第9話 礼拝堂のステンドグラス
「ここが、『静寂の礼拝堂』か……」
数日後、私はカイ様と数名の護衛騎士と共に、例の礼拝堂の前に立っていた。
馬を降りた瞬間、肌を刺すような淀んだ空気に、思わず身震いする。周囲の木々は黒ずみ、生気がない。かつては美しい花が咲いていたであろう庭は、今は枯れた雑草に覆われている。
建物自体は、石造りのこぢんまりとした、しかし優美なデザインだった。けれど、その壁は瘴気によって黒く変色し、屋根には不気味な蔓植物が絡みついている。
まるで、おとぎ話に出てくる魔女の家のようだ。
「アリシア、無理はするな。気分が悪くなったらすぐに言うんだ」
カイ様が心配そうに私の顔を覗き込む。その声はいつもより低く、緊張の色が滲んでいた。
「大丈夫です、カイ様!むしろ…武者震いがしますわ!」
私の返事にカイ様と騎士たちが絶句したのが分かった。でも、嘘ではないのだ。
この強大な汚れを前にして、私のお掃除魂は最高潮に燃え上がっているのだから。
重々しい扉を騎士数人がかりで押し開ける。
キィィ……という不気味な音と共に、内部の空気が溢れ出してきた。カビと埃と、そして言葉では言い表せない何かが混じり合った、濃密な淀み。
「うっ…!」
護衛の騎士たちが思わず口元を押さえる中、私は目をキラキラさせながら礼拝堂の中へと足を踏み入れた。
中は、想像以上だった。
床には分厚い埃が積もり、歩くだけで足跡がくっきりと残る。壁には蜘蛛の巣が張り巡らされ、長椅子は朽ちかけていた。そして、正面で神聖な光を放っていたはずの祭壇は、今は黒い何かに覆われて、その輝きを失っている。
けれど、私の目は、壁にはめ込まれた大きなステンドグラスに釘付けになった。
「なんて、美しいの……」
厚い汚れの膜の向こう側に、かろうじて見える色とりどりのガラス片。そこには、おそらく建国の女神が描かれているのだろう。
本来ならば、太陽の光を受けて、この礼拝堂を七色の光で満たしていたに違いない。
「……あんなに汚れてしまって、きっと泣いているわ」
私はいてもたってもいられなくなり、持参した脚立を広げると、ステンドグラスの前へと駆け寄った。
「アリシア、危ない!」
カイ様の制止の声が飛ぶが、もう私の耳には届かない。まずは、ガラスの表面にこびりついた、油分を含んだようなガンコな汚れを特製の洗浄液を染み込ませた布で丁寧に拭っていく。
次に柔らかいブラシで細かな装飾の隙間の汚れをかき出し、最後にセーム革で一気に磨き上げた。
その瞬間、奇跡は起きた。
今まで厚い雲に覆われていたかのように薄暗かった空から一筋の光が差し込んできたのだ。その光は、私が磨き上げたステンドグラスを通り抜け、礼拝堂の内部に鮮やかな七色の光の帯を投げかけた。
光は、黒ずんでいた祭壇を照らし、朽ちかけていた長椅子を撫で、そして呆然と立ち尽くすカイ様の足元に美しい光の模様を描き出した。
「ああ……」
誰かが感嘆のため息を漏らす。
瘴気に満ちていたはずの礼拝堂の空気が、光が差し込んだ瞬間から、まるで春の陽だまりのように暖かく清浄なものに変わっていくのが分かった。
「すごい……本当に、光を取り戻してしまった…」
カイ様が、目の前の光景が信じられないといった様子で呟く。
もちろん、そんな奇跡の中心にいる私は、ただただ夢中だった。
(なんてこと!磨き上げたら、こんなにも美しい光を放つなんて!残りの窓も、壁も、床も、全部磨いたら、この場所はどれほど輝くのかしら!)
私は再びお掃除道具を手に取ると、目を輝かせながらカイ様を振り返った。
「カイ様!この礼拝堂、私が世界で一番ピカピカな場所にしてみせますわ!」
私の満面の笑みと、あまりにも場違いな宣言に、カイ様は一瞬、その整った顔をあんぐりとさせた。そして、次の瞬間、こらえきれないといったように、ふっと息を漏らす。
それは、いつものような呆れのため息とは少し違う、どこか愛おしいものを見るような、そんな温かい響きを持っていた。




