序章-1
「颯太、颯太!」
ドンドンと扉を叩く音で目が覚めた。
「んー…起きたってば」
重い体を起こし、まだ開ききらない目で枕元の時計を確認する。
―――10時。
「10時!?」
途端に立ち上がり、床に散らばる漫画やゲームの山を避け、ドアの前で仁王立ちしている母へ駆け寄る。
「なんで起こしてくれないんだよ!」
「母さんも今起きたの」
態度は堂々としたものだったが、ダラダラと冷や汗を流していた。よく見ると寝癖もそのままで、非常に分かりづらいが焦っている様子が伺える。
「…仕事は?」
「遅刻だね」
相変わらず飄々としているが目が泳いでいて全く取り繕えていない。
「どうするのさ」
「急いで行ってくる、ご飯は適当に食べて。あとマチコよろしく」
『マチコ』という言葉に反応したのか、すごい勢いで階段を駆け上る音がして、すぐに俺達の間に白い毛玉がスライディングしてきた。
「ワンッ!」
リードをくわえ、待ちきれないとばかりに目を輝かせているこの犬は、我が家で飼っているマルチーズだ。オスであるにも関わらず、ボケた爺ちゃんがマチコと名付けてしまった。
「マチコ〜、悪いけど今日は散歩行けないんだ」
優しく声をかけてリードを取り上げようとするが、こちらの意図を察してか頑なに離さない。
「ウッ…ウウッ…」
先程までの上機嫌から一変、とんでもない形相で睨みつけてくる。
いつもは早起きな母が朝に散歩をさせてくれるので問題無いが、今日はどうも情緒が不安定なようだ。
「母さん?マチコめっちゃ怒ってるんだけど」
「じゃ、行ってくる」
いつの間にか完璧に支度を終えていた母は、リードを取り合う俺達を横目にさっさと出発してしまった。
「母さん!母さーーーん!!」
結局マチコの粘りに勝てず、リードは諦めて適当にコーンフレークを食べ、学校の準備を終えた。
今日は昼休みに文化祭の準備があるため絶対に参加したいところだが…
「マチコさん?」
マチコはリードを前足で器用に押さえつけながら、俺のズボンの裾に噛み付いている。
「ちょっと、伸びる伸びる」
優しく振り払おうとするも、これまた頑なに離れない。脇からリードを奪おうとしても威嚇されてしまい手を出すこともできない。
そもそもマチコは母の言うことしか聞かないのだ。俺は完全に舐められているため、何をしたって意味が無い事は分かりきっている。
かくなる上は―――
「…散歩行くか」
観念してそう言うと、マチコは途端にはしゃぎ出し、ちぎれんばかりにしっぽを振った。
散歩コースなんて知ったこっちゃ無いので、適当な大通りを早歩きで進む。
マチコは上機嫌にすれ違う人達へ愛想を振りまいていた。いつもしれっと嘘をつく母だが、マチコがジジババのアイドルとして有名だと言うのは本当のことらしい。
お昼前に制服で犬の散歩をしている高校生はかなり目立ち、遠回りでも人の少ない道を通ればよかったと少し後悔する。
誰とも目を合わせないようスタスタと歩いていると、マチコが突然道路の先を見つめて静止した。
「マチコ?どうしたんだ?」
俺の呼び掛けに一切の反応を見せず、マチコはゆっくり歩き出した。
その視線の先には、風に吹かれてどこからともなく飛んできたビニール袋。
「まずい」
マチコは好奇心旺盛で、気になるものには後先考えず飛び込んでしまう。つまるところおバカである。
俺は咄嗟にリードを引いた。
すると、ビリッ!という音を立てて紐の部分がちぎれてしまった。
よく見ると、さっきの引っ張り合いのせいかリードはボロボロになってしまっている。
マチコは少しずつスピードを上げ、ついに車道に飛び出した。
「マチコ!!」
間一髪、俺はマチコを捕まえることが出来た。マチコを抱きかかえ、歩道に戻ろうと振り向いた
その瞬間―――
けたたましいクラクションの音と共に、バンッと体に衝撃を受けた。
俺は、真っ暗な世界にいた。
何も見えないし、何も感じない。
「俺、死んだのか」
声に出してみたが、音が伝わらないようで何も聞こえなかった。正しく発音できたのかも分からない。
これが死か。嫌だな。こんなに寂しいなんて知らなかった。
ちゃんと朝起きて、学校に行ったらこんな事にならなかったのかな。母さんに散歩コースをちゃんと聞いておけば良かったのかな。考えれば考えるほど後悔が募っていく。
……死にたくないな。
ネガティブな気持ちが胸の底からブワッと膨らみ、心を支配されそうな感覚だ。
俺は真っ当に、善良に生きてきたのに、こんな終わり方をするのか。全く納得がいかない。
気づけば体をゾワゾワと何かが這っている。痛みは無いが、猛烈な違和感だ。
飲み込まれる。
朦朧とする意識の中、俺はふと思い出した。
―――マチコは、無事だろうか。
目を開けると、気持ちの悪い緑色の空が広がっていた。
ゆっくり体を起こすと、頭を突き刺すような痛みが走る。最悪の気分だ。
しばらく痛みがおさまるのを待ってから、周りを見回した。この辺りは湿地のようで、ジメジメとした空気が肌にまとわりつき不快極まりない。
ここは―――地獄だろうか。
散々他人に振り回されて生きてきた結果、辿り着くのが地獄かよ。
いい加減な母に、おつむの足りない犬畜生に…我の邪魔をする者ばかりだ。
頭痛が酷い。あれこれ考えれば考えるほどジクジクと痛みが増していく。
憎い。憎い。
「殺してやる」
そこまで口に出してからハッと我に返る。
俺は今何を考えていた?何を口走った?
