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お掃除侍女ですが、婚約破棄されたので辺境で「浄化」スキルを極めたら、氷の騎士様が「綺麗すぎて目が離せない」と溺愛してきます  作者: 咲月ねむと


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第5話 辺境伯様の吐息

 カイ様の執務室は、意外なほどに整然としていた。

 分厚い書物が背表紙を揃えて本棚に並び、机の上には書類の山が整理されている。床にはチリひとつ落ちておらず、一見すると完璧に清掃されているように見えた。


 カイ様の潔癖さを考えれば当然かもしれない。


 けれど、部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、私は肌で感じた。空気が、重い。目には見えないけれど、何かが澱んで、よどんでいる。

 これが、バルトロさんが言っていた「瘴気」の気配なのだろうか。カイ様は、毎日こんな息の詰まるような空間で仕事をされていたのかと思うと、胸がキュッと痛んだ。


「お任せください、カイ様。この淀み、私が全てピカピカにしてみせます!」


 宣言と共に、私は贈られたばかりの最高級お掃除道具セットを床に広げた。

 まるで熟練の職人が道具を選ぶように、私はその中から今日の戦いに最もふさわしい相棒たちを選び抜く。


 まずは、天井や壁から。ヤギの毛で作られたという、驚くほど柔らかいハタキを手に取り、優しく撫でるように滑らせていく。

 目に見えない瘴気の粒子が、私の「浄化」スキルによって光となり、静かに消えていく。


 次は膨大な量の本が収められた本棚。

 本を一度全て取り出し、一冊一冊、丁寧に乾拭きする。本の隙間に溜まった古い空気を追い出し、新しい澄んだ空気と入れ替えるイメージで。


 そして、一番の大物、カイ様が使っているであろう重厚な執務机。

 最高級の蜜蝋ワックスを染み込ませた布で、木目に沿ってゆっくりと磨き上げていく。すると、くすんでいた机の表面は、まるで命を吹き込まれたかのように、しっとりとした深い艶を取り戻した。


 仕上げは床の拭き掃除。

 ハーブを数種類ブレンドした特製の洗浄水を使い、部屋の奥から入口へと、一定の方向へ向かって拭き上げていく。


 全ての作業を終えた頃には、額にうっすらと汗がにじんでいた。けれど、その疲労感は心地よく、達成感に満ちていた。


「…終わりました」


 部屋の入口で全ての作業を見守っていたカイ様に向かって、私は晴れやかに報告した。


 カイ様は何も言わず、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。そして、深く息を吸い込んだ。


「……あたたかい」


 ぽつりと、吐息のような声が漏れた。


「空気が、だ。こんなにも穏やかで、温かいものだったとは……知らなかった」


 そう言うカイ様の横顔は、いつも私が見ていた氷の仮面が少しだけ溶けたような、穏やかな表情をしていた。彼はゆっくりと自分の執務机に歩み寄ると、指先でそっとその表面を撫でた。


「美しい……。まるで夜の湖のようだ」


 うっとりと呟くその声は、私の想像以上に甘く、耳に心地よく響く。


(そんなに喜んでいただけたなんて…!)


 お掃除のプロとして、これ以上の賛辞はない。私の心は、達成感と嬉しさでいっぱいになった。


「君は、すごいな」


 不意にカイ様が振り返って私を見つめた。

 その凍てついていたはずの蒼い瞳に、今まで見たことのない熱が宿っている。それは、まるで、長い冬の後に見つけた陽だまりを愛おしむような、そんな眼差しだった。


「君の手は、まるで魔法だ。この屋敷の、いや、この領地の全てを救う力があるのかもしれない」

「ま、魔法だなんて、そんな…!私はただ、お掃除をしただけで…」


 大袈裟な、と私が謙遜すると、カイ様は静かに首を振った。


「君には分からぬだろう。だが、私には分かる。この部屋から、私を長年苛んできた『呪い』の気配が消え失せていることが」


 真剣な顔でそう言われても、私にはピンとこない。だって私は本当に普通にお掃除をしただけなのだから。

 けれど、カイ様がこれほどまでに喜んでくださったのなら、それでいい。私の「好き」が誰かの役に立てるのなら、こんなに嬉しいことはない。


「これからも、この屋敷のどこでも、お好きなだけお掃除してくださいね!」


 と私が言うと、カイ様は一瞬虚を突かれたような顔をした後、静かに、そして深く頷いた。


 その日から私の本格的な辺境お掃除ライフが幕を開けた。

 図書室、食堂、客室、そして騎士たちの訓練所に至るまで。私がピカピカに磨き上げるたびに、屋敷の人々の表情は明るくなり、カイ様の氷の仮面は少しずつ、本当に少しずつだけれど、溶けていくのだった。

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