知りたいのは、推しのーー
俺は、――推しの名前を知らない。
大学入学を機に実家を離れ、一人暮らしを始めた。
アルバイト先は早々に決まり、一回生からずっと同じ飲食店で世話になっている。今年で四年目、いよいよ学生生活とアルバイト生活に終わりが見え始めた秋口になって、推しが彼女と別れた。
推しの名前は、知らない。
隼太が通うアルバイト先の常連で、現在社会人一年目。順調に大学に進学していれば、おそらくは一つ年上であろう推しは、金曜日になるとやって来る。
「いやまじ無理、社会人」
今日も仕事帰りに現れるなりカウンターの一番奥を陣取り、推しは言った。
「やっぱ学生とは違います?」
「自分で働く日を考えられるバイトとは、根本から違うよ。働いてないで平日遊び倒しておいた方がいいよ、まじで」
隼太は、基本的に夜のバイトに入っている。カウンターをメインとする店内にはテーブル席も一応あるが、推しの彼のように一人でのんびり過ごす常連さんが多い。夜は、特に。
「遊ぶにも、金がいるんで」
隼太は、苦く笑いながら生ビールを置く。推しは、何も注文しなくともまず生ビールだ。
「だよなぁ。で、社会人になると金はあっても時間がない。――おかげ様で彼女に振られた」
「……あー」
ごん、と額をカウンターに落とした推しは、とりあえず大根お願いします、とぼそりと注文する。おでんのある珍しい饂飩屋であるアルバイト先は、夜は基本的には空いている。近隣に中華やラーメン、がっつりとした居酒屋が多い事もあって、夜は残念ながらあまり人気がない。平日は特に、推しのような客しか来ない。
推しは、隼太がここでアルバイトを始めてしばらくして来始めた。当時大学生であった推しは、今ほど来店が夜に偏っている事はなかったが、社会人になって会社が遠くなってからこちら、金曜日の夜が主だ。その他の平日には来ない。
「今回は、ちょっと長く続いていたのに残念ですね」
推しは、もてる。
大学生の頃から彼女を連れて来ていたが、見る度に違う女性を連れていたように記憶している。隼太が把握している限りでは、最長で半年だ。
「あー、……一年くらい付き合ってたかな。やっぱ遠距離は無理だった」
くだんの彼女は隣の県に就職していった事を、隼太は既に知っている。
「まあ、次の機会が直ぐ来ますよ」
隼太はちらちらと店頭の方に目を遣り、客が来ないかを確かめながら推しの前に佇む。料理の注文が入らない限り、店長は出てこない。好きなだけ喋っていてくれてもいいと言われている。
「社会人に出会いはないんだ、これが」
推しは生ビールをぐいと半分ほどあおり、大根に箸をつけた。
「って言いますよね。本当なんですか?」
「一日会社にいるから、ないよね、普通に。社内結婚くらいしか道がないの分かる。あとはこういう行きつけの店で意気投合、とか?」
どきっと胸が弾んだのを隠したい一心で、隼太は意味もなく既に綺麗な食事提供用の盆を拭く。
隼太は、この推しに会う為に金曜日の夜を空けている。店長に頼んで、金曜日の夜のシフトだけはなんとか通して欲しいと頼み込み、毎週ここで、推しを待つ。他のスタッフに聞いてみたところ、土日の昼に偶に来る事もあるそうだが、中々シフトの兼ね合いで昼の遭遇は果たせていない。
(もっとゆっくり、話してみたいけどな)
他の客が来たら、当然隼太は仕事に回る。ほぼないとは言え、忙しければ挨拶程度しか出来ない事もある。今日は小雨が降っている事もあって人通りは疎ら、おそらく誰も来そうにないので、ゆっくり話をするチャンスではある。
「会社には、いないんですか。いい感じの」
「あんま、会社の人に手出したくなくない? 別れたらきまずい」
「まあ、簡単に辞めれませんしね」
「だからといって、土日の予定全白紙はまずいよね。暇すぎる」
とっかえひっかえのイメージがある推しだが、彼女がいる間は基本的に休みは彼女に合わせて過ごす。現在フリーだと言うなら、新しい彼女が出来るまでおそらく土日は、フリーだ。
(誘ってみたいけどなぁ)
ちらりと見下ろした推しは、ぱくりと大根を口に入れ、はあ、と溜息など吐く。社会人になってからこちら、明日明後日が休みだと嬉しそうな姿を見る事が多かったので、肩を落としている姿を見るのは随分と久しぶりの事のように思う。
(誘ってみてもいいのかな、これ。――っつっても、どこに誘うよって話だけど)
隼太は、来年の三月で大学を卒業する。当然、アルバイトも辞める事になる。来年からの勤め先の内定はもらっている状況だが、この推しとこうしてだらだらと話をする機会は失われ、二度と会う事もないかもしれない。
(卒業までに、名前と連絡先。うーん、事案か?)
