エレジー先生と帰ってきた黄色いオバケ
ナノは道端で黄色いオバケを見つけた。五年前に自分が買ったものだと思い出して、拾ってポケットに入れた。
「どこ行ってたんですか」
オバケは答えなかった。ナノのポケットの中でころころ転がり、レモン飴を生み出している。
このオバケは元々、エレジーにプレゼントするために買ったのだ。エレジーは医者なので、助手がいると助かるだろうと思ったのだが、そうでもなかったらしい。
「お家に帰りますか。私、オバケの生姜焼き作れます」
オバケはびくんと飛び上がり、口を結び損ねた風船のように空へ舞い上がった。短い手をぱたぱたさせて、逃げようとしているようだ。
「間違えました。オバケの春雨丼です。お家に帰りましょう」
ナノは長い髪を宙へ伸ばし、オバケを捕まえようとした。青いスカートの裾が枝分かれしてタンポポになり、綿毛を飛ばしてオバケの行く手に回り込んだ。
「ナノ、何してるの。あっオバケ」
エレジーがやってきて、ルビーのような瞳をオバケに向けた。その途端、吸い寄せられるようにオバケは急降下してきて、エレジーの肩にとまった。エレジーの白衣がサワーイエローに染まってしまった。
「昔プレゼントした子です。色が気に入らなかったら藍染めにします」
「変わったね、ナノ。昔なら血染めにしてたでしょ」
エレジーはオバケを指でそっと撫でた。オバケがレモン飴をぽっと吐き出したので、もう片方の手で自分の口に入れた。白衣の下の道化師衣装がチカチカと点滅し、黄色いオバケ模様になった。
「エレジーさん、レモン味は嫌いじゃなかったですか」
「今好きになった。レモンは塩分不足に効くし、米不足や政治への関心不足にも効くよ。エレジーが言うんだから間違いない」
エレジーは午後の休診時間に柚子まんじゅうを買いに出たところだった。和菓子屋の店先には大きな柚子まんじゅうが三つ並んでいたが、買う前から三つともオバケが食べてしまった。
「ペイペイで……」
「私が払いますよ。さっきの駄菓子屋さんでコインチョコを盗んだので」
「ナノはオバケより悪質だから黙ってて」
柚子まんじゅうを食べて強くなったオバケは、すいすいと飛んでいろいろなものを直した。台風で壊れた屋根の瓦や、建て付けの悪い家の門や、犬が引きちぎったぬいぐるみを次々と新品のように直してしまった。
「エレジーさんがいらなくなりますね」
「エレジーが直すのは人! モノじゃないの!」
「直すの字そっちなんですか。怖」
ところがオバケは、怪我をした女の子の膝にとまり、黄色い光で傷を塞いでしまった。杖を落として転んだおじいさんを起き上がらせ、背中を押してすっすっと歩かせてしまった。
「いよいよ深刻ですね」
「エレジーは精神科医だからセーフだよ」
「そうなんですか。初耳です」
そうこうしているうちに、オバケは直さなくていいものまで直すようになってしまった。信号機にレモン飴を吐き出して全部黄色にしてしまったり、車のタイヤをレモンマシュマロにしてしまったり、ビルの壁をオバケ仕様にしてトイレまでスケスケにしてしまったり、大惨事が起き始めた。
「捕まえましょう」
「そのでかい刺又はしまって。エレジーが鎖鎌で捕まえる」
物騒な奴らがいるね、と眠そうな声がした。振り返ると、クマの耳付きパーカーを着たテディが柚子まんじゅうを食べながら歩いてくるところだった。後ろにはプリズムもいて、ネオンカラーのシャツのポケットに柚子まんじゅうを大量に入れていた。
「それエレジーの?」
「えっ。いや、俺が買ったんじゃないんだよ。テディの頭の上に降ってきて」
「そうだよ。だから僕のなんだけどね、僕の服ってポケットに重いものを入れるとフードが引っ張られるでしょ。せっかくの可愛いクマの耳がこう、ギュッて」
エレジーとナノは聞いていなかった。プリズムが柚子まんじゅうを二つずつくれたので、夢中で食べた。プリズムは麦茶も持っていて、紙コップに注いでくれた。
「そういえば俺、オバケが好きそうなものを見たよ。ピケピケ駅のパクパクショップで」
待って、それ僕が買いたかったのに、とテディが抗議していたが、エレジーとナノはもうピケピケ駅へ走り出していた。
* * *
パクパクショップは子供連れの若いお母さんや、孫連れの若いおばあさんや、赤ちゃん連れの若い犬たちでいっぱいだった。
「私も若いから問題ないですね」
「エレジーのほうが若いよ。五年経っても十年経っても」
プリズムが見たという、黄色い花のポプリの瓶はすぐに見つかった。手のひらに乗るくらいの大きさで、ほんのりと甘い香りがする。
「ミモザですね。オバケとよく似ています」
「うーん。でもちょっと問題があるね。サウジアラビアに向かって唐辛子ジュースを飲んでも解決しない問題が」
黄色い花の瓶は、蝶の模様だった。隣の赤い花の瓶は、なんとオバケの模様だったのだ。
ナノはしばらく、二つの瓶を見比べた。そして素早く両方の蓋を開け、取り替えた。
「模様がついてるのは蓋だけですから。このまま買いましょう」
「そっか。エレジー思いつかなかったよ」
「だめじゃないですか、精神科医なのに」
レジの店員は、ポプリの瓶に一瞬目をとめたような気がしたが、すぐに値札を読んで会計へ進ませてくれた。プリズムやテディがこの場にいたら許してくれなかっただろうと、なんとなくわかっていた。
「さあ、オバケを捕まえに行きましょう」
ピケピケ駅を出ると、大きな道路を渡る人たちに紛れてオバケが漂っていた。ナノとエレジーに気づくと、ぴゅっと汗のようにレモン飴を飛ばした。
青い空に帰っていこうとするオバケに、ナノは呼びかけた。
「オバケさん。まだ直すものはたくさんありますよ。エレジーさんのパッツパツの衣装とか」
「道化師衣装はパッツパツなものなんだってば。ナノの倫理観と同じくらい直らないよ」
二人でポプリの瓶を高く掲げると、オバケは振り向いた。じっと見下ろした後、初めてにっこりと笑い、虹色の軌跡を描きながら降りてきた。
世界の終わりまで消えない虹が駅前の道にできてしまったが、そんなことは関係なかった。ふわりと瓶の蓋にとまったオバケに、おかえりなさい、とナノはささやいた。
夏の空に、レモンの香りとミモザの香りが混じり合い、溶けていった。
おわり