前編
プロメテウスの監視塔は、戦闘空母の最上部に位置し、無限のの空と荒野を見渡す静かな場所だった。
無機質な鋼の壁に囲まれ、モニターの淡い光だけが室内を照らす。
マティアス・クロイツァーは、愛機、ストラウスのコックピットから離れ、ここで周辺の警戒任務に就いていた。
色褪せた銀髪が揺れ、穏やかな瞳がモニターの点滅を見つめる。
彼の物腰は、戦場の喧騒とは無縁の落ち着きを湛えていた。
「……」
監視塔の窓から見える荒野は、風に砂塵が舞うばかりで、敵影はない。
マティアスはスコープを覗き、遠くの地平線をゆっくりと確認する。
その手つきは、まるで古い時計を扱う職人のように丁寧だった。
戦場での彼は、正確無比な狙撃で敵を屠る死神だが、ここではただ、静かな時間を刻む紳士でしかない。
「異常なし……か」
マティアスの声は低く、誰に言うでもなく呟かれた。
ウィーン……。
通信機のノイズが小さく響く中、背後のハッチが開く音がした。
マティアスは振り返らず、モニターに目を留めたまま、気配だけで来訪者を悟る。
「君か、烈火」
赤い髪の青年、烈火・シュナイダーが、監視塔の狭い空間に踏み込んだ。
煤と汗にまみれたパイロットスーツは、つい先の戦闘の名残を色濃く残している。
烈火は、いつもなら不敵な笑みを浮かべる顔に、今日はどこか重い影が差していた。
「よっす、オッサン。調子はどうよ?」
烈火の声は軽く、だがその奥に微かな震えが混じる。
マティアスはスコープから目を離し、ゆっくりと椅子を回転させて烈火を見やった。
銀髪の紳士の瞳は、まるで湖の底のように静かで、烈火の動揺を見透かすようだった。
「上々だよ。……君こそ、こんな時間に何かね? 休息を取るべきだろう」
「あー……」
烈火は肩をすくめ、壁に寄りかかって腕を組んだ。
視線を床に落とし、しばらく黙った後、口を開く。
「休息? んなもん、頭ん中ぐちゃぐちゃだとできねぇんだよ」
「なるほど」
マティアスは小さく頷き、椅子にもたれかかった。
口の堅さと誠実さで知られる彼のもとには、クルーたちが悩みを打ち明けにやってくることが多い。
無論、烈火のような若者も例外ではない。
「……」
マティアスは烈火の言葉を急かさず、ただ静かに待った。
烈火は唇を噛み、拳を軽く握りしめる。
やがて、抑えた声で話し始めた。
「あのさ……この前の戦い、ノヴァ・ドミニオンの巨大コマンドスーツとの戦い、覚えてるか?」
マティアスは小さく肯定する。
あの戦いは、烈火のブレイズが単機で敵の新型機を撃破した激戦だった。
だが、烈火の顔に浮かぶのは、勝利の誇りではなく、深い葛藤。
「あの時、俺のネクスター能力が暴走したっつうか……敵のパイロットと、一瞬だけ心が繋がったんだ。」
烈火の声が僅かに震えた。
マティアスは眉を動かさず、ただ烈火の言葉に耳を傾ける。
烈火は拳を強く握り、視線を宙に彷徨わせながら続けた。
「相手、年端もいかねえ少女だったんだよ。まだガキだ。なのに、あんな化け物みたいなスーツに乗って、俺と殺し合いしてた。」
烈火の瞳に、怒りと悲しみが交錯する。
壁を軽く叩き、声を荒げた。
「俺はよ、子供が死なねえ世界のために戦ってるつもりだった! 故郷を焼かれ、家族を奪われたから、こんなクソくらえな戦争を終わらせたくて戦ってる! なのに……なのに、俺が殺しかけた相手が、ガキだったんだよ!」
烈火の声は、監視塔の静寂を切り裂いた。
赤い髪が額に張り付き、やり場のない感情が滲む。
烈火はマティアスを見据え、まるで答えを求めるように言葉を重ねた。
「どうすりゃいいんだ、マティアス? 俺は単に破壊すりゃいいと思って戦ってきた。でも、子供を殺すかもしれないなんて……そんなの、俺は……」
マティアスは烈火の言葉を最後まで聞き、静かに息をはいた。
銀髪の紳士はモニターの光に照らされ、まるで古い肖像画のような佇まいで烈火を見やる。
その声は穏やかで、しかし深い響きを持っていた。
「烈火。君の心が揺れているのは、何も悪いことではないのだよ」
