序章-2
「どうしたんだこの猫?迷子ですかね?」
何気なくアスラさんの方を振り向くと、彼は小さな黒猫を凝視したまま固まってしまっていた。驚いたような、どこか畏れを感じているような表情だ。
「ソータ様…そ、そのお方は……」
「もう我慢ならん!!」
彼が言い終わらないうちに、キーンと響く大きな声が聞こえた。
声の主は、驚いたことに狼の咥えている子猫のようだ。
「離せ!この犬畜生!!我を誰と心得えるか!!」
首根っこを掴まれ宙ぶらりんのまま、大暴れしてなんとか逃れようとしている。
「猫って喋りますっけ?」
もう余程のことでは驚かないが、これも異世界の日常なのだろうかと思いアスラさんに問いかけた。彼は眼をキラキラと輝かせている。
「ソータ様、ただの猫はこの地でも滅多に喋りませんよ!しかもこの猫……」
「貴様ら、猫だなんだとやかましい!我は特級悪魔、オーダーであるぞ!!普通に生きている人間が一生目にすることなど出来ない高貴な存在なのだぞ!!!」
再びアスラさんの言葉を遮り、小さな前足を力いっぱいに振り上げ憤慨する黒猫の様子は、まさに駄々をこねる子供のようだ。俺にはとても高貴な存在だとは思えなかったが、感激しているアスラさんの様子を見る限り、この猫の言うことも本当なのかもしれない。
「全く忌々しい……計画通りに進めば我が魔王となるはずだったのに!まさかこんな犬畜生に横取りされるとは!!」
子猫は相変わらず宙吊りになったまま、キンキンと響く声で喚いている。
しかし魔王だとか、この狼が横取りしたとか、一体何の話をしているんだ。予言とやらでは、金色の魔王が現れるという話だったが。
「オーダー…と言ったか?話に全くついていけないんだが。頼む、一から説明してくれ」
俺がそう申し出ると、ギャーギャー文句を言っていた黒猫はピタリと動きを止め、爛々と光る琥珀色の瞳をこちらに向け妖しく微笑んだ。辺りの空気がガラッと変わる。
「この私に、『頼む』など軽々しく言わぬ事だ」
不気味なほど輝くその双眸から何故か目が離せないまま静かに見つめていると、こめかみにズキッと小さな痛みが走った。
痛みはズキズキと少しずつ大きくなる。
俺は先程の出来事を思い出しとっさに脇腹を掴むと、胸がじわりと温かくなり、みるみる痛みが引いていく。
オーダーは驚いたように少し目を見開いたあと、ゆっくりと瞼を閉じ、クスリと笑った。
「面白い。少しからかうだけのつもりだったが、まさか我の支配を打ち破るとは。」
どうもお前には効きが悪いのだ、と言って開かれた瞳は、もう不気味な輝きは失われていた。
「いい加減下ろせ、犬畜生。秩序の悪魔の名にかけて、逃げはしないと誓ってやる。」
狼は返事をするかのように小さく唸ると、静かに地面へ下ろした。
オーダーは前足から丁寧に着地し、興味深そうに様子を見ているアスラさんを一瞥してから俺を見上げた。
「我ら悪魔は、各々の持つ能力を対象へ与えることで願いを叶える。そうすればあらゆるものを操ることが出来るのだ。」
オーダーはおもむろに伏せ、体を強ばらせた。すると、背中が盛り上がり、逆立つ毛の中から小さな羽が生えてきた。そのまま軽快に飛び立ち、俺の顔の目の前でホバリングしながら続ける。
「我は、お前の〈死にたくない〉という願いを聞き届け、我の持つ能力を全て与えることで意識を乗っ取るはずだったのだ」
そこまで言うとゆっくり振り向き、丁度大きなあくびをしている狼の頭の上へ着地した。
「悪魔は単体では非力な上に、対象の願いの大きさに比例して力は増す。だから、死の超越という大きな願いを持っていたお前に我の全てをかける事にした。大きなチャンスだったのだ」
オーダーは苦虫を噛み潰したような表情で続けた。
「この犬畜生のステータスを見るがいい。おい」
狼がオーダーの呼び掛けに応じるようにひとつ吠えると、例によって半透明のスクリーンが現れた。
俺達は恐る恐る覗き込む。
アスラさんのものよりもバグが多く、見出しが文字化けしてしまっていて非常に読みづらい。しかし先程見せてもらった職業欄の位置は覚えていた。
そこにはなんと―――
『魔王』の文字がある。
「「魔王!?」」
思わずアスラさんと顔を見合せて同時に叫んでしまった。バグの影響でばらばらに散らばっている数字も、アスラさんのものとは比にならない大きな数ばかりのようだ。
「これは…ステータスボードの不具合ではないのですか?」
アスラさんが控えめに黒猫へ問うと、これまた渋い顔をしてかぶりを振った。
「残念ながら違う。」
オーダーがステータスボードにちょんと触ると、みるみる文字化けは直り、あちこちに散らばっていた文字や数字が綺麗に整列した。