店員が客を口説くのは、どうなのだろうか。相手が未成年なら問題かもしれないが、相手は成人している、しかも男だ。
云々一人で唸る隼太に、推しは言う。
「もう一個大根と、すじと貰える?」
「あ、はい」
皿に注文の品を盛る隼太を眺めながら、推しは自らの腕を枕にするように頭を預ける。
「隼太くんって、来年卒業だっけ?」
「そうです」
早いねぇ、と推しは苦く笑う。店長が隼太を「隼太」と呼ぶので、名乗ってはいないのだが推しは隼太の名前を聞き知っている。何度も言うが、推しの名前は知らない。
湯気の上がる大根を箸で切り分ける推しは、それを口にして熱さからか眉根を寄せる。ほくほくと口を開けたり閉めたり、まるで子供のようだ。
「就職先ってもう決まってるんだっけ?」
「一応、丸木製作所に」
「あ。他府県に出ないんだ?」
「引っ越ししようか迷ってるんですよね」
今住んでいる所からでも、バスを使って四十分程で通える。学生アパートに住んでいる訳ではないので、卒業と同時に退去せよとは言われない。
「引っ越しがおすすめだけどね。朝五分で会社に着くのと、えらい違うよ」
「ですよねぇ」
大学が徒歩五分の隼太としては、遠くはないといっても朝から三十分以上余計に時間をとられる事を思えば、苦痛は苦痛だ。
推しは、今どの辺りに住んでいるのだろうと隼太は思う。プライバシーに関わる事は聞き難く、隼太は、そういった事を聞く場を設けてみたいと常々思っている。住んでいる場所や、それこそ名前、連絡先や年齢など、友人と言い難い現状では尋ねにくい少し立ち入った事を、聞いてみたい。現在は推しが話をしてくれるのを基本的には待つ姿勢だが、アルバイトを終えて一歩店を出たら、店員と客の関係ではなくなる。そういう事が、聞ける。
「隼太くんいなくなるのか。寂しいな」
唐突に言われて、隼太は押し黙る。生ビールを飲み切りお代わりを頼む推しは、ビールを注ぐ為に背を向けた隼太に言う。
「言うて、四年だもんなぁ」
早いよなぁ、と今一度言った推しとこうして話をするようになったのは、そうは言ってもここ半年程の事だ。
推しは隼太をよくいる店員として、隼太は愛想の良い彼女連れの常連さんとして、互いを認識こそしていたが、推しが一人でこの店に来るようになったのは社会人になってからだ。連れがいる時に店員と話そうなどと言う気になるはずがなく、当然、隼太の方も空気を読んで喋りかけたりはしなかった。
推しが推しになったのはいつだったか、そもそも顔の綺麗なお兄さんだな、程度にしか思ってはいなかったように記憶している。
初めて推しが一人酒に現れた春先のあの日、隼太は「お一人珍しいですね」とお茶を出しがてら声をかけた。「分かる?」と推しは答えた。なんとなく話をするようになったのはそこからで、今では隼太と話す為に来てくれているのではと多少自惚れる程に、推しは店に来るなり隼太を見つけてぱっと笑顔になる。推しの隼太を探す目が、隼太を見つけた瞬間に優しく微笑む口元が、あの瞬間が堪らなく好きで金曜日のシフトを外す事は出来ない。
隼太との別れを惜しんでくれている今こそ連絡先の聞き時ではと、隼太は生唾を飲む。行け、聞け、と自分を奮起させるも、やはり店員であるという事実が隼太に今一歩を踏み出させる事を拒む。
「かけと、天ぷら盛り合わせもお願いします」
推しはようやくメインの饂飩を頼む。饂飩の注文に店長が裏から出てきて、「疲れてますねぇ」と推しの顔を見て笑った。
「彼女と別れたんですよ」
推しが店長に報告すると、ああ、と店長は肩を竦める。
「もった方でしょ?」
「みんな言いますね、それ。そんなにとっかえひっかえのイメージですか?」
「とっかえひっかえとまでは言わないけど。冷めやすいタイプなの?」
店長は饂飩を湯がきながら推しに話しかける。明らかに年上の店長に対しては、推しはちゃんと敬語で話す。
「いやいや。大概振られるんですよ。真面目過ぎて詰まんないらしいんですよ。女の子ってまめな連絡がいいって言うじゃないですか。俺結構まめなんですよ? 基本土日の全ても捧げるし、連絡はおはように始まっておやすみまで、まめでしょ? なのに、詰まらないんですって。意味分からん」