烈火は眉を寄せ、マティアスの言葉を咀嚼する。
マティアスは椅子から立ち上がり、監視塔の窓に近づいた。
無限の空と荒野を眺めながら、ゆっくりと話し始めた。
「昔、私にも似たような時があった」
烈火の瞳がマティアスに向けられる。
普段は寡黙なベテランが、自らの過去を語ることは滅多にない。
烈火は壁から身を離し、マティアスの背中に耳を傾けた。
マティアスの声は、まるで遠い記憶を拾い上げるように静かだった。
「それは、私がまだ若く、戦場に初めて立った頃の話だ……」
マティアスの言葉が響くと同時に、監視塔の無機質な空間が薄れ、記憶の彼方へと場面が移った。
色褪せた過去の光景が、マティアスの視点を通じて鮮やかに蘇る。
〜〜〜
当時、私は20代の若輩者だった。
軍人の家系に生まれ、治安維持部隊に所属していた。
サラブレッドと呼ばれ、若くして重要な任務を任される立場にあった。
私の父も祖父も軍人であり、その名に恥じぬよう、常に完璧を求められた。
だが、若さゆえの熱意と、どこかで感じる重圧が、私の心を揺さぶっていた。
その日、私は爆弾テロを企てる一団を相手に戦闘任務に就いた。
情報によれば、連中は武装し、街の中心で無差別に市民を巻き込む計画を立てていた。
私の部隊は、迅速かつ徹底的に彼らを排除するよう命じられていた。
作戦は緻密に練られ、私は最前線で指揮を執った。
戦闘は熾烈だった。
薄暗い倉庫街に、銃声と爆発音が響き合う。
テロリストたちは予想以上に組織的で、自動火器と装甲服で抵抗してきた。
私は冷静に部下に指示を出し、一機の小型コマンドスーツを操縦して敵を圧倒した。
火花が飛び散り、鉄とコンクリートが砕ける音が耳をつんざく。
やがて、敵の抵抗は途絶え、最後のテロリストが倒れた瞬間、静寂が訪れた。
「目標殲滅。爆弾の設置は確認されず。任務完了だ」
『お、おわった……!』
『あ、アタシたち、生きてる!』
私の声が通信機に響くと、部下たちから安堵の応答が返ってきた。
街は守られた。
市民の命は救われた。
私はヘルメットを外し、額の汗を拭った。
胸に湧く達成感は、軍人としての誇りそのものだった。
そこまでは、確かに良かった。
だが、次の日、街を歩いていると、予期せぬ出来事が私を襲った。
賑わう市場の片隅、埃っぽい路地で、みすぼらしい身なりの少女が私の前に立ちはだかった。
彼女の服は継ぎ接ぎだらけで、煤けた顔には涙の跡が残っていた。
少女は小さな拳を握り、震える声で私を指さして叫んだ。
「お前がパパを殺した!」
その言葉は、まるで刃のように私の胸を貫いた。
少女の瞳は憎しみと悲しみに満ち、細い体が怒りで震えていた。
私は一瞬、言葉を失った。
彼女の父親が、昨日の戦闘で私が倒したテロリストの一人だったのだ。
頭では理解していた。
テロリストも人間であり、家族がいる可能性はある。
だが、実際にその現実を突きつけられると、訓練された冷静ささえ揺らいだ。
「私は……」
何か言おうとしたが、言葉は喉で詰まった。
少女はなおも叫び続けた。
「パパは悪い人なんかじゃなかった! ただ、家族を守りたかっただけなのに! お前が! お前が全部壊した!」
市場の人々が遠巻きにこちらを見やり、ざわめきが広がる。
私は軍服を着たまま、ただ立ち尽くしていた。
少女の涙は、私の正義が全てを解決できないことを突きつけてきた。
テロは防がれ、街は守られた。
だが、その陰で、救われない人間がいた。
この少女の人生は、私の手によって永遠に変わってしまったのだ。
私は何も言い返すことができなかった。
少女が力尽きて地面に崩れ落ち、嗚咽する姿を、私はただ見つめることしかできなかった。
答えなど、出るはずがなかった。
記憶の光景は、焼け焦げた市場の残響とともに続いた。
マティアスの視線は、過去の戦場を彷徨い、若き日の彼の葛藤を鮮明に映し出す。
少女の涙を背に、私は任務を続けた。
迷いは心の奥に沈め、軍人としての務めを果たすべく戦場に立ち続けた。
あの事件以降、戦争の様相は変わりつつあった。
