクロは大通りに出てしまったのか。

クロは車にはねられた後、きっと家に帰ろうと思ったのだ。細い道を家に向かって一生懸命歩いていったに違いない。けれども途中で力つき斃れてしまった。私は斃れたクロを抱き上げ、家に連れて帰ってやった。少なくともクロの最後の望みは、叶えてやったと思う。

 クロは焼却場で、ゴミと一緒に燃えてしまった。一部は灰になり、一部は煙になって空に舞い上がったのだろう。煙は細かな粒子となり風に運ばれ、あちらこちらに漂って行ったことだろう。もしかしたら、長い時間をかけ粒子の一部が私の家まで漂ってきたかもしれない。そしてほんの少しは庭に積もったかもしれない。そう思ったら、少し気が楽になった。窓を開け空を見上げると、青い空と太陽がまぶしかった。すると庭の方から甲高いクロの鳴き声が聞こえた気がした。

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