第十一話
八月の茹だるような陽光が、青い水面に反射して視界を白く染める。
塩素の匂いと、弾けるような歓声。
俺と澪は、陽菜に誘われて、屋外プールのあるレジャー施設に遊びに来ていた。
「陽菜! 恥ずかしがってないで、良い加減出てきなさい」
「でも…」
「でも、じゃない!」
澪に引っ張られて更衣室から出てくる陽菜。
「どう?お兄ちゃん、似合ってるかな?」
恥じらいながら、少し上目遣いの陽菜。
今日の陽菜は、白のフリルビキニ。
誕生日の時の反省を活かしたのか、露出度は控えめ……なはずなのだが、身体のラインがはっきり分かるデザインなのが、
「あぁ、すごく似合ってるぞ」
「ほんと?やったぁ!」
満面の笑顔を浮かべる陽菜。
尊い…あまりにも尊い。
「お兄ちゃん!早く行こう?」
ぐい、と腕を引かれる。その拍子に、柔らかい感触が二の腕に当たった。
……陽菜。お前、自分がどれだけ無防備か分かってるのか。
俺は必死に視線を泳がせ、背後から近づいてきた澪に助けを求めた。
「……蒼真さん、鼻の下、伸びてますよ?」
ラッシュガードのジッパーを喉元まで閉めた澪が、ジト目で俺を射抜く。
「……暑さで膨張しているだけだ。それより澪、お前はその……泳がないのか?」
「私は日焼けしたくないので。……でも、陽菜にあんな顔をさせるなんて、やっぱり蒼真さんは『劇薬』ですね」
澪は俺の隣に座ると、長い脚を水に浸しながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「さっき、陽菜が更衣室でなんて言ってたか教えましょうか? 『お兄ちゃん、私のこと女の子として見てくれるかな』って、鏡の前で一時間も悩んでたんですよ」
「……っ、よせ。俺はあの子の兄代わりだ」
「あら、耳まで赤いですよ、お兄ちゃん?」
澪が身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。彼女の濡れた髪から滴る水滴が、俺の膝に落ちた。
その瞬間、風に乗って彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
【クク……蒼真。貴様の心拍数が先程から限界値に近いぞ。魔族の我が当てられるほどの情動……。この雌ども、境界獣よりよほど質が悪いな】
(黙ってろヴァル。……俺は今、必死に『善良な隣人』を演じているんだ)
流れるプールでは、さらに過酷な試練が待っていた。
巨大なシャチの浮き輪に乗った陽菜が、バランスを崩して俺の上に倒れ込んできたのだ。
「わわっ!? お、お兄ちゃん、ごめん……っ!」
密着する、温かくて柔らかい体温。
水飛沫に濡れた陽菜の肌が、太陽の光を浴びて宝石のように輝いている。
至近距離で見つめ合う瞳に、俺は心臓が止まるかと思った。
「……っ、大丈夫か。怪我はないな?」
「うん……。でも、お兄ちゃん、心臓……すごくドキドキしてる」
陽菜の細い指が、俺の胸元に触れる。
「そ、れは……流れるプールの水圧のせいだ」
「ふふっ、お兄ちゃんって時々変なこと言うよね」
陽菜が花が咲くような笑顔で笑う。
その横で、澪が「水圧のせい、ねぇ」と、くすくすと肩を揺らしていた。
焼きそばを食べて、かき氷を回し食べして。
陽菜が「お兄ちゃんのイチゴ味、一口ちょうだい?」と、当然のように間接キスを仕掛けてくるたびに、俺の寿命は数年分ずつ削られていった。
「……あーあ。ずっと、こんな日が続けばいいのにな」
ふと、陽菜が青い空を見上げて呟いた。
その横顔は、一瞬だけ大人びていて、けれどどこか儚げだった。
「……続くさ。俺が、続けさせてやる」
俺の言葉に、陽菜が驚いたようにこちらを見て、それから今日一番の、とろけるような笑顔を見せた。
「うん! お兄ちゃんが言うなら、絶対だね!」
――バリリッ!!
晴天の空に不快な音が響き渡った。
プールの真上、黒い雷鳴と共に現れたのは、半透明の巨大な身体を持つ、多頭の海蛇型境界獣『ヒュドラ・ヴォルテクス』。
「きゃあああああッ!!」
さっきまでの楽園が、一瞬で阿鼻叫喚の地獄へと変貌する。
「陽菜、澪! こっちだ、逃げるぞ!」
俺はあえて一般人のフリをして二人を誘導する。
だが、俺の手を振り払う二人の瞳には、「戦士」の光が宿っていた。
「……お兄ちゃん、ごめん! 忘れ物しちゃった、先に行ってて!」
「私も陽菜を追いかけます! 蒼真さんは早く避難して!」
見え透いた嘘。けれど、その背中は驚くほど逞しい。
二人が死角へと消えた直後、眩い黄金と蒼の光柱が立ち上がった。
『ギシャァァァァッ!!』
ヒュドラが数多の首から、高圧の水刃を放つ。
プールのコンクリートが豆腐のように切り裂かれるが、そこにはもう、二人の魔法少女が舞っていた。
「アステリオン……『アクア・バインド』!」
澪が放った蒼い矢が空中で霧散し、ヒュドラの首を一本ずつ水の鎖で拘束する。
「そこだよ……レグナリア・スラッシュ!」
陽菜が水面をスケートのように滑り、黄金の剣を振り抜く。
一太刀。たった一太刀で、拘束された首が三本同時に光の塵へと還った。
(……速い。もう俺のアシストなんて必要ないくらいに)
俺は物陰から、右手の魔力を解いた。
以前なら支援していた場面だが、今の陽菜は自らの魔力で反動を制御し、完璧な体勢で次の一撃へと移行している。
「澪ちゃん、左の三本お願い!」
「了解。……逃がさないわ。アステリオン・マルチショット!」
澪が放つ無数の氷の矢が、ヒュドラの死角を正確に貫く。
熱波で敵を怯ませ、氷結で動きを止め、黄金の剣がトドメを刺す。
それは、完成されたコンビネーション。
「これで……最後! 『ルクス・ブレイヴァーー』!!」
陽菜が空高く跳躍し、太陽を背に剣を振り下ろす。
黄金の光が巨大な一振りの刃となり、ヒュドラの本体ごとプールの水を蒸発させるほどの威力で叩きつけられた。
――ドォォォォォン!!
爆ぜる光と水飛沫。
数分前まで猛威を振るっていた境界獣は、欠片も残さず浄化されていた。
「やったぁ! 澪ちゃん、今の完璧だったね!」
「ええ。陽菜、腕を上げたわね」
変身を解いた二人が、水濡れの肌を輝かせながらハイタッチする。
その光景は、あまりに眩しく、そして――。
「……ヒヒッ。いいねぇ、実にいい。たまらねぇじゃねぇか」
プールの外壁の上、逆光の中に佇む歪な巨漢。
グラディウス=ラグナが、狂気に満ちた笑みを浮かべて喉を鳴らしていた。
倒された境界獣のことなど微塵も見ていない。その瞳が射抜いているのは、肩で息をしながら笑い合う陽菜と澪。
「あのガキ共……ありゃあ『本物』だ。あんなに澄んだ目をして、あんなに容赦なく叩き斬る。……壊し甲斐がありそうだぜ」




