20話 ぼくも、我慢しているんです
◇◇◇◇
「なんでも欲しいもの、言って下さいよ」
ずらりと並ぶ露店を、物珍しげに眺めていたら、隣から声が降ってきた。
顔を上げると、伊織が悪戯っぽく笑っている。
「小夏さん発案のお陰で、うちは例年にない売り上げですからね。欲しいものは、どれでも、いくらでも」
言われて、おもわず小夏は足を止めた。
(……どれでも……。いくらでも……。)
簡単な片付けを済ませ、売上金だけ持って、伊織に促されるまま、境内を歩く。
小夏が思っていたより、露店は多い。
小さな子たちが群がり、親が注文するままに形を作っていく飴細工。
提灯の火を照り返して、真っ赤に耀くりんご飴。
さっきから甘い香りをふんだんに漂わせながら、かすみのように巻き取られる綿菓子。
遠くの方では人形焼きの匂いや、くじ引き屋の威勢の良い声が聞こえてくる。
「……どれがいいですか? それとも、もう少し見て回りますか?」
足を止めたまま動かなくなった小夏の顔をのぞき込み、伊織は尋ねる。
「あ……。いえ、あの。ぐる、っとこう、見て回って」
小夏は、指を回してみせる。ふんふん、とうなずく伊織に、きゅ、と口角を上げて見せた。
「それで、帰りましょう」
「なにも、欲しいものがありませんか? 遠慮しないで下さい」
途端に伊織の柳眉が寄るので、一瞬口ごもったものの、「では」と、意を決する。
「あの、食べてみたいものがあるんです」
「はい。なんでしょう」
嬉しげに伊織が首を右に傾ける。彼の髪がさらりと揺れ、提灯の橙色を孕む。
「本当に、なんでもいいんですね。たくさんでも」
念を押すと、小夏の勢いに押されたのか、ごくりと息を呑んだが、それでも発言は翻さなかった。
「どうぞ。ぼくにだって、二言はありませんよ」
「じゃあ」
伊織に向き直り、顔を上げる。
往来に立ち止まり、向かい合うふたりを、客達は不審げに一瞥し、通り過ぎていった。
「家に帰って……。千寿堂の商品を、全部、いっこずつ食べたいです」
しばらく、固まったように動かない伊織の様子を伺っていたが、呼吸を十五ばかり繰り返しても、彼が何も言わないことに、小夏は焦る。
「あ、あの……。やっぱり、いいです。す、すみません……」
両手を振り、俯いたら、「食べたらいいじゃないですかっ」と音程を外した声に、がつん、と後頭部を叩かれたようで、小夏は首を竦めた。
「ああ、すいません。大きな声を出して」
慌てて背を撫でられ、「ひぃ」と小夏は顔を上げる。
すぐ間近にあるのは、困惑する伊織の顔だ。
「食べればいいじゃないですか。言って頂ければ、いつでもお出しするのに」
「そんなわけにはいきません」
小夏はきっぱりと首を横に振る。
店頭に並んでいるのは、〝商品〟だ。
良い匂いだ、可愛らしい、華やかだ。
そんな風に思っても、実際口に入れることは、ならない。
そこに並ぶのはあくまでお客様のために提示された品であり、自分たちが胸を張って売るべきものだ。
「だけど……」
情けなく、眉を下げて、小夏はちらちらと伊織を見上げる。
「私、この年まで、あんまり甘いものを食べたことがなく……」
五十鈴屋の下働きは、藪入りには、帰省を許された。
実家に帰った者は、饅頭や餅などを家族から持たされたり、休暇中に口にしたりするようだが、小夏にはその帰るべき実家もないし、金もない。
「初めて、飴を食べたとき、お月さまの味はこんな味がするのか、と尋ねたぐらいだそうで……」
姐さんたちは、不憫がってはくれたが、だからといって、なにかをくれるわけではない。
たまに料理屋の方に顔を出すと、「甘いものを買ってあげよう」と酔客に腕を取られる事もあったが、平太がいつも間に入ってうまく誤魔化してくれた。
「だから、実は毎日並ぶお菓子をみていたら、どんな味がするんだろう、っておもって……」
言いながら、どんどん顔が熱くなる。
なんと食い意地の張った恥ずかしいことを言っているのだろう。