俺は誰だ?
混乱と焦り、そんな感情をも置き去りにして、半ば強制的に湧き上がる怒り。それらがぐるぐると混ざりあい、意識を真っ黒に染めていく。
「邪魔者め…我が…殺してやる……」
頭はガンガンと痛み、まともに呼吸さえできない。
うずくまり頭痛と酸欠をやり過ごそうとしていると、チカッと何かが光った。
「聖なる光!」
眩しい。不快だ。
「あれ、全然効いてない!?」
「ハッ…ハァ……ハァ………」
光で余計にクラクラする頭を抱えていると―――
突然脇腹に何かが噛みついたかのような衝撃が走る。
途端に先程とは比べ物にならない白く眩い光に包まれ、頭の痛みはみるみる引いていった。
「ヒュッ、ゲホッゲホッ」
大きく息を吸い込みすぎてむせる俺の顔をぺろぺろと舐める白い毛玉が…いや毛玉と言うにはデカすぎる…これは―――
狼?
「ヘッヘッヘッ」
アホ面だが、美しい毛並みに立派な体躯、体長は俺の身長ほどありそうだ。
改めて辺りを見回すと、先程まではあんなに不快だった空の色や、鬱蒼と茂る木々はどこか神秘的に感じられた。
狼は座り込む俺の足の間に鎮座し、全体重をかけてリラックスし始めた。
デカい狼に何故か懐かれ、恐怖で動けずにいる俺の元に走ってくる人影があった。
「おーい!大丈夫ですかー!」
修道女のような服を着た男性がかけ足でこちらへ向かってくる。栗色の髪に優しげな目元が特徴的な、雰囲気の柔らかい青年だ。
「あの、この狼は一体…」
怯えた俺の様子を察してか、彼は笑顔で話しかけてくれた。
「ああ、怖がらなくても大丈夫ですよ!その狼があなたを救ったんです。白い狼は神の遣いだって言い伝えがあるくらいですし、人は襲いません」
神の遣い?こんなにアホそうなのに?
狼は相変わらず俺の顔を一心不乱に舐めており、より説得力が弱まる。
「その子、僕に助けを求めてきたんですよ。よっぽどあなたのことが大事なんでしょうね」
僕じゃ役に立てませんでしたけど、と青年は優しく微笑んだ。
こんな狼に大事にされるような覚えは無いが、とりあえず感謝を込めて撫でてみると、満足そうに目を細めクーンと鳴いた。
「それより!あなたに取り憑いていた者はどこですか?」
青年は慌てた様子で周りをキョロキョロと警戒している。
「何の話だか全く分からないのですが…」
「ワンッ!」
狼は体格に見合わぬ可愛らしい鳴き声をあげ、突如近くの沼に顔を突っ込んだ。
そこら中に泥を撒き散らしながら何かと格闘しているようだ。
「一体この狼は何をしているんですか?」
流れ弾を喰らい顔までドロドロのまま青年に尋ねた。
同じくドロドロの青年が答える。
「今あなたを苦しめていた者を捕まえようとしているんですよ。僕の力じゃお兄さんから追い出すことさえ出来なかったのに……不思議な狼ですね」
「なるほど…?」
説明を聞いてもよく分からなかったが、俺のために頑張ってくれているのだろうということは伝わった。
一際大きな泥の塊を顔面で受け、少し冷静になってきた頭で思考を巡らせる。
どうやらここは地獄では無いようだ。
マチコを庇って車に轢かれ死んだはずだが、いつの間にこんな場所へ来てしまったんだろうか。くすんだ緑色の空に、グネグネ曲がった植物、どれも初めて見るものばかりだ。
そして先程の不思議な光。意識が朦朧としていたのであまり覚えていないが、狼に噛みつかれて強い光に包まれた後、なぜか体調が良くなったような気がする。何気なく噛まれた脇腹に手をやると、じわじわとした温かさが体の奥から湧いてくるようだった。
俺を助けてくれたらしい狼の方へ目をやると、まだ獲物と戦っているようだった。ちぎれんばかりにしっぽを振りながら沼を掘り返している様子は、どこか小型犬を彷彿とさせる挙動だ。
小型犬といえば、マチコは無事だっただろうか。
あんな大きなトラックに轢かれては無傷では済まないだろうが……
嫌な想像をしてしまい、身震いをすると髪にへばりついた泥がボトボトと落ちた。
髪…そういえば視界に入る髪の色が変だったような気がする。
こめかみ辺りの毛を掴み泥を振り落とすと、やはり色が変わっていた。
透き通るような金色。
これに気づかなかったとは、かなり冷静さを欠いていたようだ。
しかし…とても日本とは思えない環境、不思議な光、極めつけにこの髪の色。
―――これはもしや、異世界転生というやつではないか?
