1 嫁入り
私の生まれたエッジ男爵家は、派手さはなかったが、穏やかで居心地のいい家だった。妹や弟とは仲が良く、家族で囲む食事の時間は、笑顔が絶えない。使用人の数は少なかったが、そのぶん一人ひとりと顔を合わせ、会話のあるあたたかな暮らしだった。 あれが、私の“普通”だったのだと思う。
けれど、私は今日からキーリー公爵夫人になる。
夫となる人の顔は、まだはっきりとは知らない。遠く離れた式典の席で、一度だけ見かけたことがあった。たくさんの勲章で飾られた軍服に身を包み、誰よりも堂々と立っていた――あの姿だけが、私の中に残っている。背が高く、しなやかに鍛えられた体つきは、確かな強さと気高さを感じさせ、きっと近寄りがたい人なのだろう、と思った。
でもまさか、私が嫁ぐことになるなんて、そのときは思ってもみなかった。
キーリー公爵家への移動中、私はそんなことを思いだしながら、外の景色を眺めていた。馬車の窓から差し込む柔らかな陽光が、私のドレスの膝あたりで揺れている。窓の外には、広大な農場の風景が見えた。畑には豊かな作物が実り、農夫たちが忙しそうに働いている。風に揺れる麦の穂や整然と並ぶ野菜畑が、この地の豊かさを物語っていた。その先には牧場が広がり、牛や羊がのんびりと草を食んでいる。
やがて、馬車は賑やかな通りへと差し掛かった。石畳の道沿いには商店が軒を連ね、店先には新鮮な果物や香辛料が並んでいた。通りには多くの人々が行き交い、商人たちの声や買い物客の笑い声が響いている。子供たちのはしゃぐ声や、馬の蹄の音が混ざり合い、街全体が生き生きとしていた。さらに進むと、並木通りにさしかかる。整然と並ぶ石造りの建物が続き、そこは閑静な住宅街でどの家も庭先には花壇があり、綺麗な花々が咲き誇っていた。
キーリー公爵領は、なんて豊かで穏やかなのかしら。
通りすがりに見えた人々の暮らしぶりには、物質的なゆとりだけでなく心の余裕も感じられた。荒れた家はひとつも見当たらず、どの庭先も整然と手入れされ、咲き誇る花々に目を奪われた。あれほど丁寧に手をかけるには、時間と余裕、そして何より日々の生活が安定していなければ難しいはずだ。
つまり、キーリー公爵様はとても有能なお方なのね。
自分が嫁ぐ先の領地で、民たちがこんなにも幸せそうに暮らしているなんて――それだけで、胸がふっとあたたかくなった。
そしてようやく到着。馬車の扉が開いた瞬間、思わず息をのんだ。 私の目の前に広がっていたのは、まるで王宮のような白亜の大邸宅。澄んだ空気に高貴な気配が漂い、思わず緊張してしまう。石畳の上を、馬車の車輪が静かに転がる音がまだ耳に残っているのに、心だけがもう別世界に放り込まれてしまったようだった。
正面に構えられた玄関扉は、私の家の玄関扉が三つ並んでもまだ余るほどの大きさだった。高くそびえる尖塔や、繊細な彫刻が施された正面の壁面、扉に彫り込まれたキーリー公爵家の紋章が、見る者に無言の圧を与える。まるで「ここに住む者は、あなたとは違う世界の人よ」と語っているみたいで、さらに緊張で手が震えた。
ここで、これから私の結婚生活が始まるのね。
私はドキドキしながら馬車を降りようとした。
「ようこそお越しくださいました」
手を差し伸べてくれたのは、上品な初老の男性だった。声は落ち着いていて、所作にも無駄がない。背筋がすっと伸びていて、身にまとう空気がどこか威厳に満ちていた。自分はキーリー公爵家の執事で、この家のことを任されていると言った。
玄関ホールに入ると、ずらりと並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。思わず足が止まる。その人数の多さに圧倒されたのだ。実家のエッジ男爵家では、侍女とメイドがひとりずつしかいなかった。名前も性格も知っている、身内のような距離感だった。
制服もまた、目を引いた。柔らかな光沢のある生地に、控えめながら上質な仕立て。エッジ男爵家の侍女たちが着ていた、丈夫さを重視した実用的な服とは明らかに違う。一糸乱れぬ動きといい、まるで儀式のような静けさと厳しさがこの屋敷の空気を形作っていた。
キーリー公爵家――やはり、私の知る世界とはだいぶ違う。