気づけば俯いていたが、がばりと顔を上げ、「忘れて下さいっ」と悲鳴を上げる。
「なんでもありません。このまま、露店を眺めて帰り……」
ましょう、という小夏の語尾は、「ごめんなさい」という伊織の言葉に消えた。
「貴女のことを、妻だなんだと紹介しておきながら……」
肩を落とし、悄然と小夏を見つめる伊織は、今にも泣き出しそうだ。
「ぼくは、なんて不甲斐ない夫だったんだろう……」
顔を覆い、項垂れる。ついでに、うう、と呻いてさえいて、小夏は驚いた。
「は!? え!? 伊織さん!? ち、違うんですよっ」
ちがう、と口にしながらも、じゃあ、何が違うのか、といわれたら意味はわかっていないのだが、ぴょこぴょこと伊織の周囲を跳ね回り、「伊織さん、伊織さん」と不安げに呼びかける。
「ぼくは今、決めました」
突然、顔を起こしたかと思うと、決然とそんなことを言い出す。
「あ……。そうですか」
なにがだろう、とは思うが、とにかく、元気になったようでなによりだ、と小夏はほっとする。
「もう、菓子なんて見るのも嫌だ、というぐらい、貴女に腹一杯菓子を食ってもらいます」
「……へ?」
ぽかん、と見上げている、伊織はひとり、大きく頷く。
「小夏さん」
「は、はい」
「どんなに貧乏で、金の工面に困っても、貴女に菓子だけは毎日食べさせていくことを誓います」
金の工面に困ったら、どうやって菓子を作るのだろう、と思ったが、勢いに飲まれて、「ありがとうございます」と応じた。
「ですが、とりあえず、今日はもう、店の菓子もなにもかも売り切ってしまいましたので……」
しょぼん、と眉尻を下げ、伊織はぐるり、と露店を見回した。
「今日の所は、どこかの露店の菓子で勘弁して下さい」
「もちろんです」
がくがくと首を縦に振ると、「よかった」と顔をほころばせる。
「では、なにがいいでしょうかねぇ」
からん、と下駄の音を鳴らして伊織が歩き出す。それに合わせて足を踏み出した小夏だが。
隣に並ぼうとして、ふと、甲が伊織の手に当たった。
咄嗟に、離れようとしたのだが。
その手を、ぐい、と握られる。
目を見開いて顔を上げると、口の端に笑みを滲ませた伊織と目が合った。
「折角なので、こうして歩きませんか?」
大きな手に、ぎゅっと包まれ、小夏は首まで真っ赤になったまま、「はあ」とも「ええ」とも言えない返事をし、周囲を見回す。
指を絡めて歩いたり。
腕を組んだりしている。
そういう若夫婦もいるが。
照れくさいというより、自分など、場違いなのではないか、と肝が冷える。
そろり、と伺いみる伊織は、どうみても男前だ。
対して、自分はどうだ。
ざぶざぶ洗えるから、という理由だけで昔から持っている麻の着物を身に着け、髪はただ、結い上げただけ。かんざしすらない。
通り過ぎる同い年ぐらいの娘は、みな、綺麗に着飾っているではないか。
(どうしよう……)
断った方が良いのか。それとも、言われるまま手をつないだ方が良いのか、と、めまぐるしく考えていたら。
「あの、ですね」
伊織が、つないでいない方の手で頬を掻く。
「貴女が、ぼくの作る菓子を我慢していたように」
背をわずかに屈め、伊織が、そっと小夏の耳に口を寄せた。
「ぼくも、毎日貴女にふれるのを我慢しているんです」
彼の言葉が耳朶を撫で、鼓膜に流れこんだ瞬間。
小夏は首どころか、足の小指まで真っ赤になった気がした。
「今日ぐらい、こうやってても、いいですか?」
そっぽを向いてそう言う伊織の耳は、こちらも真っ赤だ。
「そ、そそそ、そうですね」
ようやくそれだけ返すと、伊織は目元をほんのり染めて、「よかった」と微笑んだ。
このあと。
ぐるりと露店を回って、りんご飴を買ってもらい、千寿堂に帰ったはずなのに。
その記憶は酷く曖昧で。
それなのに。
握られた手の大きさとか、指の動きとか。ぬくもりとか。
そういうのばかりを。
小夏は覚えていた。