いつもは現実的な考え方をする方だが、今回ばかりは可能性を疑わずにいられなかった。
字面はかなり恥ずかしいが、オタクの俺にはそのくらいしか心当たりがない。
俺がうんうん唸っていると、青年が遠慮がちに話しかけてきた。
「あの、もしかしてあなたは転生者ですか?」
タイミングよく『転生』という言葉が飛び出し、思わず目をぱちぱちさせた。
やはりこの世界には転生の概念があるらしい。
「はい、多分…そうだと思います。どうして分かったんですか?」
泥まみれで表情が分かりにくいが、ぱあっと嬉しそうな声色で青年は答えてくれた。
「『世界が混沌に包まれる時、異界より神の遣いを携えて、金色の魔王が現れるだろう。』これが我が国に伝わる予言です。まさか未来の魔王様にお会い出来るだなんて!」
青年は俺の手を取り、感激している様子で続けた。
「僕はアスラと申します。あなたは…」
「鈴宮颯太です」
「ソータ様!お会いできて光栄です。」
いきなり畏まった態度を取られ、萎縮してしまう。
なんだか勘違いされているようだが、神の遣いというのはあの狼のことか?金色の魔王…それが本当に俺の話かはさておき、その予言についてもう少し詳しく知る必要がありそうだ。
「えっと…世界が混沌に包まれる時というのは?」
「それはまさに現在のことです!今、世界中で不思議な現象が起きているんです。壁をすり抜けたり、突然金縛りにあったりと、種類は様々ですが」
アスラさんは狼が蹴り飛ばした泥爆弾を華麗に避け、おもむろに手を前へ突き出した。
シュンッと音がしたかと思うと、半透明のスクリーンのようなものが表示される。
「僕の職業欄を見てください」
言われるがままに覗き込むと、そこにはなんと…
『シスター』と表示されていた。
確かに彼はなぜか修道女の服を着ているが、男性であることには間違いないはずだ。
思わず吹き出してしまいそうになったが、大きくため息をつくアスラさんの様子を見て堪えた。
「こ、これは大変ですね」
「そうでしょう!これが混沌以外のなんだと言うのですか…服まで女物にされるなんて…」
項垂れている彼を横目に、俺は別の所に着目していた。
どうやらこのスクリーンではステータスを確認することが出来るようだが、所々欄がズレていたり、デタラメな文字や数字があちこちに散らばっている。まさに現世で言う、文字化けのようだ。
俺は確信した。
―――この世界では、バグが起きている。
「ワンッ!」
考えを巡らせていると、ようやく獲物を捕らえた泥の塊…もとい狼が俺達の方へ嬉しそうに歩いてくる。
俺はこのあと起こることを想像し、手の平を向けて制止した。
「待て、近づくな」
かなり声を低くして威圧したつもりだったが、狼は完全無視してご機嫌な様子で近づいてくる。
俺はイヌ科に舐められる呪いにでもかかっているのだろうか。
泥の塊が朗らかにこちらへ向かってくるのを、俺は為す術なく見ていることしか出来なかった。
そして案の定、俺たちの目の前まで来た狼は勢いよく体をブルブルと震わせた。
バタタタタッ!と水草のような不純物が混じった泥を撒き散らし、満足気にフンフンと鼻を鳴らしている。
もちろん俺達も全身で泥を浴びた。
「お前なぁ…」
顔にべっとりとくっついた泥を落とし、一言叱ってやろうと狼の方を見やると、何か咥えているのに気がついた。小動物ほどの大きさの真っ黒な体で、モゾモゾと動いている。
これは…子猫?