遠くの戦地で使われたコマンドスーツが闇市場に流れ、テログループの手にも渡るようになった。
敵対国家が、意図的に兵器を流し、混乱を煽っているとの噂も耳にした。
治安維持部隊の任務は、単なる犯罪鎮圧を超え、武装勢力との正面衝突へと変わっていった。
私はコマンドスーツを操り、街を襲うテログループを次々と排除した。
廃墟と化した工場地帯で、敵の旧型スーツを正確な射撃で仕留め、繁華街の地下に潜む拠点を壊滅させた。
銃声と爆発音が響くたび、市民の安全が守られた。
だが、心のどこかで、あの少女の叫びが消えることはなかった。
テロリストを倒すたび、彼らにも家族がいたのではないかと、頭をよぎる瞬間があった。
それでも、私は引き金を引き続けた。
街を守るため、正義を信じるために。
ある日、作戦が終わった後の焼け焦げた広場で、私は異様な光景を目にした。
瓦礫と黒煙の間に、ぽつんと立つ小さな人影。
少女だった。みすぼらしい服に身を包み、怯えた目でこちらを見つめている。
私は即座にコックピットから飛び降り、少女を保護しようと駆け寄った。
背後では、部下の一人───若い兵士のラウルが、私に続いてスーツを降り、警戒しながら近づいてきた。
「大丈夫だ、怖がらなくていい。こちらへおいで」
私は穏やかに声をかけ、少女に手を差し伸べた。
彼女は一瞬躊躇したが、ゆっくりと近づいてきた。
「……!?」
その瞬間、異変に気づいた。
少女の服の下に、不自然な膨らみがある。
私の背筋に冷たいものが走った。
ラウルも同時に気づき、銃を構えた。
「隊長、危ない!」
次の瞬間、少女の目が鋭く光った。
小さな手が、服の下に隠したスイッチに触れる。
私は咄嗟に拳銃を抜いたが、引き金を引くことができなかった。
脳裏に、かつて市場で私を糾弾した少女の顔がよみがえった。
あの涙、あの憎しみに満ちた瞳!
指が凍りつき、時間が一瞬だけ止まった。
「ラウル、離れろ!」
私の叫びが響く前に、ラウルが私の前に飛び出した。
彼の体が盾となり、少女を押さえ込むように覆った。
次の瞬間、轟音とともに爆発が広場を飲み込んだ。
熱と衝撃が私の体を吹き飛ばし、地面に叩きつけられた。
「う……あ……?」
耳鳴りが響き、視界が揺れる中、私は這うようにして起き上がった。
「ラウル!」
煙が晴れると、そこには無惨な光景が広がっていた。
ラウルは動かず、少女もまた、息絶えていた。
爆弾の破片が周囲に散乱し、血と焦げた匂いが鼻をついた。
私はラウルのそばに跪き、彼の脈を確認したが、すでに遅かった。
若い兵士の瞳は、虚空を虚しく見つめていた。
「あ、ああ……!」
私が躊躇わなければ。
少女を即座に撃っていれば。
ラウルは死なずに済んだはずだった。
私は拳を握り、焼け焦げた地面を叩いた。
少女がテロリストだったとしても、彼女もまた、誰かに操られた犠牲者だったのかもしれない。
だが、そんな理屈はラウルの命を返さない。
私の正義は、誰かを守るどころか、信頼してくれた部下を奪ったのだ。
その日を境に、私は軍を去った。
何が正しいのか、もはや何も分からなかった。
テロを防ぐことが正義なら、なぜ少女の命を奪わねばならないのか。
市民を守ることが使命なら、なぜ仲間を失ったのか。
答えのない問いが、私の心を蝕んだ。
私は故郷の街を離れ、戦場から遠ざかった。
だが、静かな暮らしは、私の罪悪感を癒すことはなかった。
やがて、祖国はエリシオン共同連合に加盟した。
巨大国家の侵略に抗う小さな国家の連合体。
その理念に、私は失った理想を見た。
エリシオンのスカウトが私の元を訪れ、過去の戦績と、ネクスターとしての適性を評価された。
彼らは言った。
「君の経験は、虐げられる者を守る力になる」
私は迷った。
戦場に戻れば、また血を流すことになる。
だが、逃げ続ければ、ラウルの死も、少女たちの涙も、無意味なまま終わる。
私は再び銃を手に取り、ストラウス・ザ・ホークアイのコックピットに座ることを決めた。
正義が何かを知るためではない。
ただ、過去の自分を超え、誰かを守るために。