「若いから。詰まらん男の方が旦那にするにはいいらしい。聞いた話だと」
「店長も理屈は分からないけど?」
「俺も理屈は分からんけど」
あはは、と笑い合う二人の間に立つ隼太は、推しに同情する。振る理由が「詰まらない」など、見る目がない。推しは相手の事をよく見て、さっと手を差し伸べられる人だ。空いた相手のコップにさらりとお茶を注ぎ足し、客の立場で店の席の状況まで気にかけてくれる人だ。小さい子供連れの客が来たら、食事中であってもカウンターに移ろうとしてくれる人だ。
はい、と店長はかけ饂飩と天ぷらを提供し終わると、やはり裏に引っ込んでいく。
「そういや、隼太くんは、彼女は?」
「結構前にいましたけど、長い事いませんねぇ」
「そうなんだ。女の人って、分からんよねぇ」
推しは、猫舌のきらいがある。饂飩をふーふーと冷ます姿は、大人のそれではない。熱々が美味しい天ぷらも、少し時間を置いてから食べる。
「ちなみに俺が振られた理由は、金がなかったからですけど」
「大学生に金がないって何? 当たり前でしょうに」
「と、俺も思って。何期待してたんだろって、冷めましたよね」
「それは冷める」
でしょう、と話を広げようといた隼太を遮るように、新規のご来店がある。話が弾みそうだったのにとは思ったが、お金を貰っている以上、当然のことながら蔑ろには出来ない。
二名様のご来店を皮切りに、ぱたぱたと何組か続けて来店がある。俄かに慌ただしくなって、仕事をしている間に推しの箸が進む。仕事をしている時に話しかけてくる事のない推しは、携帯を眺めながらのんびりと天ぷらを食べている。いつもは長くとも四十分程度で帰っていく推しだが、今日はこの後彼女との予定がないせいか、のんびりと構えて見えた。
ちらちらと、来店がある度に推しは入り口を見遣り、席を確認する。待ちが出ると空気を読んで席を空けてくれる推しだが、今日はうまく席が回転している上、いい具合に待ちも出ない。周囲を気にしながらも三杯目の生ビールを注文した推しを見遣り、次いで隼太は時計を見る。
(十九時、四十分か)
店は二十時までである。そこから片付けがあるものの、手が空いてくると二十時を待たずして片付けを始めるため、既存客の食べるスピードにもよるが、早ければ二十時十五分には終わる。
(このまま閉店までいてくれたら、もしかしたら食事とか、誘えるかも)
来店客自体は収まり、既存客も半分ほどがはけている。既に片付けに着手し始めている隼太と、酒を煽っているテーブル客の出方次第では今日こそ誘えるかもしれないと、隼太は手早く片付けを済ませて行く。
「これ、下げていいよ」
片付けを始めた隼太を見てか、推しは食べ終わった食器をカウンター台にのせる。生ビールとが半分、大根が残り三分の一。急いで食べないでと祈るように思いながら、隼太は空いた食器を片付させて貰う。推し以外のカウンターの客が会計を済ませ、残す隼太の帰宅を阻む可能性があるのは、テーブル客のみだ。
推しが大きく伸びをし、手洗いに立った。
(どうしよ、帰る気かも)
おでんの皿が空いている。生ビールもあとほんの二口というところ、ぐいと飲んで会計に立つ推しを想像して、隼太は焦る。
(速攻で終わったとしても、十五分くらいは待ってもらわないといけないしな。申し訳ないよな)
気候が良い季節になってきたとはいえ、外に立たせて待っていてもらうのは非常に申し訳ない。
「隼太、今日賄い食べて帰る?」
店長に声をかけられ、隼太ははっと顔を上げる。いつもは食べて帰るのだが、もしも推しを誘えるならば、当然食べている暇はない。
「……あーっと」
手洗いから戻って来る推しを見遣り悩む隼太に、あー、と店長は小さく言った。
「テーブルの客の分だけ俺片付けておくから、その他のもの片付け終わったら上がっていいよ」
「えっ。いいですか!?」
