5話 風呂敷から出てきたもの
「そのまま、まっすぐ進んでください。厨房になりますから」
また、雨戸を数枚閉じるらしい。伊織が、がたがたと戸板を揺すっていた。
小夏はうなずき、胸の前で風呂敷を抱えたまま、商品棚沿いに、奥に向かう。
なるほど。
藍色の暖簾がかけられている。
そっとくぐると、すう、と鼻腔に忍び込むのは、嗅ぎなれた匂い。
灰と、水と、火のかおり。
小夏は、首を巡らせる。
左側の壁に明り取り用の窓がいくつかとられているせいで、店よりは断然明るい。
反対の壁には燭台置きが見えるが、火を入れなくても、しっかりと周囲の様子が見えた。
大きな竈がふたつ。
そばの壁には、荒神の神棚が設えてあった。
調理用なのか、おおぶりの木製の机が中央にあり、別の小ぶりの机には木桶や、菓子作りに使うのか、小夏には見慣れない器具がいくつか載せられていた。
こちらも、店と同じで。
よく浄められ、そして、清々しい。
整然と、そして簡潔にまとめられていた。
「ここで、ぼくは菓子を作っているんです」
そっと声をかけられ、振り返ると、照れたような顔で伊織が立っていた。
「奥が住まいです。と、言っても、まだ一間しかないのですが」
促されて、小夏は更に奥にかけられた、藍染めの、長い暖簾をくぐる。
段差をつけて、一間が現れた。
住居らしいその八畳ほどの部屋は、東に窓を切り、障子をはめているせいで、明るく、心地よい。西側は押し入れになっているのだろう。撫子柄の襖が、障子の光をおだやかに受け止めていた。
北側は勝手口になっているのか、木戸が見える。
多分、伊織はここから入って、店の戸を中から開けてくれたのだろう。
「後で案内しますが、中庭が少しあって……。井戸も、そこにあるんですが」
伊織が言いながら、先に畳に上がる。
「結納を済ませ、そのあと、ちょっと増築して……。祝言後には、小夏さんの部屋を、と思ったのですが……。ちょっと、間に合わなかったな」
困ったように頬を掻くから、びっくりして首を横に振る。
「私なんて、どこかその辺で寝泊まりしますから……っ」
そう言って、自分の足元を指さす。「このへんとかっ」。途端に、伊織が笑う。
「そんなわけにはいきませんよ。ですが、ここで、しばらく一緒に寝泊まりすることになりますが、どうぞ、ご勘弁を」
ぺこりと頭を下げるので、小夏も恐縮して頭を下げる。
そして、目に入ったのは、自分の素足だ。
草履をはいているとはいえ、足袋もなく歩いてきたせいで、このまま畳に上がるのは憚られる。
(どうしよう……)
お水を貸してください、って言おうかな。
耳まで真っ赤にして立ち尽くしていると、察したらしい伊織が、「これは気づきませんでした」と、さっさとまた下駄を履いて、手桶を用意してくれる。
「す、すいません……」
首を竦めて小声で言うと、伊織はなんでもないことのように、手拭いを出してくれた。「いえ。あの。ありますから」。小夏は畳の隅に風呂敷を置き、手早く足をすすぐ。
そのあと、風呂敷から手拭いを引っ張り出して、手早く足を拭く。
そっと畳の上に上がると、伊織がさっさと、桶の水を捨てに行くから、恥ずかしくて死にたくなった。なんと気の回る男性なのか、とひたすら身体中を真っ赤に火照らせて、部屋の隅に縮こまっていたら、戻ってきた伊織が、「おや」と何かを拾い上げた。
「小夏さんのですか?」
差し出されたのは、和紙に包まれたものだ。
「……いえ」
首を横に振る。見たことがない。
だが、伊織のものではないのなら、自分にまつわるものだろうか。さっき、乱雑に風呂敷から手拭いを引き抜いたから、一緒に転がり出てきたのかもしれない。
そっと受け取り、目に近づけてみる。すぐに、粗末な和紙であることに気づいた。
ふ、と。
鼻先をかすめたのは、下働きの女たちの香りだ。
「姐さん、たち……?」
思わず呟くと、伊織が衣文かけに羽織をつるしながら、首を傾げた。
「餞別ではないですか?」
促され、さらに身を固くした。
着物さえ準備してもらったというのに、これ以上、何かを受け取るわけにはいかない。
「開けてみては?」
言われて、緊張に震える指で、そっと包みを開く。
途端に空気に乗ったのは、桜の匂いだった。
「え……? さくら?」
正座した自分の膝の上に広げた和紙。
その中央にあるのは、しぼんで縮んだ桜の花がいくつか。
室内の光に、きらきら輝いて見えるのはなぜだろう、と顔を近づけると、塩にまみれているのだ、と気づいた。
「ああ。桜茶ですか」
頭の上から声が降ってきて。
目を上げると、手元を覗き込んでいた伊織の顔が存外近くにある。
「……そうですね。淹れましょうか」
鼻先が触れ合う距離で微笑まれ、小夏はうなずきもできず、ただ、赤い顔で、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
それを、『諾』だと受け取ったのだろう。伊織は、しゅるりと音を立てて畳に膝をつくと、小夏の膝から、和紙ごとそれを受け取った。
「申し訳ありませんが、ちゃぶ台をだしておいていただけますか?」
からん、と下駄の音を立てて、伊織が厨房の方に姿を消した。