見事に整ったスクリーンを見て満足気に鼻を鳴らしたあと、画面の右下を指した。
一際大きく崩れていたその欄には、目を凝らしてようやく見えるほどの小さな字で、枠いっぱいに何かが書かれている。見出しには「特殊能力」と書いてあった。
「我が所持していたスキル、耐性、その他諸々だ」
アスラさんがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
「見事なものであろう?我が何百年とかけて獲得した能力だからな。」
そう言うと、オーダーは大きくため息をついた。
「全く。この金髪男に転生の術をかけ、生き返らせるところまでは良かったが……」
オーダーはキッとこちらを睨み、なぜか狼の耳を引っぱたいて声を荒らげた。
「お前!この地へ渡る瞬間、犬畜生のことを強く考えていただろう!!」
急に矛先を向けられて狼狽える俺を無視してオーダーは続ける。
「そのせいでお前の思考とこの犬畜生が繋がり、能力が渡ってしまったのだ!全く訳が分からない!!秩序の悪魔をバカにしているのか!?この忌々しい混沌さえ無ければ我の天下だったのだ!!」
オーダーはキンキン喚きながら狼の耳に往復パンチを浴びせている。もはや俺に怒っているのか、狼に怒っているのか、はたまた世界に怒っているのかも分からなくなるほど腹が立っているようだ。狼は特に痛がる様子もなく、しっぽをブンブン振っている。
俺は、そんな彼らの様子を見ながらオーダーの言葉の意味について考えていた。
あまり覚えていないが、真っ暗な世界で意識が奪われそうになった時、マチコの心配をしていたような気がする。
オーダーの言う『犬畜生』というのは、どの犬畜生を指しているんだろうか。マチコか狼か。どちらも間違いなく犬畜生の名にふさわしいが……
ひとしきり殴り終えて、若干落ち着いた様子のオーダーに声をかけようとすると、先程から出っぱなしになっている狼のステータスボードが目に入った。
俺はそこに信じられない文字を見つけてしまった。
バグを起こしていたその欄はオーダーの力で元の形に戻り、なんともマヌケで見覚えのある言葉に変化していた。
名前―――マチコ。
「マチコ!?」
思わず狼の顔を引っつかみこちらへ向けると、元気よく「ワンッ!」と鳴いた。
そのアホ面ときたら。姿こそ違えど、紛れもなくマチコだと確信出来てしまった。
「本当にマチコなのか……」
「なんだ。お前、あれほど強い気持ちを持っていながら気づかなかったのか?」
オーダーは呆れたようにため息をついた。
「いやマルチーズがこんな立派な狼になるなんて想像できないだろ!」
若干の恥ずかしさを感じながら抗議していると、静かに話を聞いていたアスラさんが口を開いた。
「す、少しいいでしょうか。魔王様は先程『聖なる輝き』を使われました。僕が使えるものとは全く比にならない、強力な光魔法です」
マチコは「魔王様」と呼ばれ、照れくさそうに耳をピクッとさせた。オーダーは訝しげに目を細め、何も言わず彼の話を聞いている。
「オーダー様の力が魔王様へ渡ったとのことですが、たとえ貴方のような偉大な悪魔であろうと、聖なる力は獲得できないはずです。なぜ魔王様は光魔法が使えたのですか?」
アスラさんは至って丁寧な態度で問いかけた。彼は聖職者なのに、魔王やら悪魔やらにへりくだっても良いのだろうかとふと思ったが、オーダーの大きなため息にかき消された。
「全く。どの口が言う」
その言葉にアスラさんがギクッしたように見えた。
オーダーはイライラした表情で何か言いかけたが、面倒になったのかすぐに口を閉じ、前足をペロッと舐めて毛繕いをしながら話し始めた。
「簡単なことだ。金髪男が我の力で蘇ったように、その犬は神の加護を受けて蘇っただけのことよ。」
「かみ……神ですか!?」
アスラさんは信じられないといった様子で続けた。
「確かに白い狼は神の遣いと言われていますが、神から直接加護を受けた上に魔王になるだなんて、一体どういう……」
「ええい、うるさーい!!!」
アスラさんの熱量を大きく上回る声の大きさで、オーダーが叫んだ。耳の奥が余韻でキーンと鳴っている。
「知るか!もうたくさんだ!いちばん混乱しているのはこの我だという事が分からんのか!?あの怠惰な神め、なにが加護だ!その前にこの混沌とした世界を何とかするのが義務であろう!!」
猫はまた癇癪を起こしてマチコの頭を引っかきまくっている。今回は流石に痛かったようでキャンッと鳴いてからオーダーを優しくつついて止めさせようとしている。
