第8話 聖女様の噂
あの井戸掃除の一件から数日。
私は、辺境領の領都でちょっとした有名人になっていた。
「あ、聖女様だ…!」
「いつも綺麗にしてくださって、ありがとうございます!」
「聖女様のおかげで、井戸の水が美味しくて!」
街へお使いに出かけると、領民の方々がそんな風に声をかけてくれるようになったのだ。子供たちからは道端に咲いていたのであろう可愛らしい花を贈られ、お年寄りからは「腰の痛みが和らいだ」と手を握って感謝される。
(聖女様…?きっと、すごく綺麗好きな人、っていう意味の愛称なのね!)
私は人々の言葉を、最大級の賛辞と受け取っていた。自分の「お掃除好き」が、こんなにも多くの人に喜んでもらえるなんて。
嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。
「ただいま戻りました」
屋敷に帰ると、カイ様が少し難しい顔をして私を待っていた。
「おかえり。……ずいぶん、民に囲まれていたようだな」
「はい!皆さんが、お掃除を褒めてくださるんです」
「そうか……」
カイ様の声は、なぜだか少しだけ不機嫌に聞こえる。その整った眉がかすかに寄せられていた。
「アリシア。今後は、一人で街へ出るのは控えろ。出かける際は、必ず私の許可を取り、護衛の騎士を最低でも五人は連れていくように」
「まぁ、五人も!?」
そんなに大げさにしなくても、とは思ったけれど、すぐに思い直す。
(そうよね。私が街の埃で汚れてしまったら、カイ様ががっかりなさるかもしれないもの。なんて細やかなお心遣い!)
「承知いたしました、カイ様!汚れないよう、細心の注意を払います!」
「…話が噛み合っているようで、絶妙にずれている気がするが…まぁ、いい」
カイ様は小さくため息をつくと、私の無事を確認して安堵したのか、少しだけ表情を和らげた。
その日の午後、カイ様は私を執務室に呼び出すと、大きな地図を机の上に広げた。
それは、このアイスバーグ領の精密な地図だった。
「君に、頼みたいことがある」
カイ様は真剣な眼差しで、地図の一点を指さした。そこには、美しい湖と、その畔に立つ小さな建物の絵が描かれている。
「これは?」
「『静寂の礼拝堂』だ。かつては、領民たちの心の拠り所だった。だが、十年ほど前から瘴気が濃くなり始め、今では誰も近づくことができない忌み地となっている」
カイ様の声に、わずかな痛みの色が混じる。
領主として、民の祈りの場が穢れていることを、ずっと心苦しく思っていたのだろう。
「君の力なら、あるいは、あの場所の光を取り戻せるかもしれない。……もちろん、危険な任務だ。無理強いはしない」
断ってもいい、とカイ様は言う。
でも、私の答えは決まっていた。
瘴気に穢された古い礼拝堂。
そこにはきっと、長年磨かれていないステンドグラスや埃をかぶった美しいシャンデリア、そしてくすんでしまった神聖な祭壇があるに違いない。
(歴史的建造物の、特別清掃ミッション…!)
私の胸は、かつてないほどの期待とお掃除魂で高鳴っていた。
「カイ様!」
私は顔を上げ、最高の笑顔で言った。
「ぜひ、私にお任せください!その礼拝堂、心を込めて、ピッカピカに磨き上げてみせますわ!」
私の返事を聞いたカイ様は、一瞬、その蒼い瞳を驚いたように見開き、そして、ふっと本当に微かだけれど、優しい笑みを浮かべた。
その滅多に見せない表情に、私の心臓がなぜかドキッと音を立てたけれど、それもすぐに礼拝堂のお掃除計画に上書きされてしまった。
さぁ、次の現場は神聖な礼拝堂。
どんなガンコな汚れが待っているのかしら。




