8 懐く公子
サロンには柔らかな日差しが差し込み、暖かな雰囲気が漂っていた。窓の外には、色とりどりの花が咲く庭園が広がり、風が穏やかに草木を揺らしている。
私はソファに腰を下ろし、その膝の上にアベラールを抱き上げた。金色に輝く髪と碧い瞳を持つ彼は、前の奥様に見た目はそっくりだそうだが、今はその愛らしい顔に笑顔を浮かべ、安心しきった様子で絵本を眺めていた。
絵本の読み聞かせなんて、私の得意分野だ。
小さな頃から、妹たちによくせがまれて読んであげていたもの。
セリフと地の文で声の調子を変え、登場人物によって声音まで演じ分けると、アベラールはすぐに目を輝かせ、お話の世界に引き込まれていった。
「じゃあ、次はどうなるのかなぁ? わくわくするわね?」
私がページをめくりながら、次のお話の展開に期待をもたせるような言葉をかける。
アベラールは嬉しそうに目を輝かせ、少し体を前に乗り出して絵本の挿絵を指さした。
「このえ、ぼく、だいすき!」
ページに描かれた色とりどりの動物たちが好きだという、アベラールの素直な喜びが伝わってくる。私はつられて微笑み、優しくその頭を撫でた。
「まぁ、可愛い。私もこの動物たちが好きだわ。ピンクの鳥にブルーのクマさん。こっちはオレンジ色のリスさんね? こんな動物さんたちがいたら素敵よね」
時計を見ると、もうすぐお昼。私とアベラールは食堂で一緒に食事をした。公爵は騎士団本館へ、私が朝食をいただいている間に向かわれたようで、基本的に夜遅くまで帰らないと執事から聞かされた。お屋敷で食事をなさらないことのほうが多いらしい。
それも少し寂しい気はしたけれど、気を遣わない食事というのもいいかもしれないと思い直す。私はアベラールと毎回食事をすればいいのだし……
「ジャネ、ぼく、だれかといっしょにたべたのはじめて!」
「えっ! 初めてなの? ……これからはいつも私が一緒よ」
「ふふっ。うれしいなぁ」
あっという間に、アベラールが私に信頼を寄せてくれたのは、それだけ今までとても寂しかったから、というのもあるのだろう。
誰とも一緒に食事をしたことがないだなんて――子供にとってほんとうに良くない状況だ。けれど、食事のマナーは完璧だった。ということは、きっと誰かが丁寧に教えたのだろうと思っていたら、侍女たちがそっと私に教えてくれた。その話に、私は胸が痛んだ。
食事の作法は、前妻が厳しく躾けたのだという。
少しでもこぼすと手を挙げられたとか……。
幼い子どもが食事をこぼすのなんて当たり前なのに、それをいちいち責め立てていたなんて――信じられなかった。
そんな過去があったのなら、私は何度でもアベラールを抱きしめて、「もう大丈夫よ」と伝えてあげたい。二度と誰も、理不尽な理由で彼を叱ったりしないのだと。
「ジャネ、くすぐったぁーい!」
「うふふ。だって、可愛いんですもの。何度でも、ぎゅーってしたくなっちゃう」
「キャッキャッ!」
なんの屈託もない、子供の笑い声が食堂にあふれた。庭園を眺めるように並んで座った私たちの距離は、まるで本当の親子のように近かった。
公爵に愛されなくとも、アベラールと家族になり、この子の傷ついた心を癒やしていければ、これもひとつの家族の形だわ。やはり、ここに嫁いできた意味はあったのね。
私は優しい味付けのロールキャベツを、アベラールとにっこり顔を見合わせながら食べた。五歳にしてはとても綺麗なマナーで食べていく、キーリー公爵家の公子。
今日から、私の可愛い息子ね。
考えてみたら、母様は出産がとても大変だったとおっしゃっていた。子供がお腹にいるときは、とても暑くて腰も重かったし、生むときは想像を絶する痛さで歯を食いしばりながら耐えたと。それでも、私たちの顔を見たら、その辛さが一瞬で吹き飛んだ、とおっしゃっていた。
だとしたら、私は産みの苦しみを味わうことなく、可愛い子供を得たってこと? これってもしかしたら、最高のご褒美なんじゃないかしら?
思わず嬉しくなって鼻歌を歌いかけて、食事中に不謹慎だと気づき、慌てて止める。
「ジャネ、チェリー、好き? ぼくのあげる。あーんして?」
「あーん。まぁ、美味しい。今まで食べた中で一番美味しいチェリーだわ。私もお返しにさしあげましょう。桃のコンポートよ。はい、あーん」
シナモンと少しの蜂蜜で風味が引き立てられている桃を、フォークで小さく切って、アベラールの口元に持っていった。
「おいしいね!」
「そうね、どれもとっても美味しいわね! それはね、ふたりで食べるから、ということもあるわよ。おやつも一緒に食べましょうね。そうだ、クッキーを作りましょう。食後のお散歩をしたら、次はクッキー作りよ! なんて充実した日かしら」
「じゅうじつって? …… ジャネ、うれしそう」
「『充実』というのはね、楽しいこととか嬉しいことがたくさんあって、心が“おなかいっぱい”になったときの気持ちよ。アベラール様に会えたこと、とても仲良しになれたこと。こうして一緒に食事をしたり、いろいろとできることが嬉しいのよ。ふたりだったら、なにをしても楽しいわよ。たくさん遊びましょうね!」
「わぁ、たのしみ!」
自分から抱きついてきたアベラールの頭を撫でる。可愛くてたまらない。
食後、私たちは庭園を散歩した。日差しがますます強くなったので、私は日傘をさし、彼は帽子をかぶりながら、ゆっくりと庭園の木々や花園の周りを歩く。
ふと、アベラールが虫に目をとめ、じっと観察を始めた。男の子はこういうことが大好きだ。弟もよく飽きずに観察していたっけ。
「なぜこのむしさんには、てあしがたくさんあるの?」
「さぁ、なぜかしらねぇ。きっと、働き者さんだから、私たちよりも多いのかもね。そうだわ、ここはちょうど木陰になっているから、スケッチしましょうか? 私はお花を描くわ」
侍女たちに画材を用意をさせて、アベラールと満面の笑顔でお絵かきごっこ。これが終わったら、クッキー作りを一緒にしようと思ったその時、思いのほか早く公爵様が帰宅された。
まだ夕方にもなっていないのに……夜遅くまで帰らないのではなかったの?
「まぁ、お早いお帰りですね。なにかございましたか?」
「いや、別に……君が気にかけることなどないさ。出迎える必要もないしな。しかし、なぜ、君が俺の息子と一緒にいるんだ? アベラールは離れにいるべきなんだが?」
公爵の瞳はわずかに冷たく光り、怒りとも戸惑いともつかない色を帯びていた。