アスラさんは混乱した表情でその様子をただ見ていた。
一方の俺は、ゲームや漫画を知っていたから辛うじて付いていけてはいるが、スケールの大きさに圧倒されそうになっていた。
「つ、つまりマチコって……神と悪魔の力を兼ね備えた魔王ってことか?」
自分なりに導き出した答えを確認すると、オーダーはようやく動きを止めて本日何度目かのため息をついた。
「その通りだ。」
「最強じゃないですか……」
アスラさんは呆然とした表情でそう呟いた。オーダーはそれを聞いて悪い笑みを浮かべた。
「ああ、そんな最強の力をこの犬が手に入れた一方で、お前に残ったのは強力な支配の術による苦しみだけだったという事だな。」
「あ、そういえばあれ辛かったんだぞ!」
俺がすかさず抗議すると、オーダーは偉そうな上から目線で言った。
「何を言う。我がいなければお前は死んでいただろう!能力がなくとも命がある事に感謝することだな」
ぺろぺろと前足を舐めながら煽るオーダーへもう一度反論しかけて、気がついた。
せっかく異世界に転生したのに、オーダーの言う通り俺だけ能力が無いじゃないか。
「ま、待ってくれ!本当に俺には何も無いのか?」
「おお、気になるのなら自分で確認してみるが良い。手を出してステータスボードを思い浮かべてみろ」
怒ってばかりだったオーダーは初めて楽しそうな様子で、ウキウキしていた。
言われた通り手を突き出し画面をイメージすると、目の前にジジッという音と共にスクリーンが現れた。マチコの物も酷かったが、俺のステータスボードは更に強くバグが起きていて、ほとんど何も読めない状態だ。
「ああ、これは酷いな。お前はかなり混沌の影響を受けたようだ」
確かに、能力がマチコへ渡ったり、体を乗っ取られかけたりと散々な目にあったからな。
オーダーがパタパタと飛んでボードへ近づき、ちょんと画面に触るとみるみるバグが直っていく。
「素晴らしい……お見事です!」
アスラさんが感激して言うと、オーダーは機嫌よく俺の肩へ着地した。
「我は誇り高き特級悪魔だからな。世界のシステムへ干渉できるのだ」
プログラムを組み直しているようなものだろうかと考えながら、元ある場所へ戻っていく文字を眺める。
なんだかやけにスカスカなようだが気のせいだろうか。
オーダーは俺の肩の上で画面を見ながら、堪えきれない笑いを漏らしていた。
ついに完成した画面。
目につく数字は全て0。
空欄だらけでスクリーンの無駄遣いとさえ思えるほどだった。
「嘘だろ」
思わずそう漏らすと、オーダーは豪快に吹き出した。
「ハハハハハ!!酷いものだ!支配の術を阻止した犬畜生に感謝だな!こんな不良品を掴まされるところであったわ!!」
悪魔ってみんなこうなんだろうか。振り落としたい衝動に駆られながらも、可愛らしいルックスのせいで出来ずにいる俺をアスラさんは哀れみの目で見つめていた。
「ワンッ!」
俺のステータスボードをじっと見つめていたマチコは、何かを見つけたのか右下の部分を鼻で指した。特殊能力の欄だ。
そちらに目をやると、なんと一つだけ記載があった。
『憑依耐性』と書いてある。
「おや、これは驚いた。我の支配の術によって獲得した耐性だろうが、そう一朝一夕では身につかないぞ。」
オーダーは興味深そうに画面を見つめていた。
「あ!見てください!」
そう言ってアスラさんが指さした場所は、レーダーチャートのような図だった。
適正と書かれたその図は、一見真っ白のようだが……『霊属性』の項目へ長い直線が伸びているようにも見える。
どうやら、他の項目が全て0のため多角形を作ることが出来ず見にくくなっていただけのようだ。
「俺にも能力あるじゃん!!」
嬉しさのあまり、マチコに抱きついて首の毛をわしゃわしゃと撫で回す。
オーダーは俺のステータスがゼロではなかったことが残念だったのか、ガックリと肩を落として言った。
「非常に残念だが、お前には霊属性への才能があるようだ。やたらと我の術に抵抗する奴だとは思っておったが……」
マチコは俺の顔をひとしきり舐めたあと、オーダーに頬ずりしようとしたが、するりと抜けられ再びマチコの頭の上へ落ち着いた。
「興が冷めた。お前達のような訳の分からない連中、本来の力があればとっくに全員始末している所だったが、あいにくこの姿ではそうもいかない。」
そう言ってマチコの頭からひらりと飛び降りると、上品に歩き始めた。
「お前達、もう行ってよいぞ。我はまた力を蓄え別の依代を探すとしよう。せいぜい新たな人生を楽しむことだな」
そう言ってどこかへ行こうとするオーダーの首根っこを引っつかんだ。
「なぁにが行ってよいぞ、だ!?」