ゲイルの場合/菊花の場合
ゴオオオオオ───ッ。
戦闘空母プロメテウスの整備室は、機械油の匂いと熱気に満ちていた。
キンキンと響く工具の音、点滅するモニターの光。
そんな中、菊花は作業台の前で、橙色のお団子ヘアを揺らし、ツナギの前を大胆に開けていた。
白いインナーをパタパタと引っ張り、汗ばんだ胸元を扇ぐ。
「あっつぅ……。このあたり暑すぎるねん!」
豊満な胸の谷間に汗が光る。
菊花は眉を寄せて愚痴をこぼした。
熱帯の小国での補給作業を終えたばかりだが、艦内の空調が追いつかないほどの暑さが、菊花を苛立たせていたのだ。
カツン、とブーツの音が近づく。
整備室に現れたのは、金髪に鋭い目つきの男──ゲイル・タイガーだ。
シグマ帝国の元エースパイロットであり、紺色のエリシオン制服が彼の冷徹な雰囲気を際立たせている。
「菊花、少しいいか? ダフネの調整につい──」
ふと、ゲイルの言葉が止まった。
菊花の破廉恥な姿──大きく開けたツナギ、汗で肌に張り付いたインナー、そして強調された谷間が目に入ったからだ。
「……」
「……」
しん、と場が静まり返る。
無言で立ち尽くす二人。しばらくして、菊花の顔がみるみる赤くなっていく。
先に口を開いたのはゲイルだった。
「ふむ、良い乳だ。質の良い母乳が出るだろう」
響くのは、あまりに淡々とした声。
シグマ帝国史に詳しい読者ならご存じだろう。
シグマ帝国において、妊娠と出生は国民の義務である。
ゆえに、身体機能へのコメントは日常的な賞賛に過ぎない。
例えば、親戚の子供に「背が伸びたなぁ」と言うのと同じくらいに。
例えば、帝国民の義務たる『労働』の話題と同じくらいに。
生殖能力への言及は、「いい天気ですね」という挨拶と同程度にありふれたことなのだ。
だが──菊花にとっては、まるで爆弾だった。
「な、なんやて!? ゲイルのあほ、ヘンタイ! いきなり何!? そんなん……そんなん言うたらアカンやろ!」
菊花は顔を真っ赤にし、両手でツナギを掴んで胸元を隠そうとする。
「お、おい、落ち着け、菊花。別に悪意は──」
ゲイルは何とかなだめようとするが、効果はない。
「うっさい! アンタなんかに……い……言われたないわ!」
菊花は足音荒く、くるりと背を向けると整備室の物陰へと駆け込んでいった。
~~~
「ハア、ハア……」
しばらくして。
コンテナの陰で、菊花は肩で息をしながら熱い顔を押さえていた。
心臓がドクドクと暴れている。
さて、欧州近辺の近代史に詳しい読者ならばご存じだろう。
菊花の故郷『レザイト』では、母乳や安産への言及は、愛の告白に等しい意味を持つのである。
まして、ゲイルはかつての敵──シグマ帝国の男だ。
故郷を奪った怨敵からの言葉に、菊花の心は乱れに乱れた。
「くそ……憎いはずやのに……」
小さく呟く。だが、胸の奥で、嬉しさがチクリと刺さる。
ゲイルの義理堅さ、冷徹な瞳の奥にある誠実さ。
どこか憎み切れない理由が、確かにそこにあるのだ。
「はぁ……どうすればええんや……」
整備室に響くキンキンという金属音が、菊花の動揺を飲み込むように鳴り続けていた。
~~~
数日が経った。
プロメテウスの物資倉庫、薄暗い通路。
菊花はコンテナに背を預け、重いため息をついた。
「……はぁ」
髪留めを外すと、お団子が解けて橙色の髪がパラパラと肩にかかる。
ツナギの袖をまくった腕が汗で光り、雫が床に落ちた。
先日の一件以来、菊花の心は波立ったままだ。
ゲイルが話しかけてきても、菊花はそっけない返事で誤魔化し、そそくさと逃げ出してしまう。
整備の打ち合わせでも視線を合わせず、最小限の言葉で切り上げる始末だった。
「なんで……あんなこと言うんや、アイツ……!」
倉庫の金属壁に呟きが反響する。「良い乳だ」というゲイルの言葉。
それは故郷のレザイトにおいて愛の告白に等しく、菊花の心を今も掻き乱している。
カツ、カツ、カツ。
軽い足音が響いてきた。
顔を上げると、桜色の髪を揺らして現れる人影が見えた。兎歌・ハーニッシュだ。
兎歌の大きな瞳が、菊花の動揺を捉える。
「え、っと……菊花さん? なんか……元気、ないよね……?」
「……ッ」
兎歌の声はやや内気で、言葉の端に自信のなさが滲んでいた。
