3話 五十鈴屋を出る
向かうのは支度部屋だった。
母屋とは渡り廊下でつながっており、使用人ばかりが足を運ぶ場所だ。
下働きの女たちが六人ばかりで一緒に生活している部屋。
そこに小夏の荷物がある。
障子と襖で割られたいくつもの座敷の前を足早に通り過ぎる。五十鈴屋の娘といっても、入ったことなどない。今日は結納だからと渋々入れてもらえたようなものだ。
「いいのよ。ほら、小夏の結納金が入るから。あれで買うの」
華やいだ声が少し開いた障子の向こうから洩れて来た。
思わず足を止める。
「えー。結納金ってったって……。あの小さな菓子屋だろ?」
たかがしれてるだろう、と投げやりな声がそれに続く。
声に引かれるように。
いや、引きずられるように。
小夏は開いた障子に近づく。
「それがねぇ。結構あったから、こっちでもいいってー」
肩口に反物を当て、くるりと回って見せたのは異母妹の八重だ。
「豪勢なことで」
その足元で、膝を崩し、笑っているのは異母兄の雄太郎だった。
「……結納金……」
知らずに口から洩れた震え声に、ふたりはのんびりと視線をこちらに向けた。
「あ。小夏」
おっとりと微笑む八重の顔は、ぼやりとかすんでいる。目の悪い小夏にはわからないが、この辺りでは有名な「小町娘」なのだそうだ。
彼女の肩口を彩る反物は目にも鮮やかな藤色で、これからの季節を先取るにはいい色に見えた。
「いい色でしょう。これにするね。どうもありがとう」
「礼なんて言うことない。この年になるまで育ててやったんだから」
ぶっきらぼうに言葉を投げ捨てるのは、こちらも「役者のようだ」と噂の雄太郎だ。何度も目を凝らしてみたが、彼の顔は真っ黒にくすんで、うまく見えたためしがない。
「何してんだよ」
茫然と立ち尽くしていたら、威嚇するように雄太郎に歯を剥かれた。
「さっさと、出ていけよ!」
「お……、お世話に、なりました」
振り絞るように言い、頭を下げる。
悔しくて涙が出そうなので、返事も聞かずに背を向けた。
(ありがとう、って……)
あの反物。あの支払い。
それに小夏の結納金が使われるらしい。
(……ありがとう、って……)
じわり、と涙が浮かんだ。
自分のための結納金が使われたのが口惜しいのではなかった。
あの、人のよさそうな。
そして、凛とした心意気をもった人が、必死で貯めたであろうお金を。
こんな風に使われることがひたすら悲しかった。
八重の着物に使われたのが、嫌だった。
あっさりと使い果たされたことに、地団太を踏みたかった。
歯を食いしばり、小夏は支度部屋に飛び込む。
朝早くから店の準備に取り掛かる使用人たちがいる部屋だ。
こんな時間には誰もいないだろう。
そう思っていたのに。
滑りの悪い襖を、ぎしぎし言わせて開くと、数人の仲間が残っていた。
「今から出ていくことが決まったって?! 準備しておいてやったから!」
一番古株の下女が、目に一杯涙をためて抱き着いてきた。
「さっき、平太に聞いたんだよ。仲人が追い返されて、結納金だけふんだくられて……」
嗚咽交じりに彼女は言い、「ひどい、ひどい」と怒った。
「しゅ、祝言もないなんて……。しかも、今日、追い出されるって……」
なんて、ひどい奴らだ、と古株の下女は小夏の代わりに悔しがった。憎んでくれた。その様子に、とうとう堪えていた涙があふれる。
「い、いままで……。いままで、育ててくれて……」
ふくふくとした彼女の身体に抱き着き、小夏は声を震わせた。「あり……、ありが……」。嗚咽が漏れて、最後まで礼の言葉が出てこない。
どん、と左から衝撃が来たと思ったら、こちらも中堅の仕事仲間が声を上げて泣いて抱き着いてきていた。
「来たときは……。まだ、舌足らずで……。こんなに小さかったのに……」
