20 夫婦未満、でも家族
ピクニック当日は快晴だった。キーリー公爵家から歩いてすぐの距離に、大きな湖があるのは知っていたけれど、私もまだ一度も行ったことがなかった。
朝の光がやわらかく差し込む厨房で、エプロンの裾を軽く直しながら、まな板の上にパンを並べる。公爵とアベラールで、近くの湖まで行くだけなのだけれど、ずっと楽しみにしていた。お天気も良いし、なにより、ふたりのために手作りの昼食を作るのが、なんだかとても嬉しい。
サンドイッチの具材には、朝早くから自分で仕込んだローストチキンを使う。香草と塩をすり込んでじっくり焼き上げた鶏肉は、皮がこんがりと香ばしく中はしっとり。薄くそぎ切りにして、ほんの少し甘めのマスタードと一緒にパンに挟めば、食べ応えのあるご馳走になる。
手元は慣れたもの。エッジ男爵家で妹や弟のために何度も作ったから、こういう作業は得意だ。
「奥様、本当にそれをおひとりで料理されたのですか?」
後ろから控えめに声をかけてきたのは、年配のキッチンメイド。
私はにこりと微笑んで返事をした。
「えぇ、もちろんよ。実家ではね、特別なお客様をおもてなしする時しか、料理人はいなかったの。母は料理上手で私たちのために腕をふるうのが好きだったし、私たち子供は率先してお手伝いしたわ。とても楽しかったのよ」
すると、厨房にいたキッチンメイドたちが、一様に私に優しい眼差しを向けてきた。
「奥様のご実家は、経済的に大変だったのですね……」
どうやら、母が自ら料理をしていたという話から、私の実家が金銭的に苦しかったのだと勘違いしたらしい。そんな風にしんみりと語りかけてきたひとりが、思わず目頭を押さえていた。
でも――それは、少し違うのだ。
エッジ男爵家はむしろ比較的裕福な家だった。けれど、家風として『領民に寄り添う暮らし』を大切にしていただけ。飾り立てず、無駄を省き、贅沢を競わない。それが父様と母様の矜持だった。今になって振り返ると、それがどんなに良いことだったか、身に染みてわかる。
キーリー公爵家はこの国でも屈指の大富豪だ。美貌も魔法の才能も兼ね備えたアベラールが、これからどんなふうに育つのか――それはきっと、周囲の影響ひとつで大きく変わるだろう。だからこそ、私は『なんでもお金で解決できる』などという、薄っぺらい価値観の子にはさせたくない。努力や工夫の楽しさ、人とのつながりの温かさを知る子に育ってほしい。
だから、私は頑張るわ。まずは、身近なところから。食育もとても大事だと思う。
母親の手作りサンドイッチ――これは絶対に、アベラールに食べてもらわなくては!
サンドイッチを包み終えたら、次はお菓子にとりかかる。
アベラールの好きな焼き菓子――前に一緒に焼いたイチゴ乗せクッキーと、香ばしいナッツを練り込んだ小さなタルトを用意するつもり。
ふるった小麦粉とアーモンドパウダー、卵黄と砂糖を丁寧に合わせてこねていくその手の動きは、まるで家族の絆を編み上げていくようで、心まであたたかくなる。材料を手際よく量って混ぜ、魔導オーブンに入れて焼き上がるのを待つ。バターの香りが漂い始めると、厨房全体が幸せな匂いに包まれた。
「ふたりとも、きっと喜んでくれるわよね。なにしろ、私の愛がたっくさん、つまっているんですもの」
焼き菓子を焼いている間に、籐のピクニックバスケットにサンドイッチを詰め、手拭きやナプキン、小さめのカトラリーなども入れておく。
焼き菓子が焼き上がるころには、もう支度はほとんど整っていた。わくわくする気持ちを胸に、私はバスケットの蓋をそっと閉じた。
***
湖畔の道ではたくさんの人が散策を楽しんでいた。湖のほとりは爽やかな風が吹いていて、とても気持ちがいい。アベラールも大喜びで、目を輝かせて辺りを見回していた。
「ジャネ、すごいね! みずうみ、ひろーい!」
けれど、ふいに顔色が曇り、悲しげな表情が浮かんだ。視線の先を見ると父親の肩に乗った子供が得意げに笑っている。
「公爵様、あの……アベラール様に、肩車をしていただきたいのですが……」
「……あぁ、任せろ」
公爵がすぐに膝を折り、アベラールをひょいと抱き上げて肩に乗せた。その仕草があまりに自然で美しくて、思わず見惚れてしまう。長身で鍛えられた身体の公爵にとって、五歳のアベラールを肩に乗せることなど容易いことなのだ。
私の旦那様は本当に素敵ね。厳密には夫婦って言えないかもしれないけど……
「わぁぁーーっ! たかーいっ! ぼく、おとーしゃまのうえ! みて、ジャネ! すごいでしょう? おとーしゃま、かっこいいよね?」
「ふふっ、本当に……素敵なお父様だわ」
アベラールがはしゃいでいてとても幸せそう。それだけで私の胸はいっぱいになる。だけどそれ以上に、公爵がそれを見上げてほほえんでいる顔に――思わず胸がキュンとした。公爵のその少年のような笑顔がやけにまぶしい……。
私の隣に並んだ公爵が、ふと手を伸ばす。
「ほら、君も……転ぶと危ないから、手をつなごう。アベラールも俺にしっかりとつかまっているんだぞ」
そう言いながら、私の手を握った。そっと、でもなぜか――恋人繋ぎで。つないだ手が熱を帯びる。これは『安全のため』なのだと、いくら言い聞かせても、鼓動の高鳴りは抑えられなかった。
私は自分に言い聞かせる。これは家族として、私を心配してくださっただけ、だと。
落ち着け、落ち着くのよ……
私は必死に平静さを装う。
ようやく家族になれたこの関係を壊したくなくて……