24話 縹の家
「そのなりあがるきっかけを作ったのは、五十鈴屋が、大枚はたいて、娘を買ったからさ」
とがった口を上下に開き、佳代が尊大な態度で言う。
「今、こっちが困ってんだ。金をくれても罰はあたらないってもんだよ」
「それは屁理屈でしょう」
完全に伊織は呆れている。強引すぎるというより、飛躍がすぎる。
「それに、こっちは、その娘をこの年になるまで育てたんだ。おまけに、嫁にも出したしな。その経費だよ」
「経費って……」
ため息交じりに伊織が吐き捨てた。
「あんただって、感謝してほしいよ。うちが、無料でここまで育てたから、あんたの嫁になったんだからね」
佳代がきつい声を発した。「そりゃそうだ」と重太郎はうなずく。細く横に伸びた唇が、小夏の前で、醜くゆがんだ。
「千寿堂さんだって、その娘、悪かない買い物だったろう?」
黒くかすんだ靄の向こうで、紫色をした瞳が薄気味悪く小夏を見ている。
「見ねぇうちに、だいぶん変わったじゃねえか。よくかわいがってもらって、しこまれたんだろ」
ただ、ひたすら怯えて伊織の背に回り込み、作務衣にしがみつく。
「ぼくは、小夏さんを妻に迎えたのであって、買ったわけではありません。それに」
背中に張り付いているからか、伊織の声が振動になって伝わってくる。
「祝言をまだあげてません。彼女もぼくも、節度ある生活をしています。そういう言い方はやめていただきたい」
きっぱりと言い切り、鼻白んだらしい。しばし、店内に静寂がおとずれた。
「お話はそれだけですか」
ぱしり、と音を立てて伊織は手拭いを広げると、手早く頭に巻き付けた。
「お伺いしましたが、小夏さんにもぼくにも、どうにもお役にたてそうにない。申し訳ありません」
単調に告げ、「さぁ、仕事に戻りましょう」と、背後の小夏に声をかける。
「小夏! お前、恩を仇で返す気かいっ」
最初に怒声を発したのは、佳代だ。「そうだ。この罰当たりめ!」と、重太郎がかぶせる。
「恩を持ち出すのはおかしいでしょう」
だが、一刀に切り捨てたのは、伊織だ。
「そもそも、あなたがたが、彼女にした仕打ちを、ぼくは忘れていませんよ」
小夏を背に庇ったまま、言い放つ。
「金の工面というのなら、私財でもなんでもなげうってご用意なさってはどうですか。うちはもう、かかわりのないことです。だいたい、祝言もせずに、放り出しておいて、よくそんなことが頼めますね」
「もし、五十鈴屋がつぶれたら、お前のせいだからな、小夏」
重太郎の怒声は、伊織越しに、小夏の心を揺さぶった。
(……潰れる……)
そこまで、切羽詰まっているのだろうか。
いや、そうなのだろう。
そもそも、小夏になど絶対頼みに来るはずがない。それなのに、こうやって足を運んできた、ということは、状況はかなり悪いに違いない。
(姐さんたち……)
胸を締めたのは、自分を守り、庇い、ここまで大きくしてくれた下働きの女たちや、下男たちだ。
五十鈴屋がつぶれるとしたら、真っ先に困るのは彼らだろう。
「……あの。どこに、お願いに行けばいいですか」
伊織の背にしがみついたまま、顔だけ出して、小さく尋ねる。
「小夏さん……」
眉尻を下げる伊織に、「ごめんなさい」と小さく詫びた。
「姐さんたちを……。見捨てられません……」
伊織は、困ったように口の端を下げていたが、ふ、と目元を緩ませ、微笑んでくれる。
「まぁ……。貴女らしいですよ」
「縹の家の住所はここに書いてある」
どん、と鈍い音がするから、肩を震わせてみやると、重太郎が床几台の上に書状らしきものを叩きつけて立ち上がったところだった。
(縹、というのが、お母さんの実家……?)
だがしかし、住所も名前もわかっているのなら、どうして自分で頼みにいかなかったのだろう、と不思議になるが。
すぐに、断られたのだ、と気づいた。
あるいは、妙な意地を張って、頭を下げたくないか。
そのどちらか、なのだろう。
「いいか。今月末までだからな。金をちゃんと用意して来い」
言うなり、さっさと暖簾をくぐって重太郎は出ていく。佳代は一瞥もくれずに、その夫の後を追った。
「……さて。通常業務に戻りますか」
ふう、と伊織が息を吐き、床几台に近づいた。持ち上げ、外に出そうとしていたので、「手伝います」と近寄るが、笑って首を横に振られた。
「小夏さんは、洗い物をお願いします」
はい、と返事をして厨房に足を向けたが。
「あの……」
伊織の背に声をかける。「なんですか」。敷居をまたいだ、妙な態勢で彼は振り返った。
「縹の家に……。一緒に、行ってくださいますか?」
おずおずと尋ねると、「もちろん」と陽気に笑ってくれる。
ほ、と小夏は息を吐いた。
「洗い物、してきます」
「よろしくお願いします」




