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22 寂しい右手・アベラールがいない!

 私たちは、少し奥まった場所にある小さな草地へと足を踏み入れた。木々に囲まれたその一角は、やわらかな木陰が広がり、湖面に反射する陽の光が、まるで宝石のようにきらきらと揺れていた。


 メイドたちは手際よく敷物を広げ、籐のピクニックバスケットをそっと木陰に置く。これは保冷機能付きの魔導籠で、内部には氷魔石が仕込んである。おかげで私の作ったサンドイッチやお菓子も、昼まで鮮度が保てるというわけ。これなら、安心して思いっきりボート遊びを楽しめそうだ。


「さて……食事の前に、さっそく楽しみにしていたボートに乗りに行くか?」 

「はい! ボート、のりたい!」

 アベラールは目を輝かせながら、元気よく声をあげた。


 桟橋に着くと、いくつかのボートが繋がれていた。どれも見慣れた、ありふれたボートに見えたのに――公爵が私たちを案内したのは座面に柔らかなクッションが敷かれ、日除けの帆まで備えた、明らかに特別な一隻だった。


「まぁ……こんな準備までしてくださったのですね?」

「俺が誘ったんだから、少しでも快適に過ごせるようにと思ってな。これくらい当然さ。さぁ、湖を一周しよう」


 公爵はアベラールを肩から下ろしてそっと抱き上げ、そのままボートに乗せた。続いて、私に手を差し伸べてくれる。私はその手をとり、ボートに足を踏み入れた。船体がわずかに揺れて思わず身がこわばったけれど、公爵の手がしっかりと私を支えてくれていた。


 湖面は凪いでいて、陽の光を受けた水がゆらゆらと金色に揺れている。公爵が静かにオールを漕ぎ始め、ボートはすべるように進み出した。


 湖の真ん中に近づくにつれ、周囲の空気がひんやりと変わっていく。水の中に、小さな魚の群れが見えた。


「みて! おさかながピカピカしてるよ!」


 アベラールが叫ぶ。見れば、うろこが青白く光を反射する魚たちが、群れをなして泳いでいた。銀と青と淡い紫が入り混じった、幻想的な光の揺らめき。


「あれは、スピリリスといって魔素の多い湖にしか棲めない、珍しい淡水魚だ。光の加減で虹色に輝く」

「うわぁー、きれい!」

 公爵の説明を聞きながら、アベラールは夢中で水面をのぞきこみ、私は慌てて彼が落ちないように支えた。


 湖の端では、薄水色の羽を広げた大きな鳥が、すいっと水面近くを滑るように飛んでいった。

「あれは……ブルーリュミエール。この湖にだけ現れる神聖な鳥だ。翼を広げたときの大きさは、人間の背丈ほどにもなる。晴れた朝だけ姿を見せると言われているんだ」


「ふふっ、公爵様。お詳しいのですね?」


「一応な。……実はふたりにいろいろ聞かれても大丈夫なように、少しだけ調べておいたのさ。妻と息子には楽しんでほしいからな」


 公爵はやっぱり優しい男性だ。仕事だけでもきっと忙しいのに、私とアベラールのために、湖で見られる魚や鳥を調べてくださったなんて。


 ひとしきり湖を一周した頃には、ちょうど昼食にぴったりの時間になっていた。私たちはメイドたちが敷いてくれた敷物の場所へ戻り、そこで腰を下ろす。


 私はバスケットの蓋を開け、包みをひとつずつ丁寧にほどいていく。中から取り出したのは、手作りのサンドイッチ。朝早くにローストしたチキンを薄くそぎ切りにし、みずみずしいレタスとスライストマトを一緒に挟んで、ほんのり甘めのマスタードソースでまとめたもの。パンは朝焼いた、ふわふわの白パンを使った。


「わああ……! ジャネのサンドイッチだ!」

 アベラールが声を弾ませた。


「公爵様の分はこちらですわ。大きめに作っておきました」

「……ありがとう。いただこう」


 公爵が静かに受け取り、一口、かじる。


「……うまい。肉の旨味と、ソースの甘さがよく合ってるな。これ、相当手がかかってるだろう? ありがとう」

「ふふ、気づいていただけて嬉しいですわ。チキンは昨晩からハーブで漬け込んでおいたんですよ。おふたりの喜ぶ顔が見たくて……大成功ですわね?」

「さすがジャネ!」

 アベラールも嬉しそうに口いっぱいにサンドイッチをほおばり、幸せそうな笑顔を浮かべた。

「ねぇ、ジャネ。ぼく、このおにくのとこ、だいすき! ジャネがつくるのって、なんでこんなにおいしいの?」

「それはね、愛情がたっぷり詰まってるからですよ」

 

 私がそう言って笑うと、公爵が私に感謝の言葉を口にした。


「……それは、アベラールへの愛だな? 君は貴重な女性だよ。アベラールを実の子のように可愛がってくれている」


 風がやさしく通り抜け、湖面がさらりと揺れた。


「ふふっ。もちろん、公爵様への家族としての愛も入ってますよ。それにアベラール様は愛らしくて優しく賢くて……可愛がらずにはいられませんわ。誰だってそうだと思いますし、私は当たり前のことをしているだけです」


 公爵の表情が、優しい笑みに変わっていく。気づくと私をじっと見つめている瞳と目が合った。


 熱っぽい眼差しを向けられているのは、気のせいよね。

 ときめくのは禁止よ。

 だって、私は女性としては見られていないのだから……

 

 お腹が落ち着いてきたところで、私はおやつを取り出す。

 スライスしたイチゴをのせた手作りのクッキー、香ばしいナッツを練り込んだ一口サイズのタルト。

 小さな箱に可愛らしく詰めてきたものを広げると、アベラールがぱあっと顔を輝かす。


「たべてもいい!? これ、ぼくのだいすきなやつーー!!」

「もちろんよ。いっぱい作ってきたんですもの」


 アベラールはクッキーをひとつ手に取り、大事そうに噛みしめた。

「んーーー、おいしい! ……ぼく、ジャネのつくるもの、ぜぇーんぶ、すき!」


 その言葉に、公爵もうなずき、ふっと口元をゆるめた。


「同感だ。ジャネットの料理は特別だな」


 食後はしばらく、湖畔をぶらぶらと散策した。穏やかな陽射しの中、三人で過ごす静かなひととき。けれど、時間が経つにつれて風が少しずつ冷たくなり、日暮れの気配が忍び寄ってきた。


 「そろそろ戻ろうか」

 公爵のひと言に、私はうなずいた。すでにメイドたちは気配を察していたようで、手早く荷物の整理を始めている。私たちが歩き出す頃には、すべての支度が整っていた。


 はしゃぎ疲れたアベラールは、公爵の腕の中でぐっすりと眠っていた。

 両手がふさがった公爵の隣を、私は並んで歩く。


 行きに繋いでいた右手が、手持ち無沙汰で、やけに寂しく感じた。


 ***

 

 そんな幸せな時間の翌日も、午前中から午後にかけては、いつもと変わらず、私とアベラールは穏やかに過ごしていた。


 けれど、日が傾き始めた頃だった。ふと気づくと、アベラールの姿が見えない。お気に入りの虫観察をする庭園の隅や、木陰のあたり、裏庭に子供部屋――どこを探しても見つからない。


――いったい、どこに行ったの?


 




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