無知の知
男が逮捕されたのは、無知だったからである。
正確には、「無知を自覚していた罪」だった。
知識省の役人は言った。
「君は試験で全問空白だったそうだね」
「はい」
「しかも解答欄にこう書いた。“私は何も知らないということだけを知っている”」
「はい」
役人は顔をしかめた。
「それは困る。何も知らないだけなら問題はない。だが“知らないと知っている”のは規則違反だ」
「なぜです?」
「国民は、自分が無知であることを知らない状態でなければならない。でないと向上心が芽生える」
「向上心は悪いことですか」
「余計な疑問を持つからだ」
男は感心した。なるほど、自分はまだまだ知らないことだらけだ。
彼は取調室に連れて行かれ、巨大な機械の前に座らされた。
「これは知識測定装置だ。君の頭の中の知識量を測る」
装置が唸り、光り、沈黙した。
「故障か?」
技師が首を振る。
「いいえ。数値が出ています」
「いくつだ」
「ゼロです」
「ばかな」
役人は男をにらんだ。
「何か知っているはずだ」
「いいえ」
「自分の名前は?」
「知りません」
「さっき名乗っただろう」
「そうでしたか。では忘れました」
役人たちは相談した。こんな完全な無知は前例がない。普通の人間は、少なくとも「自分は何かを知っている気がする」という知識を持っている。だがこの男は、それすら持たず、しかもそれを理解している。
「危険だな」
「非常に危険です」
「思想感染の恐れがある」
だが処分方法が決まらない。法律には「無知」は罪とあるが、「完全無知」は想定されていなかったのだ。
そこで学術委員会が招集された。白衣の学者たちが男を取り囲む。
「君は本当に何も知らないのか」
「はい」
「“はい”の意味は?」
「知りません」
「言葉を話しているぞ」
「そうらしいですね」
学者たちは興奮した。
「これは純粋だ」
「理想的だ」
「理論上しか存在しないと思われた“絶対的無知状態”だ」
彼らは政府に報告した。
──この男は危険ではない。むしろ貴重な資源である。研究対象として保存すべきだ。
こうして男は釈放され、代わりに研究所へ収容された。待遇は良かった。三食付き、冷暖房完備、観察窓付き。彼は毎日質問された。
「世界とは何か」
「知りません」
「真理とは」
「知りません」
「君は幸福か」
「それも知りません」
学者たちは感動した。
「完璧だ……」
論文が量産され、学会は沸いた。男は“無知学の父”と呼ばれ、肖像が切手になった。
数年後、社会に奇妙な変化が起きた。
学生たちが言い始めたのだ。
「ぼくも知らない」
「私も」
最初は流行語のようなものだった。だがやがて人々は気づいた。自分たちは実はよく分かっていないことだらけだ、と。
会議が止まった。演説が減った。専門家は質問されると黙り込んだ。株価は動かなくなり、天気予報は「不明」と表示された。
知識省は慌てた。
「これはまずい。国民が本当に無知になり始めている」
「原因はあの男だ」
「どうする」
「処分だ」
男は再び呼び出された。
「君は社会に悪影響を与えた」
「そうですか」
「自分が何をしたか分かるか」
「知りません」
役人はうなずいた。
「やはり危険だ」
判決は迅速だった。無知拡散罪。刑は抹消。
装置が起動する直前、役人は最後に尋ねた。
「何か言い残すことはあるか」
男は少し考え、言った。
「自分が何も知らないということだけは、どうやら本当だったようですね」
装置が光った。
記録にはこう残された。
──対象、最期まで無知。
だが立ち会った技師だけは小声でつぶやいた。
「いや……あの人は、最後に一つ知ったんじゃないか」
何を、とは誰も知らない。