だが、その言葉が不安定な菊花を揺さぶる。
菊花は少しためらってから、口を開いた。
「……ゲイルにさ、『良い乳だ』って言われたんよ。そりゃもう……プロポーズみたいなもんやんか」
兎歌の目がキラリと輝いた。
彼女はレザイトの文化を知っているが、シグマ帝国の風習は知らない。
そのため、兎歌はそれを「お洒落な告白」だと解釈したのだ。
「え、そ、そんな、ロマンチックなこと、ゲイルさんが……?」
「……せや」
兎歌はわずかに逡巡し、続けた。
「菊花さん、絶対……その、受け入れた方がいいよ……!」
兎歌は菊花の肩を掴んで力説する。その勢いに、菊花は目を丸くした。
「は!?」
「いや、でも……アイツ、シグマの人間やぞ。レザイトを……家族を奪った敵やんか!」
声に苦しみが滲む。根本的に何か誤解をしているが、そんなことには気づかないまま話は進む。
兎歌は少し俯き、言葉を選ぶように続けた。
「う、うん。でも、菊花さん、ほら……シグマ帝国への攻撃作戦、参加したよね? ゲイルさんと一緒に、中枢を……壊した。あの作戦で、たくさん……復讐、したんじゃないかな」
少女の声は少し震えているが、思いを伝えようと懸命だった。
心から、菊花には笑っていて欲しいと願っているのだ。
「これ以上、憎み合っても……キリがない、気がする……。ゲイルさん、裏切られた過去を背負ってるけど、プロメテウスで戦ってるよね……? 菊花さんのこと、ちゃんと……見てくれてる、と思う……」
菊花は唇を噛む。
あの作戦。ゲイルと共に、シグマ帝国の中枢を破壊した。
だが、家族を失った痛みは消えない。
菊花は小さく呟いた。
「……でも、ウチだけ幸せになるんって、正しいんかな?」
兎歌は一瞬言葉に詰まった。
桜色の瞳が揺れる。
少し迷い、正直に答えることにした。
「わ、わからないよ……。わたしも、そういうの……よくわからなくて。でも、菊花さんが笑ってる方が、わたし……嬉しい、かな」
内気な声には、純粋な願いが込められていた。
「……」
菊花は目を閉じ、ゲイルの鋭い瞳を思い出す。
憎むべき敵なのに、心が揺れる。兎歌の言葉が胸に引っかかって取れない。
「……そやな。いつまでもウジウジしてられへん」
パチン、と菊花は両手で自身の頬を叩き、目を輝かせた。
「相手はエリートや。悲劇の戦士やんか。けど、ウチはエンジニア! 裏方で人を支えるのが美学やろ! よーし、気合入れるで!」
ゴオッ、とプロメテウスのエンジン音が響く中、菊花はツナギを締め直し、倉庫を出る。
その背中には、迷いを振り切った決意が宿っていた。
~~~
カツ、カツ。
プロメテウスの居住区にある回廊を、菊花の軽やかな足音が響く。
数日ぶりにツナギを脱ぎ、珍しく花柄のワンピースに身を包んだ菊花。
橙色のお団子ヘアには小さなリボンを結び、その頬には緊張の色が浮かんでいる。
菊花はゲイルの部屋の前で立ち止まり、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「よ、よし……行くで!」
ピッ、とインターホンを押す。
『む? 来客か』
シュッという音と共に扉が開き、現れたのは、ゲイル・タイガー。
金髪に鋭い目つき、紺色の制服が彼の冷徹な雰囲気を際立たせる。
だが、菊花の可愛らしい姿を目にして、わずかに眉が上がった。
「菊花? どうした、その服……」
菊花は顔を真っ赤にし、しどろもどろで言葉を紡いだ。
「え、えっとな! ゲイル、あんたの……その、告白! ウチ、受け入れるで! いや、ほんまは……ウチ、レザイトの出やし、色々……あるけど、兎歌とも話して、決めたんや!」
ゲイルの瞳が一瞬揺れる。
((……告白?))
ゲイルの頭に浮かぶのはクエスチョンマーク。
だが、菊花の真剣な表情を前に、彼は即座に口先で誤魔化した。
「……ふむ、そ、そうか。少し……待ってくれ。すぐ戻る」
シュッと扉を閉め、ゲイルは部屋に戻る。
「ハミット、至急だ。菊花の言動を分析しろ!」
ゲイルがタッチパネルを叩くと、AIのハミットが現れる。
ハミットはウィンクし、柔らかな声で応えた。
『ゲイル、数日前、整備室で菊花に「良い乳だ」と言ったわよね?