うん、と店長は笑う。金曜日のシフトは是非、なんとか、通してくれと願い出る隼太の考えなど薄々ばれているだろうなとは思っていたが、やはり、すっかり御見通しのようだ。テーブル客を放置できるならば、あとはシンク周りや厨房関係の洗い物をするだけである。洗浄機に手伝って貰って必死でやれば、十分で終わる。
(十九時、五十五分)
隼太は、目で推しを見遣る店長に、行けと背中を押されている気がして覚悟を決める。
手洗いから帰って来た推しは、想像していた通り立ったまま生ビールを飲み干し、鞄に手をかけた。レジへと向かう推しを見て、隼太は洗い物の手を止めて会計へと向かう。
(言え。十分だけ待っていてくれませんかって、言え)
待たせるのが申し訳ないと思う一方で、待たせずして誘える日は永遠に来ない事は分かっていた。どれだけ遅くても二十時で帰る推しと、そこから片付けのある隼太が一緒に店を出られる事など決してなく、十分は、待たせるにおいても最も短く済む最速の時間である。推しに彼女がいない週末、且つ早く帰っても良いとまで言われた今日が、最初にして最後のチャンスになるかもしれない。客が何組も残っていたら、店長とて流石に二十時で帰っていいとは言ってくれないだろう。
札を出し、小銭を探す推しを見遣る。
言え、言えと心の中で何度も自分を鼓舞するも、緊張のあまり指先が冷たい。
(来週末には彼女が出来てたらどうすんだ。言えよ)
どくん、どくんと動悸がしてきて、足が震える。
「これでお願い」
推しに声をかけられて、隼太はぶるりと震える。今しか。今しか、ない。
「……五千、二百円からお預かりします」
レジの横であはは、と豪快な笑い声がした。テーブル席の客が高らかに笑い合い、隼太の緊張に拍車をかける。客を誘うのを聞かれてしまいそうで、勇気がしおしおと萎んでいく。
釣りを手渡す隼太の手が、ちょん、と推しに触れた。びくっと肩を震わせる隼太に、推しはあははと笑った。
「指冷たっ。洗い物、ご苦労さん」
指先が冷えているのは洗い物のせいだけではないが、じゃあ、と笑って手を上げた推しが出て行く背中を見つめながら、隼太は立ち竦む。
(ああ、駄目だ)
情けなくて、涙が出そうになる。どうして、十分待ってくれと、この後二軒目どうですかと、たったそれだけの事が言えないのか。あまりにも自分が情けない。
踏み出せなくて俯く隼太の背中を、どん、と誰かが押した。よろけるようにして振り返ると、店長が立っている。
「あの常連さんは、ポイント貯めてるだろ。追いかけろ」
この店では、支払った金額に応じてポイントが貯まるシステムを導入している。推しはポイントカードを出す時と、酔ってか急いでか出さない時がある。
「早く追え」
判子を渡され、どんと押し出された。隼太は判子を握り締め、よろけた足のまま店を飛び出す。
薄暗い夜の街、大通りを駆ける車のライトが眩しい。今なお降る小雨は傘を必要とするほどではなかったが、ライトを浴びる度にうっすらと空気中に雨筋を浮かばせた。エプロンを付けたまま走る隼太にちらりと目を向けてくるカップルと擦れ違いながら、隼太は叫ぶ。
「お客様、……常連さんっ!」
自分の事かと振り返る何人かの人影の中に、目的の人物がいる。携帯を片手にこちらを振り返った隼太の探し人は、あれぇ、と頓狂な声を上げた。
「俺、なんか忘れた?」
信号までに追いついた隼太の姿を認め、推しはぱたぱたと胸や尻のポケットを叩く。自分が呼び止められたのではないと悟った人々の時間が動き出す中、隼太はずい、と判子を掲げた。
「店長が、ポイントを、って」
「え!?」
息を切らす隼太を眺めてから、推しは慌てた様子で鞄の中から財布を取り出す。
「なんか、わざわざごめんな。折角だから、じゃあ押して貰おうかな」
カードの間からポイントカードを出し、はい、と推しは隼太に向かってそれを差し出した。どこで押そうかと辺りを見回した隼太に、推しはくすくすと笑いながら鞄を真っすぐに横向けてこちらに突き出して来る。
「ほい」
「あ、すみません」