おいおい、と泣きながら彼女は小夏が幼かった頃のことを語る。夜泣きをよくした、とか。眠れない時は布団に潜り込んできた、とか、しもやけができたときは下働きの女みんなで手をこすって温めてやったこととか。
「この子が、初めて飴玉を食べた時の、あの表情を覚えているかい、姐さん」
「おぼえているさ。目を真ん丸にしてさ」
「も、もう……っ。何回も聞きました。『これは、お月様の欠片ですか』って言ったんでしょう?」
小夏が泣きながら笑うと、下働きの女たちも涙を流しながら、声を上げて笑った。
「姐さんがた! おやっさんたちに不審がられちまう。名残惜しかろうが、早く準備を!」
途端に、どんどんと襖が叩かれた。下男の平太だ。しわがれ声で、急かしている。
「ほら。これ。荷物をまとめておいてやったよ」
中堅の女が、一抱えもある風呂敷を小夏に押し付ける。
「これ……」
両腕で受け取りながらも、首を傾げた。
自分の荷物など、そうあるはずはない。わずかな下着と手拭い。それから、この五十鈴屋に来た時に身に着けていたという衣類だけのはず。
「あんた、小袖料も帯料もとられちまったんだろう?」
「着たきり雀ってわけにもいかないだろうし。とりあえず、あたしたちのこましな着物を入れておいたから」
小夏は慌てて首を横に振る。「じゃあ、皆さんの着物がなくなるじゃないですか」。押し返そうとしたが、逆にどん、と突き飛ばされる。
「あたしたちには、こんなことしかできないんだからっ」
「幸せにおなりよ」
背中を押されて、度部屋から出された。「あの……」。もう一度、ちゃんと顔を見ようと思った。
目が悪くて、最初ははっきり見えなかったけれど。
今では、目を閉じたら瞼の裏に浮かぶほどだ。仲間の顔をもう一度瞳に焼き付けようと思ったのだけど。
「早くしねぇと、また何言いだすかわかりゃしねえよ。その荷物も奪われちまう」
平太の皺だらけの手でぐいと掴まれ、小夏は必死に歩いた。
「……平太さんも、ありがとう」
ぐずぐずと鼻をすすり、礼を言う。こちらはこちらで、目を真っ赤にうるませて泣きそうな顔をしてうなずいている。
かんしゃくを起こした雄太郎に暴力を振るわれているとき、どこから聞きつけるのか、いつも一番に駆けつけては、なだめすかせ、小夏を救ってくれた。
「じゃあな。しっかりやるんだよ」
背を押され、小夏は震えるようにうなずいた。
両腕でしっかりと風呂敷を抱え、玄関に向かう。
衝立からそっとうかがうと、壁にもたれるようにして伊織は待ってくれていた。
「ああ」
姿を認め、彼は緩んだように笑った。
「準備ができましたか?」
尋ねられ、うなずいた。拍子に涙が頬を伝い、慌てて拳で拭うと、「すいません」とそっと謝られて、驚いた。
「お別れ、もっとゆっくりしたかったでしょう。急かせて申し訳なかったです」
ぺこりと頭を下げるから、小夏はたたきに飛び出して、首を横に振る。
「そんなことありません。お待たせいたしました。こちらこそ、すいません」
慌てて自分の草履に足をつっこみ、伊織より深く頭を下げる。
「いや、こちらこそ……。あれ?」
顔を上げたら、小夏が頭を下げていることに気づいたのだろう。
伊織が、また頭を下げている気配がある。
それに気づき、慌てて小夏はまた深く、腰を曲げる。
そうして。
ふたりで頭を下げ続け。
そっとうかがうように顔を上げると。
同時に目が合って。
数秒後には噴き出した。
「いやいや。時機というものは難しいですね」
くつくつと喉で笑い声を潰しながら、伊織は、するりと敷居をまたいで外に出る。
「さぁ、行きましょう。千寿堂へ」
はい、と頷き、小夏も踏み出した。
玄関から出るなど、初めてのことだ。
なんだか胸がどきどきしたが、敷居の向こうでは、伊織が微笑みながら待ってくれている。
待たせては悪い。
えいや、とばかりに小夏は外に踏み出した。