レザイトの文化では、母乳への言及は愛の告白に等しいの。
彼女、それで本気になったみたいよ。
艦内の会話ログからも、兎歌との話で決意したのがわかるわ』
「……は?」
ゲイルは額を押さえた。
あの時の軽率な言葉が、こんな事態を招くとは。
「くそ……まずいだ。誤解だと言えば、怒髪天を衝くぞ……!」
プロポーズに使えるものなど、殺風景な軍人暮らしの彼にはない。
だが───
ピンと記憶が閃いた。
かつての腹心ルシアがゲイルに想いを寄せていた頃の話。
かつて、粗暴だが気の利く巨漢、ドレッドが、ゲイルの端末にこっそり仕込んだものがある。
───ウェディング背景の、ホログラム投影プログラムだ!
「これだ!」
ピピ───ッ
ゲイルは即座に端末を操作。
プログラムを呼び出し、再び扉を開けた。
「待たせたな」
「お、おう……?」
菊花が不思議そうに立っていると、ホログラムが起動した。
彼女の周囲に広がるのは、ロマンチックなホログラムの数々。
星空と花びらが舞い、柔らかな光がワンピースを照らす。
菊花の目が丸くなった。
「ゲ、ゲイル!? なんやこれ!?」
ゲイルは一歩踏み出し、菊花の手を取る。
そして、ぎこちないが柔和な笑みを浮かべた。
「菊花、俺は軍人だ。男女の機微や駆け引きには不慣れでな……。唐突な告白になったのは、そのせいだ。悪く思うな」
彼は跪き、菊花の手の甲にチュッと軽くキスをする。
「ひゃっ!? ゲイル、ほ、ほんまに……!?」
菊花の顔が真っ赤に染まり、慌てて頷く。
ゲイルは立ち上がり、柔和な笑みを保つ。
だが、内心には嵐が渦巻いていた。
((どうにか誤魔化せた……が、完全にその気にさせてしまった!))
ホログラムの花びらが菊花とゲイルを包む中、ゲイルの心は乱れに乱れていた。
ルシアのためにドレッドが用意した、ウェディング背景のプログラム。
他の女に使うのは気が引ける。
((だが、ルシアはもういない……))
ルシア・ストライカー。
戦場で散った、青髪の生真面目な女。
彼女なら、この緊急事態を理解し、般若のような形相で睨むこともない……はずだ。
ゾク───ッ
背後に青い髪の亡霊が立っているような気がしたが、ゲイルは首を振って無視した。
緊急事態なのだ。
「ゲ、ゲイル……! ほ、ほんまに……ウチ、こんなん、初めてやから……!」
菊花の声はしどろもどろだ。
橙色のお団子ヘアが揺れ、花柄のワンピースがホログラムの光に映える。
彼女は照れ隠しに言葉を続けた。
「だ、だってな! エリシオンやと独身税かかるし! 少子化対策やて! それに、シグマの人間だとしても、排斥はよくあらへん! せやから……その、ウチ、こうやって……!」
顔を真っ赤にしながら、愛を語る言葉が止まらない。
ゲイルは菊花の声を聞きつつ、思考を加速させる。
このままでは、確実に結婚の流れだ。
シグマ帝国では妊娠と出産は義務。
より強い兵士を産むことこそ、国民の責務である。
ゲイルもその価値観で育ち、結婚自体を否定する気はない。
意中の相手もいない。
だが、心の奥で囁く、二つの声……。。
((軍人として多くの人を殺してきた。生き残った人間を幸せにするのが、せめてもの償いではないのか?))
((いーや、嘘は良くない。今からでも誤解を解くべきだ))
ゲイルの胸に、レザイト侵略の記憶がよぎる。
軍人として任務を果たしただけ──そう割り切ってきた。
だが、民間人の犠牲、燃える街……小さな後悔が、心を刺してやまない。
目の前の菊花を傷つける言葉など、言えるはずがなかった。
思わず、ゲイルの目が潤んだ。
罪を告白する罪人のように、感情が溢れる。
ゲイルは一歩踏み出し、菊花を強く抱きしめた。
ガシッ。
軍人の筋力と体格差で、菊花の小さな体が一瞬軋む。
「うっ、ゲイル!? ちょ、苦し……!」
菊花は息を詰まらせるが、すぐにゲイルの嗚咽に気づく。
ヒクッ、ヒク……ッ。
その肩は震え、涙が頬を伝っていた。
「う、うぅ……あぁ、俺は……お前の国を……ッ」
菊花の瞳が揺れる。
何も言わず、そっと抱き返す菊花。
スッと小さな手が、ゲイルの背中に回る。
ホログラムの花びらが舞う中、二人の時間は静かに流れた。
ゲイルの心には、安堵と新たな覚悟が芽生えていた。