ぱーっと、車のクラクションの音が横を通り過ぎて行く。カードを覗き込む隼太の顔に影がかかり、それが向かいにいる推しの影だと気付いた。推しが、隼太の手元を覗き込んでいる。緊張に手が震えて、うまく枠の中に判を押せない。ぱたぱたと、カードに細い雨が落ちて染みを作る。
「あ。もしかして貯まる?」
「……ですね」
ポイントが丁度貯まって、次回来店時の割引が確定する。
「おお。こういうの貯めきったの初めてかも」
判の貯まったカードを手に、推しは感動したように言う。
「……あの」
「うん?」
震える手で、隼太はきゅっとエプロンを握り締めた。今なら。知ってる目のないここでなら、――言える。
「この後の、ご予定は?」
「え? あー、二軒目探そうかなって思ってるとこ」
携帯の画面をこちらに向けてひらひらと振る推しだったが、既に画面にはロックがかかってしまっていて何も映っていない。おそらくは、この辺りの飲み屋を検索しているのだろうと想像しながら、隼太は顔を上げた。
「俺も。俺も、一緒に、いいですか」
どこに、とばかりに推しはきょとんと小首を傾げる。
「そこに、飲み屋があるんです。角曲がったところ」
「あ、そうなんだ」
「就職したらもう、常連さんと店では会えないから。もし、良かったら」
ぐっと握り締めたエプロンに目を落とし、隼太は固く目を閉じて叫ぶ。
「もし、良かったら! 連絡先を、教えてもらいたくて!」
言い切った隼太は俯いたまま、ぎゅっと唇を噛む。しん、と沈黙が落ちて、ぎっと近くでバスが停まる。わらわらと複数の人の降車の気配があって、じろじろと隼太を見ながら横を通り過ぎて行くのが分かったが、隼太は顔を上げられない。
エプロンを固く握りしめていたとて、手は情けない程に震えている。俯いたままの隼太に、ああ、と推しは小さく、隼太にかろうじて聞こえる声で呟いた。
「あー。なんか、そう言ってもらえると嬉しい、です?」
あはは、と推しが笑ったのを聞いて、隼太はおそるおそる顔を上げる。
「えっと。そしたら俺、そこの飲み屋で勝手に飲んで待ってたらいい?」
「……待っててもらえます?」
「うん。隼太くん、まだバイト中でしょ? 店長待ってんじゃない?」
はい、と呆然と呟く隼太を眺める推しは、ぷっと吹き出す。
「飲んでたら一時間や二時間直ぐなんだから、そんな慌てて来なくていいよ」
「あ、いえ。店長がもうすぐ上がっていいって、言ってくれてて」
「そうなの? じゃあ、なんか適当に頼んどく」
にこりと笑った推しを見つめ、隼太の胸が熱くなる。
言えた。とうとう、言えた。しかもこんなにも簡単に、諾と言って貰えた。今まで何を悩んでいたのかと馬鹿馬鹿しくなるほどに、推しはなんでもないような顔をして、微笑みながら隼太を見ている。
「――俺、今日、そんなつもりなかったから、すごい適当な格好で来てて」
「うん?」
夢見心地の隼太はまだ信じられなくて、呆然としたまま瞬きも忘れてぽつり、ぽつりと言う。
「恥ずかしかったらなんか、すみません」
「どんな格好よ。逆に気になるわ」
あははと笑う推しだったが、スーツ姿の推しと並ぶのはあまりにも忍ばれる。よれよれのトレーナーにジーパンと、よりにもよって最悪の部類に入る格好で来た。
待ってるから、と踵を返した推しは、くるりと首だけで振り返る。
「隼太くんて、なに隼太くん?」
「苗字ですか? 山本。山本、隼太です」
「そ。山本って連れが来るからって店の人に言っておく」
くるりと今度は体ごと振り返り、推しはにっかりと笑った。
「俺は佐伯。佐伯、翔太」
車のヘッドライトを背中から浴びる推しの顔は逆光になったが、それでも隼太には満面の笑顔がよく見えた。髪が、輪郭が、きらきらと光ってライトアップされたツリーのように、隼太の目を惹いて離せない。小雨までもが推しを輝かせるアクセサリーのようだ。
早く戻れ、と手の甲を振った推しは、踵を返して信号の方へと消えて行く。
隼太は座り込みたいのを、叫び出したいのを懸命に堪えて、胸の前で力強いガッツポーズを一度だけ作ると、踵を返して全速力で走り出した。
――佐伯翔太。
とうとう隼太は今日、推しの名前を知った。